第234話「甲斐の乾き」
同じ頃、甲斐の武田信玄は、躑躅ヶ崎館の奥で重臣たちと向かい合っていた。
春の訪れは、武田にとっては軍事圧力を外へ放出する季節の始まりを意味する。山に囲まれた甲斐は、常に物資が不足している。内の経済循環を維持するためには、外から奪うか、あるいは外への通路を確保し続けねばならなかった。今年の冬の雪害により、領内の蓄えは底を突きかけていた。塩の価格高騰も民を苦しめている。
信玄の前に座る山本勘助が、静かに地図を指し示した。
「越後の国境守備は、昨年に比べて兵数が減っております」
信玄は目を細めた。
「兵が減ったのは、油断か、それとも別の理由か」
「兵を農地に返した模様。あそこの若者は戦を嫌っているようだと、間者が申しております」
信玄は短く笑った。
「戦を嫌う者が、これほどの冬を越せるわけがない。あれは兵を減らしたのではない。兵を動かす必要がないほど、内が安定しているのだ」
「叩けば崩れますか」
「外壁は薄いが、中に入れば泥沼になりましょう」
武田の軍事圧縮構造は、局地戦において無敵を誇る。しかし、それは短期決戦が大前提であった。長期の泥沼は、甲斐の貧弱な経済持続力を干上がらせる。信玄は地図の越後から目を離し、南の今川、あるいは駿河の海へと視線を移した。
「圧力をかけるべきは、北ではない」
信玄の決断は、静かに他の方角へと傾きつつあった。




