6話 落花、枝に帰れず
動けない彼女を尻目に、青年がよろよろと立ち上がる。
だが、立ち上がった途端、ふらりとその身体が揺れた。
青年は苦しそうに胸元を押さえ、浅い呼吸を繰り返す。
「……っ、は……」
息がうまく吸えないのか、青年は襟元を緩めるように服を引いた。
彼女は、気がつけばその手を青年に伸ばしていた。
なぜそんなことをしたのか、自分でもわからない。
それでもその指に、迷いはない。
青年は驚いたように身体を固くしたが、振り払おうとはしなかった。
彼女は爪で柔肌を傷つけぬよう、注意深く服の襟を広げる。
青年の胸元、ちょうど彼女が指でなぞっている場所のすぐそばに、それはあった。
顔も、声も、名も、彼女はとうに手放している。
それでも、指先だけが何かを思い出したように、その引っ掻き傷の痕を撫でている。
青年が、不思議そうに彼女を見た。
「……あ、これ……この痣、生まれつきなんです……」
青年がぽつりと呟く。
彼女は青年の顔をよく見ようと顔を上げる。
「ひっ!——ご、ごめんなさいっ……」
彼女の淀んだ瞳に青年が映ると、短い悲鳴が上がる。
青年が何に謝ったのか、なぜ彼女が喰わないのか、何もわからない。
ただ彼女の身体の奥の方で、静かに沈んでいた何かが、微かに身じろぎしたような、そんな感覚だけがあった。
◇
彼女も青年も硬直して数分。
青年が、ぽつぽつと話し始めた。
「あの、うちの家系に、昔から伝わってる話があって……」
彼女は何も言わず、青年の胸元の痣だけど見つめている。
「……大昔のご先祖様が、山の奥の化け物屋敷……に、迷い込んだんだそうです。……普通なら、食われて終わりのはずなのに、なぜか、生きて帰ってきたって……」
彼女の瞳が、青年の顔に映る。
「っ……それで、その時、化け物に、引っ掻かれた……って話で……。それから、生まれつき痣のある子供が、生まれるようになったって、聞いてます……」
彼女は、青年の言葉を、ただ黙って聞いていた。
彼女は、あの記憶を自分の手で葬っている。
だが、人間の世界では、それは物語という形を以てして、誰にも気づかれないまま生き延びていたのだ。
彼女の中に残っていたものより、より鮮明に、より長く、より確かに。
忘れたはずの記憶が、まるで底に沈んでいた泥をかき混ぜられたように、ゆっくりと浮かび上がってくる。
青年の声に反響るように、まず声が戻ってきた。
次に、 名を口にしたときの響き、それから、笑ったときの息の抜け方。
青年の睫毛が震える目は、怯えながらも、彼女を見上げていた目の形を呼び起こす。
完全ではない。
輪郭の甘い、ぼやけた記憶だった。
抱かれたときの重みと温度は、他の記憶よりも先に、するりと元の形に馴染んでいる。
彼女は、自分の中に戻ってきたそれらを、ゆっくりと組み立て直してた。
けれど、確信は持てなかった。
三百年という時間は、あまりにも長すぎたようだ。
どれだけ思い出しても、完全な形には戻らない。
輪郭のところどころが、どうしても霞んだまま。
そして、ふと目の前にいる青年の顔を見たとき、彼女の中で、その二つの顔が重なった。
輪郭の線が、目元の角度が、ほんの一瞬だけ、あの夜の男と同じ形を結んだ。
だが、すぐにそれは解けた。
違う——当たり前のことだった。重なるはずもない。
三百年も前の人間が、今ここにいるはずがないのだから。
目の前にいるのは、あの男ではない。
彼女はそのことを、静かに、はっきりと理解した。
——この人は、あの人ではない。




