4話 陰陽は相容れ
男は、それからも屋敷から出ることはなかった。
人間同士のような日々ではなかった。
一緒に食事をすることもない。手を取り合って外を歩くこともない。
それでも、そこには確かに、彼女がこれまで知らなかった時間が流れていた。
男は屋敷の中を歩き回った。
彼女はそれを、少し離れた場所から眺めていることが多かった。
時折、男が振り返り、彼女がいることを確かめると、なぜかほっとしたような顔をする。
彼女にはその表情の意味が、はっきりとはわからなかった。
それでも、悪いものではないということだけは伝わってきた。
男が近づいてきて、彼女の手に触れることもあった。
細い指とは不釣り合いな爪があることも、皮膚の下に人とは違う何かが流れていることも、男はもう驚かなくなっていた。
男の言葉が、少しずつ増えていった。
「名前、あるの?」
彼女は首を傾げた。
「ないの?」
頷く。
「じゃあ、俺がつけてもいいかな?……君を呼ぶとき、困るから」
彼女は男の顔をじっと見た。
何を答えればいいのか、わからなかった。
「……嫌?」
彼女は少し考えてから、小さく頭を横に振った。
男は嬉しそうに笑うと、彼女に向かって名を呼んだ。
「*****」
彼女はその響きを、発声できない。
それでも、頭の中で何度か繰り返した。
今まで自分には必要のなかったものが、急に体の内側に収まったような、奇妙な感覚だった。
そうして日が経つほどに、彼女の中で、ひとつの思いがはっきりとした形を持ち始めていた。
この男を、食べたくない——彼女に、もう迷いはなかった。
腹が減っても、他の人間を食べればいい。
この男だけは、そうしたくなかった。
だが、男が屋敷にいられる時間には、限りがある。
足の怪我が治れば、男はこの屋敷を出ていくだろう。
男自身も、時折、屋敷の外に目をやることがあった。
彼女は、わかっていた。
◇
いつか、その日が、来るとわかっていた。
その日、男は、いつもの服のまま玄関に立った。
屋敷の中はどこも暗く、外の気配だけが、扉の隙間からうっすらと漏れていた。
彼女は少し離れた場所で、男を見ていた。
男が扉に手をかけると、木の軋む音がして、扉がゆっくりと開いた。
扉のその隙間から、光が差し込んだ。
眩しさに目を細めながらも、彼女はその場から動かなかった。
男が振り返る。
「*****……」
何か言おうとして、結局、言葉にならなかったのか、名を呼んだだけで、黙ってしまう。
彼女も、何も言わなかった。もとより彼女は言葉を持たない。
それでも、伝えたいことがなかったわけではない。
ただ、それをどう形にすればいいのか、彼女自身にもわからなかった。
やがて男は、小さく笑った。
何かを諦めたような、それでいてどこか安堵したような笑い方だった。
「――行くね」
それだけ言うと、男は身を翻し、光の中へと歩き出した。
彼女は追わなかった。
追おうと思えば、追えたはずだった。
屋敷の外へ出ることを、誰かに禁じられているわけでもない。
それでも、彼女の足はその場から動かなかった。
男の背中が、光に呑まれるようにして小さくなっていく。
やがて扉の向こうに、その姿は見えなくなった。
彼女はしばらく、開いたままの扉を見つめていた。
光は変わらず、まっすぐに差し込んでくる。
彼女は静かに踵を返し、屋敷の奥——光の届かない闇の中へと戻っていった。




