1話 人喰らう化け物
山の奥深く、獣道さえ途切れたその先に、古い屋敷は建っていた。
いつからそこにあるのか、誰も知らない。
誰が建てたのか、記録にも残っていない。
ただ、麓の集落には代々、たったひとつの言い伝えだけが受け継がれている。
――あの屋敷に、入ってはいけない。
理由を説明できる者はいない。
それでも子供たちは幼い頃からその一言だけを叩き込まれて育つ。
理由のわからない禁忌ほど、律儀に守られるものはない。
屋敷の中には、名前のつけられないものたちが暮らしている。
幽霊、妖怪、異形、落神——人の言葉で括ることのできない化け物たち。
姿形も成り立ちも、何もかもがばらばらで、共通しているのはただひとつ――化け物たちには主人がいた。
その女主人は、屋敷の最も奥まった部屋で、静かにただ座っていた。
一見すれば、人間の女に近い姿をしている。
整った輪郭も、肩に流れる長い髪も、里に暮らす女たちとさほど変わりはしない。
だが、しなやかな指先には人のものではない長い爪が伸び、薄く血色づいた唇の隙間から覗く歯は獣のそれに近く、涼やかな形のいい目の奥、その瞳は夜を閉じ込めたように闇だった。
美しいかどうかは、誰にもわからない。
彼女をその目で見て、判断できるはずの人間は、屋敷から出てこないから。
彼女自身は、自分を人間だと思ったことは一度もない。
かといって、化け物だと思っているわけでもなかった。
そういう区分けそのものに、興味がないというほうが近い。
人間が善いことをしようと、悪いことをしようと、彼女にとっては大差がなかった。
ただ、迷い込んできた人間だけは、食べることにしている。
理由は単純だ。腹が減っているから。
人里に喰いに出かけるほどじゃないけれど、自分の巣に入ってきたものは喰らう。
それ以上でも、それ以下でもない。
◇
ある晩、屋敷へ迷い込んできた者がいた。
男か女か、若いか年老いているか。そんなことは、あまり問題ではない。
麓から山を登り、道に迷い、気づけば見覚えのない屋敷の前に立っている。
人間はいつも同じ顔をする。
最初は戸惑い、次に不安になり、最後にようやく、自分がとんでもない場所へ足を踏み入れたことを悟る。
——その人間も、例に漏れなかった。
開けっぱなしの扉から、恐る恐る中を覗き込む。
声をかけても、返事をする者はいない。
それでも他に道がないのか、あるいは雨風をしのぐつもりだったのか、結局は自分の足で屋敷の中へと入ってきた。
来客の気配はすぐに広がった。
新しい客が来るのを、心待ちにしていた住人たちが一斉に動き出す。
廊下の暗がりから、ひとつ、またひとつと視線が増える。
天井の隅に張りついていた何かは、ゆっくりと床に下りていく。
誰かが息をひそめて、誰かがくすくすと笑うような声を立てた。
足音がそこかしこで響いている。
怖がろうが、楽しもうが、悲しもうが、住人たちは人間が好きだった。
来客はなにか起きるたびに悲鳴を上げる。
壁に背をつけ、震え、時には泣きながら、意味のある言葉にならない声を上げ続ける。
彼女はその一部始終を、部屋の奥から眺めていた。
——そんなに怖がらなくてもいいのに。
声には出さない。
彼女が声を出したところで、伝わりはしないと知っているから。
ただ、いつもそう思っていた。
人間はどうしてこんなにも簡単に、心の内側を外へ垂れ流すのだろう。
怖ければ泣き、嬉しければ笑い、痛ければ叫ぶ。
取り繕うということを知らないわけではないだろうに、いざとなればすぐに剥がれ落ちる。
その脆さが、無様さが、彼女には少しだけ面白かった。
ただ叫び狂う者。命乞いをする者。嘘を吐いてでも自分だけ助かろうとする者。恋人を守り、自ら前に出る者。
彼女はこれまでたくさんの人間を喰ってきた。
滑稽で、哀れで、どこか眩しい——数十年しか生きられない生き物だと認識している。
彼女は立ち上がり、ゆっくりと廊下を歩いていく。
住人たちが主人の為に道を空ける。
来客はますます後ずさり、やがて壁際に追い詰められて、それ以上もう下がれなくなる。
目の前に立つ彼女を見て、悲鳴すら出せなくなったのか、口だけを動かして何かを訴えようとしていた。
助けてくれ、とでも言いたかったのかもしれない。
彼女はそれを聞き届けるつもりはなかった。
嫌いだからではない。むしろ、嫌いではないからこそ、この瞬間はいつも少しだけ惜しいと思う。
——けれど、彼女は腹が減っている。
爪の先が、静かに持ち上がる。
悲鳴は、長くは続かなかった。
来客の命が啄まれ、彼女が食事を終えれば、住人たちが動き出す。
床に流れた血を舐め啜り掃除する者。彼女が残した肉片や骨を食べて片す者。ある者は人間の髪を自分の頭にのせ、楽し気に遊びだした。
彼女はなんにも気に留めず、闇が遊ぶ廊下を歩いていった。
黒く鋭い爪に引っかかる肉片も、引き裂かれた唇の端に伝う鮮血も、彼女は意に介さない。
そして自室のいつもと同じ場所に、いつものように腰かける。
窓の外はまだ夜だった。
次に誰かが迷い込んでくるまで、屋敷にはまた、何も変わらない時間が流れていった。




