最終話 宵霞
結局、彼女は青年を食べなかった。
食べられなくなるほど、気持ちが動いてしまった相手を、彼女はもう食べることができない。
それは、三百年前のあの男に向けていたものと同じかどうかは、彼女自身にもわからなかった。
それでも、これはあの感情の続きではない。
ただ、この人間を一人、見逃したい。
彼女の中にあるのは、それだけだった。
理由も、名前もつけようのない、ただそれだけの思いだった。
◇
彼女は、青年を屋敷の玄関まで連れていった。
玄関の扉を開けると、外にはもう朝の気配が満ちている。
青年はまだ状況が呑み込めない様子で、何度も屋敷の中を振り返っていた。
「あの……本当に、帰って、いいんですか……?」
彼女は頷いた。
青年は少しほっとしたような顔をして、それから少し迷うような間を置いた。
「……――*****。 助けてくれて、ありがとう」
青年は困ったように笑うと、そのまま身を翻し、光の差し込む方へと歩き出した。
その背中を、彼女は扉のところに立ったまま見送った。
懐かしい響きが、彼女の耳を擽る。
彼女はそれ以上、追わなかった。
人間は光の中で生きる。
自分は闇の中にいる。
三百年前も、今も、それだけは変わらない事実だった。
彼女は扉を閉め、屋敷に闇をもたらした。
また来るかもしれない——そんな思いが、ふと囁いた。
だが彼女はすぐに、それを握り潰した。
あの青年もまた、いずれ年老いて死ぬ。
それでいい。それが人間というものだ。
あのときと同じように、今もまた、同じ思い込みを自分に言い聞かせる。
住人らは、いつもと変わらない。
また誰かが屋敷に迷い込んでくれば、これまで通り、彼女は食べるだろう。それだけのことだ。
三百年前も、少し前も、そしてこれからも、屋敷の中に流れる時間は変わらない。
◇
屋敷の奥深くの自室で、彼女はいつものように座っていた。
周りには、幽霊、化け物、落神——名前のつけようのない異形たちが、思い思いの場所に佇んでいる。
誰も彼女に話しかけない。話しかけられたところで、彼女にはわからない。
彼女が何かを伝えようとしても、うまく伝わったためしがない。
それでも、彼らは彼女のそばから離れなかった。
幽霊が、いつものように隣に腰を下ろす。
名も知らぬ化け物が、彼女の裾をそっと引く。
落神が、何かを差し出してくる。
彼女はふと思う。
自分は、一人ではなかったのだ。
何千年ものあいだ、ずっとそうだった。
言葉のないまま、理解し合えないまま、それでも誰かがそばにいた。
これから先も、きっと同じように続いていくのだろう。
時間は、彼女の記憶も一欠片も見逃さずに消し去っていく。
顔は、もう思い出せない。
名前も、どこにあるのかわからない。
声も、とうに曖昧になっている。
それでも、抱かれたという、事実は、彼女の中から消えていくことがなかった。
喰わぬようにと引っ掻いた印も、受け継がれて残っていた。
彼女は静かに自分へ言い聞かせた——それだけで、十分だ、と。
屋敷の異形たちが、そこにいる。誰一人として、言葉を話せる者はいない。
それでも、誰も彼女のそばから離れていかない。
人間は、光の中で生きる。
自分は、闇の中にいる。
そのことを、彼女はずっと前から知っていた。
知っていたはずなのに、今この瞬間ほど、はっきりとその境界を感じたことはなかった。
会いに行くことはない。待つこともしない。
ただ、消えない記憶だけを抱えたまま、彼女はこれからも、この屋敷で生き続ける。
――END




