4 オルゴール③
もっと、もっと知りたい。
感動と衝動のままに、あきらは走り出していた。靴から伝わる地面の硬さが心地いい。走ると体から吹き出た汗が、空気に溶けて気持ちがいい。
さんさんと照り付ける太陽が、無造作な人の群れが、全ての初めてが、あきらをこの上なく興奮させていた。
尽きない体力のまま、あきらは走る。
道のわきに見たことのない大きな機械を見た。見知らぬ人がそれに何かを入れると、ガタンと音を鳴らして缶を吐き出した。
あきらは走る。
いっぱいに広がる田んぼを見た。間近に見る田んぼは腐ったような匂いがして、すぐに離れた。
つまずき、転びかけたところを老人が助けてくれた。
「大丈夫かい?」
そんな風に心配されたことが初めてで、あきらは固まってしまった。
何もかもが初めてのことばかりだった。
だから、あきらは走って、走って――
「あれ?」
走るのをやめ、周囲を見渡す。
太陽は沈みかけ、色を茜に変えていた。あきらから伸びる影は長い。熱を帯びた空気は少しずつ冷めていき、ぬるい風がふいた。
夕焼けの世界の中、あきらは独りぼっちだった。
「ここ、どこ?」
あきらは迷子になっていた。
もし、両親が帰ってくるまでにホテルに戻れなかったら。
『あなたはここで過ごしなさい』
「ひっ」
母親の言葉がよみがえる。あきらは恐怖にすくみ、両手で体を抱いた。
顔のない建物たちが、あきらを威圧する。
感動ばかりだった外の光景が、急に恐ろしいものに見えた。
「か、帰らないと」
ぶつぶつとつぶやきながら、あきらは一人おろおろと歩く。だが、一向にホテルは見当たらない。
焦りと恐怖で、次第にあきらの息が上がってくる。
太陽は時とともに沈んでいき、あきらの心を急き立てる。
すぐそばを、同じくらいの年ごろの子どもが通りがかる。
「まって……」
喉から絞り出したような弱々しい声だった。彼らは見覚えのないあきらをちらりと見るが、助けてはくれない。そのまま走り去ってしまった。
途中、通りがかる大人に話しかけようとしたが、もしさっきの子どもみたいに無視されたら。そう思うと声が出なかった。
やがて、あきらは小さな公園にたどり着いた。公園には、ドーム状の遊具がある。逃げこむように、あきらはそのドームの内側に入り込んだ。
ドームの内側の空気はこもっていて、狭い部屋の中を感じさせる。あれほど出たいと思っていたあの場所と似た感覚が、今のあきらには居心地よく感じた。
暗いドームの内側で、あきらは体を小さくする。汗臭い自分の匂いを吸い込み、それがまた、自分が外の世界にいることを認識させる。
「うっ……ぐすっ」
あきらの目から涙がこぼれた。一度こぼれ始めたらもう止まらない。次から次に目からこぼれてくる。鼻がつんとする。鼻水が垂れてきたからずずずとすする。
助けてほしい。誰か、私を見つけて。
声を殺して、あきらは泣いた。暗いドームで一人きり。人目を避けるように泣いた。
どれほど一人で泣いていただろう。タイムリミットを迫るように、太陽はますます沈み、夜の藍色が広がっていく。
その時だ。
「あん?」
一人泣くあきらの近くで、声が聞こえた。少年にしては低く、ぶっきらぼうな言い方だった。
「なんだ、お前」
その声に引っ張られるように、あきらは顔を上げた。涙で視界はゆがんでいた。何度もあふれる涙を手でぬぐう。
ドームの外に、汚れた服を着た少年が一人立っていた。夕焼けに照らされた顔は、不機嫌そうにゆがんでいる。年相応の幼さはなく、乱暴な気配を帯びている。
少年はうずくまって泣くあきらを見て、そのぼさぼさの長い黒髪を見て、
「きれいな、黒髪だな」
と言った。
あきらは汗で濡れた髪に手を当てる。きれいな髪だとは思えなかった。
少年は意地の悪い顔をしていた。とげのある言い方で、あきらを傷つけようとする悪意があった。
けれど、孤独に苦しんでいたあきらにとって、少年は救いの手を差し伸べてくれているように見えた。
「ありがとう」
だから、あきらは涙でくしゃくしゃになった顔で言った。
悪意にお礼を返されて、少年は面食らった様子だった。どうしたものかと、つまさきで足元の土をほじくり、乱雑に伸ばされた髪をがりがりとかく。
「はぁ。調子狂うな、クソ」
少年は大きな舌打ちを一つして、少年は少女に手を差し伸べた。
「そこは俺の特等席だ。だから、まずはそこから出ろ」
「……うん」
あきらは少年の手を取った。力強く引っ張られる。
暗く狭い世界から、夕焼けの広い世界へと。
夕焼けの光が、あきらの目を焼く。トクンと、あきらの胸が小さく鳴った。
*
「――あー、つまり初めて来た町で、うれしくて走り回ってたら迷子になった、と」
「うん」
「お前、馬鹿なの?」
ドームに二人並んで背中を預け、あきらはこれまでの話をしていた。あきらから事情を聞いた少年は、あきれたと顔をしかめる。
「かも。興奮、しちゃってたんだと思います」
「あっそ」
少年のそっけない返事には相当な棘があったが、あきらは一向に気にしない。
「ってか、何? 俺の聞き間違いじゃなければ、あんた今日生まれて初めて外に出たの?」
「そうです」
疑うように少年は鋭い視線をあきらに向ける。あきらはその視線に、ぽかんとした顔を見せる。
「あーくそ。まじで調子狂う!」
あきらが嘘をついているように見えなかったのだろう。少年はがしがしと地面を蹴った。
「その話が本当なら、あんたの親ってどんだけクズなの? 普通じゃねぇよ。 マジクソじゃん。死んだ方がいいんじゃないか?」
あきらは少年の言葉に、あいまいに首をかしげる。
「その、みんなそういうものではないんですか?」
「あー、もう!」
ついに少年は叫んでしまった。
「なわけないだろ! 間違いない! お前の親はマジのクズでカスだ! でも……」
少年は唇を強く噛みしめる。
「俺たちはガキだから、どんだけクズな親でも頼んないといけないんだよな。わかる。それは、わかってる」
「それは」
憎しみのこもった少年の言葉。その矛先はあきらの両親ではない、別の何かに向いていた。
少年は顔をしかめてうなり、ぶんぶんと首を振る。それから真剣な顔であきらに聞く。
「聞いてた感じ、あんたのいたホテルって駅近くのどれかだろ。駅まで行けば道わかりそうか?」
「多分」
あきらは記憶力がいい。近くまで行けばなんとかなるという自信があった。
「わかった。なら、そこまで送ってやる。時間、あんまりないんだろ」
「はい」
いうや否や、少年は駅の方向へ歩き出してしまった。引きずられるように、あきらも歩き出す。
「ま、待ってください!」
「待たない。とっとと行くぞ。っていうか、いつまで俺の手、握ってるつもりなわけ?」
「へ?」
あきらは最初に手を差し伸べられてからずっと、少年の手を握っていた。あんまり固く握っているものだから、少年もここまで言い出せなかったらしい。
「その、ホテルに着くまでは」
あきらは手を離したくなかった。熱い少年の手を握っていると、心が落ち着くような、逆に波立つような不思議な感覚になるのだ。
「あー、もういいや。行くぞ」
とうとう諦めの境地に達した少年は、あきらと手をつないだまま、速足で進む。
夜の近づく夕暮れの町を、あきらは少年に引っ張られながら歩いた。
夕暮れの世界は、また違ったものをあきらに見せてくれる。次第に暗くなる町。柔らかい虫の音色。優しく吹き抜ける風。
夏の夕暮れは、じんわりとしみいるように優しくて、暖かい。
「そうだ、名前!」
「今度は何だよ」
黙って歩いていると、道を歩く人の数がだんだんと増えてくる。あきらもうっすらと見覚えのある場所になってきた。
もうすぐ終わってしまう。この少年と別れてしまう。さみしさがこみあげてきて、こらえきれずに口走る。
「私、あきらって言います。重日あきら。あなたの名前は?」
「なんで、名前なんか」
険しい顔の少年が言う。この少年の名前を知りたい。その理由はなぜ?
「名前を知れば、ずっと覚えていられる気がするから」
この初めての外の世界の冒険のことを。
孤独に泣いていたあきらを助けてくれた少年のことを、あきらはずっと覚えていたいと思ったから。
少年は足を止めた。ほとんど沈んだ太陽に視線を向ける。少年の握る手の強さが、ほんの少し強くなった。
はぁ、と少年は深いため息をつき、あきらの顔を見ずに答える。
「覚えていられるってな。あんたが別に会いたいなら、また会ってやっても、いい」
「本当ですか!」
二度目がある。あきらは目を輝かせた。思えば当然のことだ。
明日になって、朝になったらまた外へ抜け出せばいい。今日よりももっと長く、この少年と一緒にいられる。
「本当だよ。俺は、嘘が嫌いだから。あとさ」
「へ、あわわっ」
少年はあきらに近づき、がしがしと乱暴に手櫛であきらの髪を整える。ぼさぼさだった髪が整っていく。あきらはそんな自分の髪に触れる。
「最初、嫌なこと言って悪かった。あんたの、あー、あきらの髪がきれいだってのは本当だよ」
ドクン、心臓がはねた。握る手がカッと熱くなる。手どころか顔が、全身が燃えるように熱かった。きっとあきらの顔は今真っ赤になっている。
「それで名前だったな」
沈みかけの太陽が少年を照らす。少年の顔もまた、赤く染まって見えた。
「陽作。俺の名前は向井陽作だ。また、明日な」
顔を背け、陽作は不機嫌そうに言うのであった。
*
ホテルの前まで来て、あきらは陽作と別れた。来たときと同じように幻惑魔法で姿を隠して部屋に戻る。
両親はまだ帰ってきていなかった。入口わきに置かれたぬいぐるみはまだ首を垂れたままだった。あきらは魔法を解いて、ぬいぐるみの頭をもとの形にもどす。
汗臭い体をシャワーで洗い流して、ソファに座った。
「陽作。陽作。向井、陽作」
彼の名前をつぶやく。ドクン、ドクンと胸は変わらず高鳴っていた。
陽作と握っていた手をじっと眺める。手はまだ熱を持っていた。痛いくらいに熱い。
「ふふ」
思わず、頬がゆるみ、笑い声が出た。
「楽しかった、な」
心がじんわりと温かい。今日の出来事を振り返っていると、急に眠気が襲ってきた。抗えず、うとうととする。
バサリ。物音がして、あきらは目覚めた。
「読んでおきなさい」
顔を上げると、父親の姿があった。無表情にあきらを映すその目に、あきらの心は凍り付く。
「はい」
反射的に言葉が出た。目の前のテーブルを見ると、厚い紙の束が置かれていた。
父親が入口に置かれたぬいぐるみに目を向けた。
ばれたらどうしよう。心臓が脈打つ。陽作の名前をつぶやいたときとはまるで違う、苦しさばかりの鼓動だ。
「……気のせいか」
だが、父親は気がつかなかったらしい。ぬいぐるみから目をそらす。
そこであきらは母親の姿がないことに気付いた。
「お母様は」
「買い物だ」
あきらの顔も見ず、父親は短く答えた。
「どうもこの町も最近きなくさいらしい。厄介な呪術師が入り込んでいるようだ」
「そう、ですか」
父親はそのままシャワーを浴びに行った。一人になったあきらは、目の前の紙の束を手に取る。
「また、明日」
早く読んでしまおう。そして、陽作ともう一度会うのだ。
繰り返しの毎日にずっと苦しんでいたあきらは初めて、明日を待ち遠しく思っていた。
彼のことを思うと、不思議とあきらの冷えた心にぬくもりが帰ってきた。
名前ですが、
重日 日日日 (かさねび あきら)
向井 陽作 (むかい ひさ) です。ようさくではありません。




