毒杯の試練と影の断罪
王都ローゼンヘイムの東側、鬱蒼とした老樹の森に囲まれた王家離宮『白薔薇館』。かつて王妃たちの静養地として使われていたその邸宅は、いまやマリー・アントワネット専用の居城となっていた。
謁見の間で国王と貴族たちを完の膚なきまでに恐怖の底へ叩き落としてから一週間。
王都は表向き、平穏を取り戻したかのように見えていた。マリーの要望通り、毎朝のようになだれ込む最高級の茶葉と、王宮お抱えの菓子職人が腕によりをかけたペストリーやタルト。
マリーは日当たりの良いテラスの特等席に腰掛け、白磁のカップを傾けていた。
「……ふう。お湯の温度、茶葉の抽出時間、申し分ありませんわ。やはり人間、痛い目を見ないと真剣に取り組まないものですのね」
扇で優雅に口元を隠し、満足げに微笑む。その傍らには、王都での護衛任務を任されたアルフレッドが、胃の痛む思いで直立不動の姿勢をとっていた。
「マリー様……お気に召していただけたなら幸いです。ですが、本当にこれでよろしいのですか? 国王陛下や枢密院の者たちは、表面上ひれ伏しているものの、裏では牙を研いでおります。彼らがこのまま大人しく従うとは思えません」
「分かっていますわ、アルフレッド」
マリーは澄んだ瞳をそっと細めた。
「直接の暴力や言葉の脅迫が通用しないと知った浅知恵のネズミたちが次に考えることなど、目に見えていますもの」
自らの固有権能『断頭台の威厳』。
この能力の真の恐ろしさは、目の前の敵が振るう剣や魔術といった直接的な攻撃だけではなく――「毒を盛る」「背後から罠に嵌める」「遠方から暗殺を企てる」といった、間接的・裏取引的な悪意の意図をも完璧に捉え直す点にあった。
マリーを中心に張られた不可視の感知網は、すでにこの白薔薇館の周囲にまとわりつく「不快な糸」を何本も察知していた。
「……まあ、お茶の時間くらいは静かに過ごさせてほしいものですけれど」
マリーが溜息をついた、まさにその時。
洗練された制服を着た給仕の少女が、銀のトレイに載せた新たな一皿を運んできた。薔薇のジャムが添えられた、焼き立てのスコーンである。
「マリー様、王宮の厨房より、特別に焼き上げたスコーンをお持ちいたしました」
少女の声は可憐で、仕草も行き届いている。
だが、マリーの脳内では――その少女がトレイを持つ手、そしてスコーンに塗られたジャムの奥から、ドス黒い殺意の波長がバチバチと火花を散らしていた。
(即効性の神経毒……触れるだけで皮膚から侵入し、心臓を止める魔導毒薬。……哀れな子。家族を質にでも取られて命令されたのか、あるいは相応の金で買収されたのかしら)
給仕の少女は恭しく膝を折り、トレイをテーブルへ差し出す。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
「ええ、ありがとう」
マリーは微笑み、スコーンへ手を伸ばす――振りをして、そっと少女の瞳を覗き込んだ。
少女の瞳の奥に揺らめく、微かな罪悪感と、それ以上に強い「これでこの女を殺せる」という暗い期待。
マリーの手が、空中でピタリと止まった。
「ねえ、あなた」
「は、はい……? 何でしょうか、マリー様」
「このスコーン、とても美味しそうですけれど……先にあなたが一口、召し上がってみてはいかがかしら?」
「っ――!?」
少女の顔から、一瞬にして血の気が引いた。全身がガタガタと震え始め、トレイを持つ手が激しく揺れる。
「ど、どうして……私がそのような恐れ多いことを……っ」
「あら、毒など入っていないのでしょう? 王宮の優秀な職人が、私のために作った特別品なのですから。毒が入っていないのなら、召し上がれるはずですわね?」
マリーの優しい声。しかし、その背後に透けて見える氷点下の冷気に、少女は耐えきれなくなった。
「ひ……ひいっ! ご、ごめんなさい! お許しください! 助けて、お父様……!」
少女はトレイを放り出し、その場に崩れ落ちて号泣し始めた。
「貴族様から……枢密院のカルロス卿から命じられたのです! これをあの女に食べさせれば、家族を奴隷身分から解放してやると……! 嫌だ、死にたくない、死にたくない……っ!」
アルフレッドが即座に剣を抜き、少女を遮るように立ち塞がる。
「何だと……! 枢密院のカルロス卿だと!? 貴様、マリー様に毒を盛ろうとしたのか!」
「いいのです、アルフレッド。剣を納めなさい」
マリーは静かに制した。
少女に向けられる視線には、怒りすら存在しなかった。ただ、ゴミを見るような冷ややかな蔑みと、暗殺を命じた裏の黒幕に対する明確な呆れだけがあった。
「実行犯の哀れな人形を殺したところで、何の解決にもなりませんわ。……悪いのは、影に隠れて糸を引いているネズミの方ですもの」
マリーは優雅に立ち上がり、扇をパチンと閉じた。
(試してみましょう。この『断頭台の威厳』が、どこまで離れた場所の悪意に届くのかを――)
マリーは目を閉じ、脳内に広がる悪意のレーダーを集中させた。
少女の記憶、毒薬の波動、そして王都の北側に位置する最高級貴族街の豪邸――そこに潜む男の存在を、明確に「捕捉」する。
そこには、豪華な書斎で酒杯を傾けながら、吉報を今か今かと待つ枢密院長官カルロス卿の姿があった。
『くくく……いくら圧倒的な異能を持っていようと、ただの女だ。無色無臭の魔導毒を口にすれば、数秒で苦しみ悶えて死ぬ。王権を脅かす生意気な小娘め、己の愚かさを呪いながら死ぬがいい……』
カルロスの胸に渦巻く、勝利の確信と醜い殺意。
その瞬間、マリーの脳内で「回路」が繋がった。
「距離、およそ四キロメートル。……逃げられるとでも思いましたの?」
マリーが扇の先を、北の空へと向けて静かに差し出した。
「届きなさい――『断頭台』」
――ズバッッ!!!
四キロメートル離れたカルロス卿の書斎。
突如として、空間そのものが縦に裂けた。
「な――」
カルロスが叫ぶ間すら与えられなかった。
上空から降り注いだ不可視の断頭刃は、カルロスの頭部を首元から正確に切断しただけにとどまらず、彼が座っていた豪華な椅子、机、そして書斎の床ごと、綺麗な断面を残して真っ二つに両断した。
血飛沫が上がる間もなく、切断面の空間が微細に歪み、カルロスの存在そのものを世界から抹消するように消し去った。
後に残されたのは、綺麗に半分に割れた部屋と、無言の静寂だけ。
……白薔薇館のテラス。
マリーはふうと息を吐き、扇をパチンと開いて軽く風を起こした。
「ふう……遠距離の標的を空間ごと切断するのは、少しだけ集中力が必要になりますのね。ですが、これで理解できましたわ」
マリーはガタガタと震える給仕の少女を見下ろした。
「帰りなさい、娘。貴方を縛っていたネズミは、もうこの世にはいませんわ。二度と私の視界に入らないことですこと」
「あ……あ……っ! ありがたき幸せ! ありがたき幸せぇぇっ!」
少女は何度も頭を床にこすりつけ、逃げるように走り去っていった。
アルフレッドは、呆然と北の空を見つめていた。
「ま、マリー様……いま、何をお命じに……?」
「なあに。不躾なネズミのお掃除をしただけですわ」
マリーは再び椅子に腰掛け、新しいカップに温かい紅茶を注がせた。
(直接の暴力も、軍隊の数も、影からの毒殺や罠すらも……私に悪意を向けた瞬間に、すべてが無に帰す。……ふふ、実に合理的で素晴らしい能力ですこと)
己の権能の「真の射程と概念切断」の精度を完全に掌握したマリー・アントワネット。
彼女の不可侵の威厳は、いまや王都ローゼンヘイムの隅々にまで冷酷な影を落とし、いかなる陰謀をも許さぬ絶対の檻となって世界を包み込んでいくのであった。




