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化け物は恋を食べられない  作者: 夜唏


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7/7

最終話 宵霞

結局、彼女は青年を食べなかった。


 食べられなくなるほど、気持ちが動いてしまった相手を、彼女はもう食べることができない。

 それは、三百年前のあの男に向けていたものと同じかどうかは、彼女自身にもわからなかった。


 それでも、これはあの感情の続きではない。

 ただ、この人間を一人、見逃したい。

 彼女の中にあるのは、それだけだった。

 理由も、名前もつけようのない、ただそれだけの思いだった。


 ◇


 彼女は、青年を屋敷の玄関まで連れていった。

 

 玄関の扉を開けると、外にはもう朝の気配が満ちている。

 青年はまだ状況が呑み込めない様子で、何度も屋敷の中を振り返っていた。


「あの……本当に、帰って、いいんですか……?」

 彼女は頷いた。

 青年は少しほっとしたような顔をして、それから少し迷うような間を置いた。


「……――*****。 助けてくれて、ありがとう」

 青年は困ったように笑うと、そのまま身を翻し、光の差し込む方へと歩き出した。


 その背中を、彼女は扉のところに立ったまま見送った。

 懐かしい響きが、彼女の耳を擽る。

 

 彼女はそれ以上、追わなかった。

 人間は光の中で生きる。

 自分は闇の中にいる。

 三百年前も、今も、それだけは変わらない事実だった。


 彼女は扉を閉め、屋敷に闇をもたらした。

 また来るかもしれない——そんな思いが、ふと囁いた。

 だが彼女はすぐに、それを握り潰した。


 あの青年もまた、いずれ年老いて死ぬ。

 それでいい。それが人間というものだ。

 あのときと同じように、今もまた、同じ思い込みを自分に言い聞かせる。


 住人らは、いつもと変わらない。

 また誰かが屋敷に迷い込んでくれば、これまで通り、彼女は食べるだろう。それだけのことだ。


 三百年前も、少し前も、そしてこれからも、屋敷の中に流れる時間は変わらない。


◇


 屋敷の奥深くの自室で、彼女はいつものように座っていた。


 周りには、幽霊、化け物、落神——名前のつけようのない異形たちが、思い思いの場所に佇んでいる。

 誰も彼女に話しかけない。話しかけられたところで、彼女にはわからない。

 彼女が何かを伝えようとしても、うまく伝わったためしがない。


 それでも、彼らは彼女のそばから離れなかった。

 幽霊が、いつものように隣に腰を下ろす。

 名も知らぬ化け物が、彼女の裾をそっと引く。

 落神が、何かを差し出してくる。


 彼女はふと思う。

 自分は、一人ではなかったのだ。

 何千年ものあいだ、ずっとそうだった。

 言葉のないまま、理解し合えないまま、それでも誰かがそばにいた。

 これから先も、きっと同じように続いていくのだろう。


 時間は、彼女の記憶も一欠片も見逃さずに消し去っていく。

 顔は、もう思い出せない。

 名前も、どこにあるのかわからない。

 声も、とうに曖昧になっている。

 

 それでも、抱かれたという、事実は、彼女の中から消えていくことがなかった。

 喰わぬようにと引っ掻いた印も、受け継がれて残っていた。

 彼女は静かに自分へ言い聞かせた——それだけで、十分だ、と。



 屋敷の異形たちが、そこにいる。誰一人として、言葉を話せる者はいない。

 それでも、誰も彼女のそばから離れていかない。

 人間は、光の中で生きる。

 自分は、闇の中にいる。

 そのことを、彼女はずっと前から知っていた。

 知っていたはずなのに、今この瞬間ほど、はっきりとその境界を感じたことはなかった。


 会いに行くことはない。待つこともしない。

 ただ、消えない記憶だけを抱えたまま、彼女はこれからも、この屋敷で生き続ける。


――END


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