201/288
第201話「坂本玄斎、問われる」
玄斎の小屋に、初めて武士が来た。
供もなく、刀も抜かず、ただ静かに土間に立っていた。年は四十がらみ。越後の家臣だと名乗った。
「殿がお聞きになりたいことがある」
玄斎は茶を出した。武士は受け取らなかった。
「民に文字を教えると、何が変わりますか」
単刀直入だった。玄斎は少し考えた。
「変わるのは民ではありません」
武士が眉を動かす。
「伝わる速さが変わる。誤りが減る。命令が形として残る。それが積み重なると、次の世代が前の世代の失敗を繰り返さなくなる」
玄斎は続けた。
「文字とは記憶です。一人の人間の記憶は死とともに消える。だが文字に書かれた記憶は残る。国が文字を持つということは、国が死なない記憶を持つということです」
武士はしばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
玄斎は、その武士が誰の使いなのかを聞かなかった。
聞かなくても、わかっていたから。
(次話へ)




