第14話「魔王と虎」
武田軍は、退いていた。
敗走ではない。
だが。
勝利でもない。
---
静かな撤退。
---
その空気が、逆に重い。
---
誰も、声を上げない。
---
理由は、簡単だった。
---
「……生きている」
---
誰かが、呟く。
---
武田信玄が。
---
まだ、立っている。
---
それだけで。
---
軍は崩壊しない。
---
---
本陣。
---
信玄は、地図を見ていた。
---
破られた進軍路。
---
崩された指揮。
---
消えた将。
---
すべてを、整理している。
---
「……やはり、見えているな」
---
低い声。
---
---
「こちらの動きが、速さも含めて読まれております」
---
側近の報告。
---
「隠した補給線も」
---
「進軍速度も」
---
「すべて」
---
当然だった。
---
「ならば」
---
信玄は、静かに言う。
---
「隠さねばいい」
---
空気が止まる。
---
---
「……と、申されますと」
---
---
「見せる」
---
短い答え。
---
---
「読ませる」
---
---
間。
---
---
「その上で、壊す」
---
---
理解が追いつかない。
---
だが。
---
信玄の目は、本気だった。
---
---
「奴は、情報を喰う」
---
「ならば、毒を混ぜる」
---
---
初めてだった。
---
兼継と同じ領域で、戦おうとしている。
---
---
越後。
---
兼継は、報を聞いていた。
---
「武田、再編開始」
---
「撤退速度、異常に早く」
---
「補給線も整理済み」
---
---
「……そうか」
---
短い返答。
---
---
「立て直したか」
---
---
早い。
---
普通ではない。
---
---
「やはり、武田信玄」
---
---
その名を、静かに口にする。
---
---
「潰れない」
---
---
評価だった。
---
---
家臣の一人が、恐る恐る問う。
---
---
「……追撃を」
---
---
兼継は、即座に否定した。
---
---
「不要」
---
---
「今追えば、逆に誘われる」
---
---
空気が変わる。
---
---
「……誘う、でございますか」
---
---
「そうだ」
---
兼継は、地図を見ている。
---
---
「武田は学んだ」
---
「次は、こちらを読みに来る」
---
---
間。
---
---
「ならば」
---
---
視線が、わずかに上がる。
---
---
「読ませる」
---
---
その一言で。
---
全員が理解した。
---
---
これは、次の段階。
---
---
“策と策”。
---
---
純粋な、知略戦。
---
---
数日後。
---
甲斐。
---
武田軍は、あえて動きを見せていた。
---
補給。
---
兵の移動。
---
街道整備。
---
隠さない。
---
---
「……見せている」
---
密偵が、越後で報告する。
---
---
兼継は、黙って聞いていた。
---
---
「わざと、でございますな」
---
---
「当然だ」
---
---
短い返答。
---
---
「武田信玄が、今さら隠す理由はない」
---
---
つまり。
---
“見せること”自体が策。
---
---
「……どう致しますか」
---
---
兼継は、少しだけ考える。
---
---
長くはない。
---
だが。
---
深い。
---
---
「そのまま流せ」
---
---
「……よろしいので」
---
---
「問題ない」
---
---
そして。
---
わずかに。
---
初めて。
---
ほんの少しだけ。
---
笑った。
---
---
「見えているものほど、信用する」
---
---
その言葉に。
---
家臣たちの背が、冷える。
---
---
互いに。
---
互いを読んでいる。
---
---
だが。
---
どちらも止まらない。
---
---
遠く。
---
武田信玄もまた、空を見ていた。
---
---
「……来るな」
---
---
呟く。
---
---
その目に、恐怖はない。
---
---
あるのは。
---
高揚。
---
---
「面白い」
---
---
再び、その言葉。
---
---
そして。
---
越後。
---
兼継もまた、同じ空を見ていた。
---
---
「面白い」
---
---
二人の言葉が。
---
初めて、重なる。
---
---
魔王。
---
そして。
---
甲斐の虎。
---
---
戦国は。
---
二つの怪物を中心に、動き始めていた。
---
(次話へ)




