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化け物は恋を食べられない  作者: 夜唏


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5話 葬儀式

それから、彼女は男を待たなかった。


 また、来るかもしれない——とは、考えなかった。

 そう考えることを、自分に許さなかったと言ってもいい。


 人間の一生は短い。彼女にとって、それはただの事実だった。

 だから彼女は、自分の中に残った甘い記憶を、自分の手で葬り去ることにした。


 まず、顔を忘れることにした。

 彼女を見上げたときの目の形も、震えていた頬の輪郭も、少しずつぼやけていった。


 次に、声を忘れることにした。

 名を呼ばれたときの響きも、笑ったときの息の抜け方も、記憶の底に霞んでいった。


 彼がくれた、その名を呼んでくれる者はもいない。

 その名前はもう存在できない。

 

 最後に、笑い方を忘れることにした。

 彼女は、それが一番、手放しがたかった。


 それでも、時間はいつも彼女の味方をした。

 何もしなくても、記憶は少しずつ角を失い、色が抜け落ち、水面に溶けるように消えていった。


 どうしても消えなかったのは、腕の感触だけだった。

 抱きしめられたときの、あの重さと温度。

 それだけは、どれだけ時間が経っても、彼女の中から出ていこうとはしなかった。


 彼女はそれを、無理に忘れようとはしなかった。

 それくらいは、残しておいてもいいだろうと思っていたから。


 


——嵐の夜から三百年が経った頃。


 人間にとってはあまりにも長い年月だが、彼女にとってはそうではない。

 ただ、屋敷の中で夜を数え続けているうちに、気づけばそれだけの時間が過ぎていた、というだけのことだった。


 昔、人間を一人、食べなかったことがある——ただ、それだけの短すぎる記憶。

 顔も、声も、貰った名前も、残していたはずの温もりも重さも、彼女の中にはなにも残っていなかった。

 それ以上、深く考えることはなかった。

 ただそういうことが、ずっと昔にあった。それだけだ。


 屋敷は変わらず、同じ夜の色をしていた。

 住人たちは相変わらず言葉を交わさず、それでも彼女のそばを離れずにいる。

 人間が一人、また一人と迷い込んでは消えていく。

 それも、変わらなかった。


 その夜も、同じように誰かが道に迷っていた。

 麓の集落を出て、山道を歩き、いつの間にか獣道さえ途切れた場所へ足を踏み入れる。

 扉の外から、若い男の声が暗がりの奥まで響いてきた。

 彼女は、いつものように立ち上がる。


◇


 迷い込んできたのは、ごく普通の青年だった。

 里の若者らしい、飾り気のない身なりをしている。

 道に迷い、暗い中を歩き回るうちに、気づけば見覚えのない屋敷の前に立っていたのだろう。

 他の誰もがそうしてきたのと、同じ様に。


 屋敷の住人たちが、いつものように気配を集めてくる。

 青年は顔を強張らせ、逃げ惑うが、やがて逃げ場をなくし、その場にへたり込んだ。


 彼女は、いつも通り、そちらへ歩いていった。

 食べよう——だが、爪は動かなかった。

 

 青年の前に立ち、いつものように爪を持ち上げようとする。

 それだけのことが、なぜかできない。

 理由を探そうとしても、どこにも見当たらなかった。


 青年の顔を見ても、何も浮かんでこない。

 青年の声は青年の声で、他の誰の声とも重ならない。

 それなのに、爪も足も、頑なに前へ進もうとしなかった。


 彼女は戸惑った。

 理由のわからないまま、体だけが拒んでいる。


 住人たちは、彼女がいつまでも動かないことに気づいたのか、少しずつ気配を薄くしていった。

 青年は、まだ壁際で震えていた。彼女はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。

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