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化け物は恋を食べられない  作者: 夜唏


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3/7

3話 臆病な来客

彼女が今日も変わらず自室で座っていると、扉がノックされた。

 住人らの誰かかと思えば、入ってきたのは男だった。


 朝になっても出て行かなかったのかと、彼女は思わず目を見開き、凝視する。

 

「えっと……お、おはよう……」

 戸惑い気味に男が挨拶をする。

「あの、俺……足を怪我して、山を下りられそうにないんだ……もうしばらく、この屋敷に居ても良いかい?」

 彼女は目を見開いたまま頷いた。

 追い出す理由も、追い出さない理由も、彼女にはなかった。


 屋敷の住人たちは、久しぶりの接客がよほど嬉しいのか、誰に頼まれるでもなく男の世話を焼き始めていた。

 朝になれば、誰が焼いたのかもわからないパンが、男の枕元に置かれていた。


 目を覚ました男が、それを不思議そうに眺めていると、廊下の向こうを何かが横切った。

 視界の端に、一瞬だけ大きな獣の足が見える。

 「……?」

 男が振り返ったときには、もう何もいない。


 日が昇れば、男は自分の意思とは関係なく、見えない力で浮かされ、どこそこに連れていかれた。


 庭にハンモックと新鮮な林檎があった。

 風もないのに、ハンモックだけがゆらゆらと揺れている。

 男が腰を下ろすと、すぐそばの茂みががさりと揺れた。

 そこから、鱗に覆われた長い尾の先だけが覗く。

 男が目を凝らした途端、それはするりと茂みの向こうへ消えていった。


 その代わりに、宙から林檎がひとつ、男の手に落ちてくる。

「……これも、食べていいのか?」

 返事はない。

 けれど、もう一度だけ、茂みの向こうで何かが動いた。


 客室に戻れば、テーブルに見たこともない薬草と真新しい包帯が置かれている。

 

 男が薬草を手に取って眺めていると、部屋の隅に何かが立っている気配がした。

 視界の端に、異様に大きな影が映る。

 けれど、そちらを向けば何もない。


 もう一度、薬草へ目を戻す。

 すると、包帯の隣に薬瓶がひとつ増えていた。

「……至れり尽くせりだな」

 気を張っていた男の肩から力が抜け、苦笑する。


 その直後、背後で何かが転んだような音がした。

 振り返ると、床には何もない。

 ただ、少し離れた場所に、いつの間にか毛布が一枚置かれている。


 男は最初、物音ひとつに怯えていた。

 誰もいないはずの部屋で物音がするたび身をすくめ、差し出されたものに手を伸ばすまでに、ずいぶんと時間がかかった。


 それでも、日を追うごとに、男は少しずつ屋敷の気配に慣れていった。


 廊下を歩けば、少し先を何かが歩いている気配。

 視界の端に、白い足が見えたり、獣の尾が揺れたりする。

 けれど、振り返れば何もいない。


 食事を終えれば、いつの間にか食器が片付いている。

 眠る前には布団が整えられ、寒い夜には毛布が一枚増えている。


 時折、窓や鏡に誰かの後ろ姿が見える。

 細長い人影だったり、人とは思えない大きな背中だったり。

 けれど、それも男が目を向けたときには、もう消えていた。


「……ありがとう」

 誰に向けてともわからないまま、そう呟くことが増えていった。

 その声が住人たちに届いているのかどうか、彼女にもわからなかった。


 ただ、男がそう呟いた翌朝には、枕元のパンがいつもより少しだけ大きかった。


 それから、幾日かが過ぎた頃。

 自分の足で歩けるようになった男の方から、彼女に近づいてくることが増えた。

「君は……俺を食べないの?」

 彼女は首を横に振った。

「それは、食べるってこと?」

 彼女が少し首を傾げると、男は小さく笑った。

「そっか。君にも、わからないか」

 彼女は答える代わりに、男の袖の端をつまんだ。

 男はそれ以上、何も言わない。

 ただ、彼女の指が離れるまで、じっと待っていた。


 男が食事をする時、彼女のいる部屋まで椅子を運んでくる。

 庭では、彼女の部屋の窓が見える場所にハンモックを掛けた。

 側に来ても何を話すでもない。

 

 いつしか、彼女の傍に男が居るのが、当たり前になっていった。


 ある日、男が手を伸ばして、彼女の髪に触れようとした。

 彼女は反射的に身を引く。

 男はすぐに手を止める。

「……ごめん」

 

 彼女はしばらく男の顔を見つめた。

 それから、自分の髪を一房つまんでみせる。

 触れてもいい、という意味が伝わったかどうかは、彼女はわからない。

 けれど男は、それ以上手を伸ばそうとはしなかった。


 その代わり、次の日から少しずつ距離が近くなった。


 隣に座る。肩が触れそうなところまで近づく。すぐに離れる。

 そんなことを、何度か繰り返した。

 彼女も、もう避けることはない。

 

 そして、夜になって、男が彼女に近づき、両腕を伸ばしてきたとき、彼女は動けなかった。


 人間に抱かれたことなど、一度もない。

 何百年もの間、誰かにこんな風に触れられたことはなかった。


 爪を立てれば、それで終わる。牙を立てれば、それも終わる。

 いつもならそうしてきた。今更ためらう理由などないはずだった。


 なのに、彼女は男に抱かれたままだった。

 彼女の中で、初めて何かがせめぎ合っている。


 彼女は、男の胸元に爪を立てた。


 深くはない。皮膚を裂き、血が滲む程だった。

 男が小さく息を呑んだ。

 それでも、男は彼女から腕を離さない。


 ——食べてしまわない様に。

 彼女の爪から、ゆっくりと力が抜ける。

 

 男が自分の傷跡を確認して、それから彼女の瞳を覗いた。

 男は痛そうな顔をしながらも、怒っているようには見えなかった。


 ただの印——殺さないための傷。

 だが、それを言葉にする術を、彼女は持っていない。

 

 どうしてそんなことをしたのか、自分でもまだうまく説明がつかない。

 それでも、男の胸に残ったその傷だけは、なぜか消えてほしくないと思った。

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