要塞のティータイムと新たな悪意
フォルトナ要塞の重厚な鉄門が押し開かれ、マリー・アントワネットが足を踏み入れた瞬間、そこを覆っていた鉛色の絶望は一瞬にして静まり返った。
要塞の司令官であるギルバート将軍は、報告書を握りしめたまま、言葉を失って立ち尽くしていた。血まみれの第三騎士団を引き連れ、純白のドレスで涼しい顔をして歩く王妃の姿は、この殺伐とした戦場においてあまりにも異質だった。
「――バカな。たった一人の女性が、魔王軍の別動隊を全滅させただと?」
ギルバートの嗄れた声が震える。しかし、生還した騎士たちが一斉に膝をつき、まるで神聖な存在を仰ぐかのように頭を垂れる光景が、その事実が紛れもない現実であることを物語っていた。
「司令官、マリー様におかれましては……その、非常にご機嫌斜めであらせられます。一刻も早く、温かい紅茶と甘いお菓子をご用意するように」
アルフレッドが冷や汗を拭いながらそう告げると、ギルバートは慌てて最上級の応接室へと案内させた。
運ばれてきたのは、戦争末期の要塞とは思えないほど上等な紅茶と、焼き菓子。マリーはカップを手に取り、優雅に香りを確かめると、ほんのわずかに眉をひそめた。
「……お湯の温度が高すぎますわね。これでは茶葉の繊細な渋みが損なわれてしまいますわ」
「も、申し訳ございません、マリー様! すぐに別のものを――」
「いいのです。戦時下ですもの、これ以上贅沢を言うつもりはありませんわ」
マリーはそっとカップをソーサーに戻し、扇で口元を隠した。その瞳の奥で、彼女は脳内の感知領域を静かに広げていた。
(……ふふ。この要塞にいる人間たちは、私に対して畏怖や驚愕を抱いてはいても、明確な『害意』や『殺意』を向けてくる者は誰もいませんわね。つまり、私はこの場所で安全に、穏やかなティータイムを過ごすことができる、と)
絶対的な力を持っていながら、彼女が望むのはただ一つ――平穏で優雅な日常。かつてフランスの宮廷で奪われかけた、尊厳ある時間を取り戻すことだけだった。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
バンッ! と、応接室の扉が乱暴に蹴破られる。
「おい、どういうことだ! 第三騎士団が勝手に戻ってきただけでなく、謎の女が居座っていると聞いたぞ!」
土足で踏み込んできたのは、一人の傲慢な男だった。身にまとっているのはローゼンベルク王国の高級な将官服。しかし、その纏う雰囲気は下劣で、周囲の騎士たちを虫けらのように見下す不遜な笑みを浮かべている。王都から派遣された監察官――名前をベルトラムと言った。
ベルトラムはマリーを値踏みするようにジロジロと眺め、下品に鼻を鳴らす。
「ふん、噂の女か。魔王軍を追い払ったなどと嘘の戦果を語り、この要塞の物資を掠め取ろうという魂胆だろう! 今すぐその不気味なドレスを脱ぎ捨て、王都の調べに――」
その瞬間、マリーの脳裏に、パリの広場で自分を罵倒した民衆の姿がフラッシュバックした。無知と偏見、そして根拠のない悪意で他人を踏みにじろうとする、あの醜悪な群衆の影が。
(また……ですの?)
マリーの瞳から、一切の感情が消え失せる。
ベルトラムが放つのは、魔王軍の怪物たちとは違う、人間の最も底意地の悪い、ドス黒い殺意と侮蔑の感情。
マリーは立ち上がることすらせず、冷ややかな声で呟いた。
「品性を欠いたネズミが、一匹紛れ込んだようですわね」
「なんだと、このアマ――!」
ベルトラムが腰の剣に手をかけたその瞬間、天井から黄金の刃が音もなく落ちた。
ドスッ。
鮮血が飛び散ることはなかった。空間ごと切り裂かれたベルトラムの身体は、言葉を失ったまま静かに二つに分かれ、床へと崩れ落ちた。
室内にいた全員が凍りつく。ギルバート将軍は絶句し、騎士たちは恐怖に息を呑んだ。
マリーは優雅に紅茶を一口含み、冷ややかに言い放った。
「虫が騒がしいので、お掃除をしておきましたわ。……さて、紅茶の冷めぬうちに、続きをいただきましょうか」




