2話 異形の者た
屋敷には、彼女以外にも数えきれないほどの者たちが暮らしている。
人の形をかろうじて保っているもの、もはや何であったかもわからないもの、影だけで存在しているようなもの。
住人らに共通しているのは、この屋敷の主人が彼女であるということ、それだけだった。
だが彼女は、その誰とも言葉を交わしたことがなかった。
落神が、彼女の隣に座ることがある。
何をするでもなく、ただ座っているだけだ。
彼女もまた、何を求められているのかわからないまま、隣にいることを許している。
幽霊が、彼女の服の裾をそっと引っ張ることもある。
何かを伝えたいのだろうとは思う。だが、それが何なのかまでは、どうしてもわからない。
裾を引かれるたびに彼女は立ち止まり、しばらく待ち、やがて幽霊が満足したように離れていくのを見送るだけだった。
名前もわからない化け物が、両手で何かを差し出してくることもあった。
木の実のようなものだったり、光る石のようなものだったり、時にはただの土くれだったりする。
彼女はそれを受け取り、しばらく眺め、結局はどこかに置いておく。
喜んでいるのか、困っているのか、渡した側にも伝わっているかどうかは怪しい。
それでも、彼らは彼女のそばを離れなかった。
彼女が廊下を歩けば、決まって誰かがあとをついてくる。
振り返れば、その足がぴたりと止まる。
彼女がまた歩き出せば、また少し遅れてついてくる。
それだけの繰り返しを、もう何百年も続けている。
深い夜、彼女がいつもの様にただ座っていると、いつの間にか周りにいくつもの気配が集まっていることがある。
気が付けば、誰かが彼女の髪にそっと触れている。
彼女はその手を払いのける。
少し間を置いて、また手が伸びてくる。
彼女はため息をつき、そのままにしておく。
言葉があれば、もっと簡単だっただろう。
何を思っているのか、何を望んでいるのか、一言尋ねればわかったのかもしれない。
だが、彼女にはその一言がない。住人らにも、おそらくない。
それでも、何百年という時間は、言葉のないままでも積み重なっていった。
誰かが隣に座り、誰かが裾を引き、誰かが手のひらの上に何かを乗せてくる。
理解できないことばかりのその繰り返しが、いつの間にか、彼女にとっての当たり前になっていた。
家族と呼べるものかどうかは、彼女自身にもわからない。
ただ、誰もいない部屋でひとりだけでいる時間は、もう長いこと、なかった。
——嵐の夜。
いつもと同じように、迷い込んできた者がいた。
男だった。
屋敷の住人たちが寄せ集まり、廊下の暗がりに目が増えていく。
男は他の人間と同じように青ざめ、後ずさる。悲鳴はない。
廊下の闇から現れた彼女は、いつも通り、爪を振り上げる。
だが、男が逃げなかったから、彼女は停止した。
男は、怖がっていないわけではない。
むしろ、他の誰よりも激しく震えていた。
それでも男は、彼女から逃げない。
男は震えながら、彼女を見上げた。
その目に浮かんでいたのは、彼女がこれまで見たどの目とも違っていた。
恐怖はある。悲願もある。媚も見える。だがそれだけではない。
彼女が食い入るように男の瞳を覗く。
まるで、何かを、憐れむような色——『かわいそうに』
男は声に出していない。
それでも、彼女が瞳の奥で見つけた色は、そう言っていた。
彼女は戸惑った。
戸惑うということ自体、彼女にとって経験のないことだった。
ましてや、食べられる側の人間から、そんな目を向けられたことなど一度もなかった。
喰らいつこうと進めた足を、一歩後ろに下げる。
爪は、もう振りあがってすら、いなかった。
なぜ動きを止めたのか、彼女自身にもわからなかった。
腹は減っていたし、目の前の男を食べない理由など、どこにも見当たらない。
それでも足も、指先も、それ以上前へは進まなかった。
男は、まだ彼女を見つめていた。
屋敷の住人たちは、いつもと違う気配を察したのか、少しだけ後ろに下がっている。
静けさだけが、二人のあいだに残った。
その夜、結局、彼女は男を食べなかった。
理由はわからないまま。
屋敷に広がる闇の中で、騒めきは一晩中続いた。




