謁見の間の冷気
数千の暴徒が一瞬で首を散らした『ラグナの惨劇』の噂は、風よりも早く王都ローゼンヘイムへと伝波していた。
重厚な石造りの城壁に囲まれた王国の中枢。そこは、魔王軍の脅威から遠く離れ、貴族たちが権力闘争と虚飾の宴に明け暮れる享楽の都であった。しかし、その華やかさの裏で、街道を進む一台の豪華な馬車の接近に対し、城内の空気は目に見えて引き締まり、不気味な緊張感に包まれていた。
「……本当なのか? あの女、たった一人で数千の民衆と魔王軍の別動隊を全滅させたというのは……」
「馬鹿な。どのような大魔導士であろうと、それほどの広域殺戮を瞬時に行えるはずがない。虚張声勢か、何らかの仕掛けがあるに違いない」
「いずれにせよ、王都に足を踏み入れたからには我らの掌の上だ。どんな異能を持っていようと、王権と軍力で屈服させてやる」
絢爛豪華な城内、高い天井から巨大なシャンデリアが吊り下げられた『謁見の間』。
赤絨毯が敷き詰められた長い回廊の両脇には、絢爛な甲冑を纏った王城近衛騎士団が隙間なく並び、その奥には着飾った貴族や高官たちがズラリと居並んでいた。そして最奥の段上、象牙と金で彩られた玉座には、ローゼンベルク王国国王――ヴィルヘルム三世が深々と腰掛けていた。
その重苦しい静寂を破り、重厚な大扉がゆっくりと開放される。
「――マリー・アントワネット様、ご入城!」
執事の甲高い声が響き渡る。
現れたのは、見取る者を息を呑ませるほどの美貌を誇る女性であった。
レースとシルクを惜しみなく使った最高級の青と白のドレス。一糸乱れぬ黄金の髪。その足取りはどこまでも軽やかで、優雅。何百もの冷ややかな視線と重圧が集中する空間にあって、彼女はまるでヴェルサイユの離宮を散歩するかのように、澄まし顔で赤絨毯の上を歩んでいた。
その右手には、見慣れた一対の折りたたみ扇。
マリーの脳内には、謁見の間に足を踏み入れた瞬間から、凄まじい密度の『情報』が流れ込んでいた。
固有権能『断頭台の威厳』。
彼女を中心に広がる感知領域は、いまこの空間にいる数百人の貴族、騎士、そして国王自身から放たれるあらゆる感情を過不足なく分析していた。
(……ふふ、醜いことですわね)
マリーは扇で口元を隠し、冷ややかな瞳を扇の陰から走らせた。
表面上は礼儀正しく頭を下げ、あるいは冷笑を浮かべている貴族たち。しかし、彼らの内面から漏れ出ているのは、強烈な「猜疑心」「支配欲」「嫉妬」、そして――「もし意に従わぬなら、力ずくで抹殺して兵器として利用してやる」という、ドス黒い危害の意図であった。
(魔王軍の怪物やラグナの暴徒たちのような直接的な殺意ではありませんけれど……不快さという意味では、こちらも負けていませんわね。私をまた、政治の都合で死地へ送ろうというのですか?)
マリーは玉座の前、十数歩手前で足を止めた。
拝礼の膝をつくことすらしない。ただ凛とした佇まいで、玉座の国王を見上げる。
「な……無礼者! 国王陛下の前であるぞ! 膝を折らぬか!」
近衛騎士団長が剣の柄に手をかけ、怒号を上げた。
しかし、ヴィルヘルム三世は手でそれを制し、下品な歪んだ笑みを浮かべながら身を乗り出した。
「……よい、近衛騎士団長。許す。噂に聞く異世界の客人……いや、救国の戦乙女マリー・アントワネットよ。よくぞ余の召喚に応じた」
ヴィルヘルム三世の声には、王としての威厳を装いながらも、隠しきれないねっとりとした欲望が滲んでいた。
「其方の持つ異能、しかと報告を受けておる。要塞での魔族退治、そしてラグナでの不穏分子の粛清……見事である。そこで余は決断した。其方にローゼンベルク王国『国家最高戦力』の称号を与え、我が軍の先鋒として魔王城攻略を命じる!」
王の言葉に、周囲の貴族たちから薄汚い賛同の声が上がった。
「おお、さすがは国王陛下!」
「これで魔王軍など恐るるに足らん!」
「女ひとりを行かせれば、我らの兵を減らさずに済む!」
自分たちの安全を確保し、すべての泥をマリーひとりに押し付けようとする身勝手な論理。
ヴィルヘルム三世は満足げに頷き、さらに言葉を続けた。
「もちろん、相応の報償は用意しよう。王都での邸宅、財宝、そして……我が第一王子の側室としての地位を与えてやってもよい。拒否権はないぞ? 其方が首を縦に振らぬというなら、あの要塞への物資補給を完全に止め、其方を庇った第三騎士団の者どもを反逆罪で処刑するまでだ」
脅迫。圧倒的な武力と権力を背景にした、露骨な強要。
ヴィルヘルム三世は、これでこの美しい女が恐怖に震え、自分にひれ伏すと信じて疑っていなかった。
だが。
マリーの瞳から、完全に光が消えた。
(……ああ。また、私からすべてを奪い、思い通りに操ろうとするのですのね。……私の尊厳も、穏やかなお茶会も、私を慕ってくれた者たちの命すらも)
静寂が謁見の間を支配する。
マリーはゆっくりと扇を開き、優雅にひと仰ぎした。その動作一つで、室内の温度が目に見えて下がり始めた。シャンデリアのろうそくの炎が、恐怖に怯えるように揺らめく。
「……王とおっしゃいましたわね」
マリーの静かな、しかし透き通るような声が響いた。
「人を脅し、道具として扱い、自分だけは高みの見物を決め込む……それが貴方の考える『王権』ですの?」
「何……!?」
ヴィルヘルム三世の顔が歪む。
「不躾で品性を欠いた申し出、断らせていただきますわ。……それと、お教えしておきますけれど」
マリーが静かに一歩、踏み出した。
「私を害しようとする意志、私を意のままに屈服させようとする不快な悪意……そのすべてが、私にとっての『敵意』として処理されますの」
その瞬間。
マリーを中心とした固有権能『断頭台の威厳』が、謁見の間全体を完全に網羅した。
彼女に向けられた貴族たちの不快な欲望、近衛騎士たちの攻撃意図、国王の支配欲――それらすべてが、正確な「標的」としてマリーの脳内でロックオンされる。
「な……なんだ、この圧迫感は!?」
「息が……息ができない!?」
貴族たちが胸を押さえて喘ぎ始めた。近衛騎士たちは剣を抜こうとするが、全身が金縛りに遭ったかのように一歩も動けない。
そして、国王ヴィルヘルム三世の頭上。
――ギィィィィィンッ!
空間が歪み、純金と純銀の光で織りなされた、巨大な『光の断頭台』が突如として現れた。
巨大なフレーム、鋭利な斜め刃。それが、玉座に座る国王の首元へ向けて、静かに滞空している。
「ひ……ひいいいっ!?」
ヴィルヘルム三世は悲鳴を上げ、玉座から転がり落ちた。王冠が虚しく床を転がる。
「な、なんだこれは!? 引っ込めろ! 今すぐこの不気味な光を消せぇぇっ!」
「消す? なぜですの?」
マリーは優雅に歩を進め、腰を抜かして震える国王の目前まで歩み寄った。高価な靴が床を叩くコツン、コツンという音が、死のカウントダウンのように響く。
「私に危害を加えようとしたのは、貴方たちの方ですわ。……敵の数が多ければ多いほど、私を理不尽に追い詰めようとする者が増えるほど……この刃の威力と数は、果てなく跳ね上がるのです」
マリーが扇をパチンと閉じると同時に、謁見の間にいた数百人の貴族・騎士すべての首元に、『不可視の刃』が冷ややかに押し当てられた。
「ひっ……!」「首に……冷たいものが……!」「助けてくれ、陛下!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。誰一人としてマリーに逆らうことなどできない。ほんの少しでも明確な害意を抱けば、その瞬間に首が飛ぶことを、彼らの本能が察知していた。
マリーは玉座の下で震える国王を見下ろし、冷酷なまでに美しく微笑んだ。
「お分かりかしら? 権力も、兵力も、言葉の脅しすらも……私の前では何の意味もなさないということが」
「わ、分かった! 赦してくれ! 側室の件も、魔王軍攻略の強要も取り消す! 物資補給も倍にする! だから命だけは……!」
ヴィルヘルム三世は頭を床にこすりつけ、涙と鼻水で顔を汚しながら命乞いをした。かつての王の威厳など、微塵も残っていなかった。
マリーは呆れたように息を吐き、扇で軽く風を起こした。
「言葉通りの対応を期待しますわ。……それと、王都で一番美味しい紅茶と焼き菓子を用意させなさい。今回の不礼の詫びとして受け取って差し上げます」
マリーが指を軽く鳴らすと、頭上の巨大な断頭台と、全員の首元にあった冷たい刃が一瞬にして消え去った。
「は……ははーっ! 直ちに! 今すぐに最高の茶会を用意させまする!」
国王と貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように平伏する。
血を一滴も流すことなく、ただ『威厳』の一端を示しただけで、ローゼンベルク王国の中枢を完全に屈服させた悲劇の王妃。
マリー・アントワネットは、冷ややかに背を向け、最高級の紅茶が待つであろう離宮へと向かって、優雅に歩みを進めるのだった。




