6 オルゴール⑤
次の日のことだ。いつものようにホテルを抜け出て、あきらは公園に来ていた。
「今日は私が先だ」
公園には人の姿がなかった。あきらはドームの内側ではなく、上に昇る。気持ちがいいほどの青空と入道雲が見えた。
「陽作は、まだかな」
肌に汗が浮かんでは、夏の暑さに溶けていく。夏空をぼんやり見上げながら陽作を待っていると、
「ね、ねぇ」
聞き覚えのない声が聞こえた。
「ねぇ、呼んでいるんだけど」
「……私、ですか?」
あきらは最初自分に話しかけられたと気づかなかった。視線を下に向けると、あきらと同じくらいの齢の子どもたち3人が、あきらを見上げていた。
男の子が2人と女の子が1人。当然ながら、これまで話したことはない。でも陽作と遊んでいるとき、遠くで見かけたような気がする。
「何か、御用ですか?」
子どもたちはどこか困ったように顔を見合わせる。それから、坊主頭の男の子が一人前に出て口を開いた。
「その、俺たちと一緒に遊ばない?」
「あなたたちと一緒にですか」
「そう」
あきらは眉をひそめる。どう答えたものかと考えていると、子どもたちはちらちらと、視線を公園の入口に向けていた。
その表情には覚えがあった。
母親の怒りを浴びた時のあきらと同じ。子どもたちは何かに怯えていた。
「すみません。私には約束がありまして」
「その約束って、あいつとのだよね」
「あいつって?」
「向井陽作」
ためらうように坊主頭は言う。
「そう、ですけど」
陽作のことを知っているらしい。けれどおかしい。
陽作の名前を呼ぶ坊主頭の言葉は、やっぱり恐れを含んでいるように感じられた。
「だ、大丈夫?」
そう言ったのは女の子だ。
「あいつに、何か嫌なこととか言われたり、されたりしてない?」
「へ?」
「たたかれたりとか」
「殴られたりとかさ。俺たちあいつによくされてるから」
「そうそう。それだけじゃないんだよ。先生にもいっぱい嫌なこと言うしさ」
「そうだよね。真子先生あんなに優しいのに」
「この間なんて、6年生とけんかしてたんだよ」
「ほかにも――」
子どもたちの堰を切ったように、陽作への悪口がこぼれ出してくる。
悪口を言う。暴力をふるう。先生に口答えする。その言葉一つ一つを、ドームの上に座ったまま、あきらは受け止める。
あきらの心は、意外なほどに凪いでいた。彼らの言葉が嘘だと思ったわけではない。本当だと分かったうえで、思いは揺らがなかった。
あの夕焼けの世界で、不器用に差し伸べてくれた手を、あきらは覚えている。
一緒に遊んで笑い合った日々が、あきらの中には確かにある。
「陽作は」
子どもたちの言葉が途切れた瞬間、あきらは言った。
「陽作は、優しいですよ」
あきらは口元に笑みを浮かべ、そっと目を伏せる。子どもたちは信じられないという顔をする。
「だって――」
「おい!」
その時、鋭い声が公園に響いた。びくりと、子どもたちの肩が震える。
「向井陽作」
坊主頭がつぶやく。
「お前ら、ここで何してんだよ」
公園の入口に立っていたのは陽作だった。陽作はあきらに群がる子どもたちを見ると、歯をむき出し、顔を真っ赤にして子どもたちをにらんでいる。
ドンドンと、地面を踏みつけるような足取りで陽作は公園の中に入る。
さっきまで陽作の悪口を言っていた子どもたちは、顔を青ざめさせてせわしなく目を泳がせている。
「黙んなよ」
陽作の声は低い。陽作は坊主頭のすぐそばで立ち止まり、目を大きく見開いてにらみつける。
「ひっ」
「あきらに、何もしてねぇだろうな」
陽作が坊主頭に手を伸ばす。坊主頭は顔を引きつらせる。
「陽作」
ひらりとドームから降りながら、あきらは陽作に呼び掛けた。陽作の手がぴたりと止まる。
陽作はあきらを見て、わずかに瞳を揺らした。伸ばした手をふるえるほど強く握りしめる。
「あきら」
「今日は、何をして遊びますか?」
陽作の手が力を失ったように、垂れ下がる。坊主頭はそんな陽作の様子に、目を瞬かせる。
「あの……」
女の子が、おろおろとあきらに何か言おうとして、口を閉じる。陽作はこらえるように、口を強く噛みしめる。
公園脇の道路を一台の車が通る。エンジン音がやけに大きく聞こえた。
「くそっ」
小さく毒づき、陽作はあきらへ一歩踏み出す。
あきらは自然と陽作へ手を伸ばしていた。
「行くぞ」
陽作はあきらの手を乱暴につかみ取り、公園を飛び出した。
その様子を、子どもたちは唖然とした顔で見送っていた。
*
いつもよりずっと早足で、陽作はあきらの前を行く。
つないだ手も、いつもよりずっと痛くて、熱い。
二人は無言で、町を進んだ。住宅街を抜け、田畑の広がる道に出る。小さな川が脇を流れている。
どんどん先を進む陽作の後ろ姿は、なぜか頼りなく見えた。
「陽作、さすがに痛いです」
「あっ……ごめん」
言うと、陽作はぱっと手を離した。立ち止まり、少しぬかるんだ地面に視線を落とす。
そのまま陽作は黙り込んでしまった。
いつもの陽作と違う。なぜだろうと、あきらは思う。いや理由はわかっている。さっきの子どもたちが言っていたことを聞いたのだろう。
「ごめん」
同じ言葉を、陽作は言った。
「どうして、謝るんですか?」
「それは」
陽作は顔を上げ、口ごもる。
「つないだ手が痛かったことは許してあげます。歩くのが早かったことも許してあげます。陽作が謝ることなんて何も」
「そうじゃなくて!」
陽作が悪いなんて思っていない。あきらの言葉を陽作は遮る。何かを言おうとして、小さく口を開け、また閉じる。意を決したように、小さな声でつぶやいた。
「俺、おかしいから。普通じゃ、ないから」
何を言っているのだろう。あきらは首をかしげる。
「あいつらから、いろいろ聞いたんだろ。俺のこと」
「……はい」
「あきらは、俺のこと、嫌いになったか?」
陽作の声は弱々しかった。こんな陽作は初めて見た。驚きとともにあきらは答える。
「陽作は、私を守ってくれたんですよね」
「俺は」
「陽作は、優しいです」
陽作ははっと息をのんだ。顔をくしゃくしゃにゆがめ、拳をぎゅっと握りしめる。
あきらは一歩前に踏み出す。陽作の隣に立つ。手はつながれていない。けれど、あきらの胸に温かなものが広がる。
「陽作?」
「俺、こんなんだからさ。友達とかいなくて」
「そうですか」
子どもたちの言葉を思い出す。彼らは陽作を見ておびえていた。
「俺のことを怖がらないでいる人ってあきらと、真子先生くらいなんだ」
「真子先生? 陽作は時々先生って言葉を使いますよね」
「あきらは学校にも行ったことがないんだよな」
「はい。学校ってどんな場所なんですか」
「そうだな……」
陽作は空の太陽に目を向ける。まぶしさに陽作は目を細める。
「あいつらみたいな子どもがたくさんいて、先生っていう大人がいる。それでみんなで勉強するんだ。国語とか算数とか、そういうの。あと、運動したり、いろんなものを作ったり」
陽作の言う学校を想像する。広く明るい場所で、あきらと陽作は一緒に同じことを学ぶのだ。
いいな、とあきらは思う。
「なんだか楽しそうですね」
「他のやつらは楽しい、のかもな。でも俺は全然楽しくない。友達もいないし。俺、おかしいからさ」
陽作のおかしい、という言葉には力がこもっていた。
「どうして?」
「俺は口が悪いから」
あきらから顔をそらして陽作が答える。
「ケンカもすぐする。だから俺に近づいてくるやつなんていなかったんだよ。あきらが初めて」
「でも、真子先生という人は違うんですよね」
「あぁ」
「真子先生って、どんな人なんですか」
「変な先生だよ」
目を細めて陽作は笑う。
「おバカで、テンション高くて、勘違いもすぐして。でも俺のことをちゃんと見てくれて、ちゃんとしかってくれるのは、真子先生だけだ。でも今は夏休みで、会えないし」
夏休み? 前も言っていたその言葉に、あきらは引っかかった。陽作は学校に行っていると言っていた。あの子どもたちも、陽作と同じ学校に通っているはずだ。でも今陽作はあきらと一緒にいるし、彼らも別の場所で遊んでいた。
ならいつ、陽作たちは学校に行っているのだろう。
あきらの胸に不安がよぎる。
「だからさ、今はあきらが隣にいてくれて本当にうれしいんだ」
力なく陽作が笑う。
「あきらがいてくれたから、一人じゃないって、思えた。でも」
「でも?」
そこでまた、陽作は言葉を途切れさせる。陽作はこらえるように唇を結んでいた。
それに。
さっき、学校の説明をするときに陽作は魔法のことを話さなかった。これまで遊んでいるときもずっとそうだ。
陽作は一度も、魔法のことを口にしていない。
もしかして、あきらと陽作の住む世界は、違うんじゃないか?
もし、そうだとしたら。
ぞくりと、鋭い恐怖があきらを襲った。
「ねぇ――」
「夏休みはもう――」
どうか安心させて。口を開いたそのときだ。
――深い穴に落ちていくような、冷たい風がぬるりと吹いた。
ふっと、視界が暗くなる。川の水の流れる音が消える。静寂が広がる。夏とは思えない冷たい空気が二人を包み込んだ。
「――え?」
その声はあきらのものか、陽作のものか。あるいは二人のものであったか。
あきらと陽作は、きょろきょろとあたりを見回す。
入道雲の見える青空はすでに存在しなかった。暗い藍色の空、頂点には不気味に輝く三日月が浮いている。見渡す限り全ての明かりは全て消えていた。
にもかかわらず、どことなく明るい。月明り以外の光はないにもかかわらず、うすぼんやりと周囲を見渡すことができた。
「なに、これ」
不可思議な夜の世界が、二人を出迎えていた。
あきらは陽作と顔を見合わせる。陽作は慌てる様子はなかった。ただぽかんとした顔で、夜の世界を眺めていた。あきらもまた心は落ち着いていて、この夜の世界を心地よいとすら感じて始めていた。
この状況を、異常だと思えない。
あきらは胸に手を当てる。さっきまで感じていた不安も、恐怖も今は感じなくなっていた。
失われている。この感覚を、あきらは知っていた。
「代償」
つぶやく。
『呪術師は他人の大切なものを代償にして魔法を使う。それを呪術と呼びます』
母親の言葉。不安も、恐怖も、警戒心も、あきらから失われていく。奪われていく。そこであきらは気づいた。
ここは、呪術師の腹の中だ。
その事実に、あきらは恐怖を覚えることができなかった。




