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化け物は恋を食べられない  作者: 夜唏


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6/7

6話 落花、枝に帰れず

動けない彼女を尻目に、青年がよろよろと立ち上がる。

 だが、立ち上がった途端、ふらりとその身体が揺れた。

 青年は苦しそうに胸元を押さえ、浅い呼吸を繰り返す。


「……っ、は……」

 息がうまく吸えないのか、青年は襟元を緩めるように服を引いた。


 彼女は、気がつけばその手を青年に伸ばしていた。

 なぜそんなことをしたのか、自分でもわからない。

 それでもその指に、迷いはない。


 青年は驚いたように身体を固くしたが、振り払おうとはしなかった。


 彼女は爪で柔肌を傷つけぬよう、注意深く服の襟を広げる。

 青年の胸元、ちょうど彼女が指でなぞっている場所のすぐそばに、それはあった。

 

 顔も、声も、名も、彼女はとうに手放している。

 それでも、指先だけが何かを思い出したように、その引っ掻き傷の痕を撫でている。


 青年が、不思議そうに彼女を見た。

「……あ、これ……この痣、生まれつきなんです……」

 青年がぽつりと呟く。

 彼女は青年の顔をよく見ようと顔を上げる。


「ひっ!——ご、ごめんなさいっ……」

 彼女の淀んだ瞳に青年が映ると、短い悲鳴が上がる。

 

 青年が何に謝ったのか、なぜ彼女が喰わないのか、何もわからない。

 ただ彼女の身体の奥の方で、静かに沈んでいた何かが、微かに身じろぎしたような、そんな感覚だけがあった。


 ◇


 彼女も青年も硬直して数分。

 青年が、ぽつぽつと話し始めた。


「あの、うちの家系に、昔から伝わってる話があって……」

 彼女は何も言わず、青年の胸元の痣だけど見つめている。

「……大昔のご先祖様が、山の奥の化け物屋敷……に、迷い込んだんだそうです。……普通なら、食われて終わりのはずなのに、なぜか、生きて帰ってきたって……」


 彼女の瞳が、青年の顔に映る。

「っ……それで、その時、化け物に、引っ掻かれた……って話で……。それから、生まれつき痣のある子供が、生まれるようになったって、聞いてます……」


 彼女は、青年の言葉を、ただ黙って聞いていた。


 彼女は、あの記憶を自分の手で葬っている。

 だが、人間の世界では、それは物語という形を以てして、誰にも気づかれないまま生き延びていたのだ。


 彼女の中に残っていたものより、より鮮明に、より長く、より確かに。

 忘れたはずの記憶が、まるで底に沈んでいた泥をかき混ぜられたように、ゆっくりと浮かび上がってくる。


 青年の声に反響るように、まず声が戻ってきた。

 次に、 名を口にしたときの響き、それから、笑ったときの息の抜け方。

 青年の睫毛が震える目は、怯えながらも、彼女を見上げていた目の形を呼び起こす。

 

 完全ではない。

 輪郭の甘い、ぼやけた記憶だった。


 抱かれたときの重みと温度は、他の記憶よりも先に、するりと元の形に馴染んでいる。

 彼女は、自分の中に戻ってきたそれらを、ゆっくりと組み立て直してた。


 けれど、確信は持てなかった。

 三百年という時間は、あまりにも長すぎたようだ。

 どれだけ思い出しても、完全な形には戻らない。

 輪郭のところどころが、どうしても霞んだまま。


 そして、ふと目の前にいる青年の顔を見たとき、彼女の中で、その二つの顔が重なった。

 輪郭の線が、目元の角度が、ほんの一瞬だけ、あの夜の男と同じ形を結んだ。

 

 だが、すぐにそれは解けた。

 

 違う——当たり前のことだった。重なるはずもない。

 三百年も前の人間が、今ここにいるはずがないのだから。

 目の前にいるのは、あの男ではない。

 彼女はそのことを、静かに、はっきりと理解した。

 

——この人は、あの人ではない。


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