迫り来る黒き波と群集の狂気
カルロス卿の凄惨な怪死――四キロメートル離れた厳重な邸宅の中で、何一つ足跡を残さず書斎ごと真二つに両断されたという事実は、王都の暗部に決定的な恐怖を植え付けた。
陰謀も、暗殺も、毒殺も通用しない。
自分たちが意識の中で「あの女を殺したい」「排除したい」と望んだ瞬間に、首元に冷たい刃が落ちる。もはや貴族たちにできたのは、離宮『白薔薇館』の方角を向いて息をひそめ、王妃の機嫌を損ねぬよう、最高級の物資を献上し続けることだけであった。
そうして得られた束の間の静寂の中、マリー・アントワネットは離宮の庭園で薔薇の手入れを眺めながら、贅沢な午後のひとときを過ごしていた。
「……ふう、静かなのは良いことですわね」
白磁のカップから立ち上るダージリンの香り。焼き立てのフィナンシェを一口かじり、満足げに目を細める。
だが、その平穏を破るように、地鳴りのような重低音が王都の地表を揺らし始めた。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
「な、なんだ!? 地震か!?」
「いや違う! 空を見ろ! 北の地平線が……真っ黒に染まっているぞ!?」
庭園の周囲を固めていた近衛兵たちの動揺した叫び声。
マリーは眉をひそめ、手にしていたカップを静かにソーサーへと戻した。優雅に立ち上がり、庭園のバルコニーへと歩み寄る。
彼女の視線の先――王都ローゼンヘイムを囲む巨大な外郭防壁の向こう側、北の地平線から押し寄せていたのは、異形の波であった。
魔王軍。
それも、要塞で突入してきた別動隊や数千の先鋒などとは比べ物にならない。陸地を埋め尽くす黒い津波。巨体を持つ鬼族、空を覆い尽くす翼竜、地を這う魔導兵器、そして異形の魔族兵たち。その数、およそ二十万。
ローゼンベルク王国を完全に滅ぼすべく結集した、魔王軍本隊の総力全進軍であった。
「ひ……ひいいいっ! 魔王軍だ! 本隊が来たぞーっ!」
「終わりだ! この数は防ぎきれん! 王都は全滅だぁぁぁっ!」
王都の街並みから、一瞬にして平和の化皮が剥がれ落ちた。
街道はパニックに陥った民衆で溢れ返り、押し合いへし合いしながら南の門へと殺到する。兵士たちは武器を捨てて逃げ惑い、先刻までマリーに平伏していた貴族たちは財宝を馬車に詰め込んで我先にと逃走を図っていた。
「マ、マリー様……っ!」
アルフレッドが全身を血の気が引いた顔で駆け込んできた。息を荒らげ、剣の柄を握る手が激しく震えている。
「魔王軍本隊……二十万の大軍勢です! 我が国の防衛線は既に崩壊! 3分と持たずに外郭防壁が破られます! どうか、どうか我らと共に南の安全な地へお逃げください!」
アルフレッドの言葉には、マリーに対する心からの心配と誠意があった。だからこそ、マリーの脳内の『感知領域』は彼に対して何も反応しない。
マリーは優雅に扇を開き、パタリと胸元で揺らした。
「逃げる……? 私が? このマリー・アントワネットが、不品行な怪物どもに背を見せて逃げ出すとおっしゃるのですの?」
「ですが相手は二十万です! たとえマリー様の異能をもってしても、この数の前では――」
「アルフレッド」
マリーの静かな一言が、アルフレッドの言葉を遮った。
彼女の瞳に宿っていたのは、恐怖でも焦燥でもない。氷点下すら下回る、絶対的な『蔑み』と『威厳』。
「忘れましたの? 私の権能……『断頭台の威厳』の真価を」
マリーは扇をパチンと閉じた。
(……ふふ。群れを成し、数に任せて押し潰そうとする暴力。かつて私をパリの広場で囲み、絶望へ追いやろうとしたあの群衆と同じ……)
マリーの脳内で、二十万の魔王軍勢から放たれる凄絶な殺意、破壊衝動、征服欲が、巨大な津波となって彼女の魂にぶつかってくる。
だが、今のマリーにとって、その膨大な悪意は「恐怖」ではない。
自らの裁きの刃を、どこまでも巨大に、どこまでも苛烈に跳ね上げるための――最高の燃料に過ぎなかった。
『敵の数』が増えれば増えるほど、狂気が膨れ上がるほど……その威力が乗数的に跳ね上がる対・軍勢特化能力。
「二十万……素晴らしい数ですわ。私の新たな旅立ちの余興として、これ以上の舞台はありませんもの」
マリーはドレスの裾をふわりと揺らし、バルコニーの階段をゆっくりと上り始めた。
王都の最高地点である離宮の尖塔。そこから、押し寄せる二十万の黒い波を見下ろす。
「全軍に命じなさい、アルフレッド。動かず、ただ見ているようにと。……私の美しきお茶会を邪魔する羽虫どもを、一匹残らず散らして差し上げますわ」




