↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
化け物は恋を食べられない  作者: 夜唏


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/7

4話 陰陽は相容れ

男は、それからも屋敷から出ることはなかった。


 人間同士のような日々ではなかった。

 一緒に食事をすることもない。手を取り合って外を歩くこともない。

 それでも、そこには確かに、彼女がこれまで知らなかった時間が流れていた。


 男は屋敷の中を歩き回った。

 彼女はそれを、少し離れた場所から眺めていることが多かった。

 時折、男が振り返り、彼女がいることを確かめると、なぜかほっとしたような顔をする。

 彼女にはその表情の意味が、はっきりとはわからなかった。

 それでも、悪いものではないということだけは伝わってきた。


 男が近づいてきて、彼女の手に触れることもあった。

 細い指とは不釣り合いな爪があることも、皮膚の下に人とは違う何かが流れていることも、男はもう驚かなくなっていた。


 男の言葉が、少しずつ増えていった。

「名前、あるの?」

 彼女は首を傾げた。

「ないの?」

 頷く。


「じゃあ、俺がつけてもいいかな?……君を呼ぶとき、困るから」

 彼女は男の顔をじっと見た。

 何を答えればいいのか、わからなかった。

「……嫌?」

 

 彼女は少し考えてから、小さく頭を横に振った。

 男は嬉しそうに笑うと、彼女に向かって名を呼んだ。

 

「*****」

 

 彼女はその響きを、発声できない。

 それでも、頭の中で何度か繰り返した。

 今まで自分には必要のなかったものが、急に体の内側に収まったような、奇妙な感覚だった。


 そうして日が経つほどに、彼女の中で、ひとつの思いがはっきりとした形を持ち始めていた。


 この男を、食べたくない——彼女に、もう迷いはなかった。

 腹が減っても、他の人間を食べればいい。

 この男だけは、そうしたくなかった。


 だが、男が屋敷にいられる時間には、限りがある。

 足の怪我が治れば、男はこの屋敷を出ていくだろう。

 男自身も、時折、屋敷の外に目をやることがあった。

 

 彼女は、わかっていた。


◇

 

 いつか、その日が、来るとわかっていた。

 

 その日、男は、いつもの服のまま玄関に立った。

 屋敷の中はどこも暗く、外の気配だけが、扉の隙間からうっすらと漏れていた。


 彼女は少し離れた場所で、男を見ていた。


 男が扉に手をかけると、木の軋む音がして、扉がゆっくりと開いた。

 扉のその隙間から、光が差し込んだ。

 眩しさに目を細めながらも、彼女はその場から動かなかった。


 男が振り返る。

 「*****……」

 何か言おうとして、結局、言葉にならなかったのか、名を呼んだだけで、黙ってしまう。


 彼女も、何も言わなかった。もとより彼女は言葉を持たない。

 それでも、伝えたいことがなかったわけではない。

 ただ、それをどう形にすればいいのか、彼女自身にもわからなかった。


 やがて男は、小さく笑った。

 何かを諦めたような、それでいてどこか安堵したような笑い方だった。


「――行くね」

 それだけ言うと、男は身を翻し、光の中へと歩き出した。


 彼女は追わなかった。

 追おうと思えば、追えたはずだった。

 屋敷の外へ出ることを、誰かに禁じられているわけでもない。

 それでも、彼女の足はその場から動かなかった。


 男の背中が、光に呑まれるようにして小さくなっていく。

 やがて扉の向こうに、その姿は見えなくなった。


 彼女はしばらく、開いたままの扉を見つめていた。

 光は変わらず、まっすぐに差し込んでくる。


 彼女は静かに踵を返し、屋敷の奥——光の届かない闇の中へと戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。