始まりの一音
――気が付いたら、立ち上がっていた。
音の無い灰色の世界で。
黒い影の異形、ヌルの前に。
自らの意志で、立ち向かうように。
「……あれ? なんで立ってるんだろう? だって私……!」
意識があやふやな中、アリアの頭に浮かぶのは自身の身体が闇に浸食されていく光景だった。
嫌な想像を膨らませながら、恐る恐る視線を落としてみる。
――そして。
「…………えっ? うぇええええええっ!?」
アリアの驚く声が、まるで歌劇場にいるかのように灰色の世界に響き渡った。
「な、何コレぇ!? 何で指揮者みたいな恰好しちゃってるの!? 制服はっ!? リュックはっ!? あのリュック、お気に入りだったのにぃ!!」
あたふたしながら自分の服装を確認するアリア。
胸元に鎮座している蝶ネクタイと燕尾服の後ろ裾が、可愛らしくフリフリと揺れる。
「もう頭の中パニックだよぉ! 制服だって無くしたらお母さんに怒られちゃうし、それに――」
頭を抱えながら焦り散らかしていたアリアだったが、唐突に聴こえてきた音に口を紡ぎ視線を向ける。
聴こえてきたのはノイズ音。
視線の先では、ヌルが片手を上げてこちらに狙いを定めていたのだった。
「…………」
そして放たれた歪な五線譜、矢のような速度でアリアに襲い掛かる。
「ひぃ……!」
為す術が無いアリアは短い悲鳴を上げ、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
黒い五線譜は、すぐそこまで迫ってきている――。
――カツン。
トライアングルのような、 澄んだ音が一つ鳴った。
黒い五線譜はアリアに直撃……ではなく、アリアが握っていた指揮棒に当たった。
当たった五線譜はそのまま遠くへ弾き飛ばされ、歪な音符が力無く散っていった。
「…………え?」
状況が呑み込めないアリアは、しゃがんだまま指揮棒を見つめる。
指揮棒には傷一つ付いておらず、微細な光を帯びながら、細く真直ぐ伸びていた。
「指揮棒が私を守ってくれたの……?」
アリアはそう問いかけるも、指揮棒が返事をしてくれる筈が無い。
代わりに飛んできたものは、ヌルが再び放った三本の五線譜だった。
「わ……! また来た!?」
恐ろしい程の速度で迫ってくる三本の五線譜。
怖い。
目を瞑りたい。
――でも!
「――えいっ!!」
アリアは勇気を振り絞って指揮棒を振るう。
その勇気に応えるように、指揮棒は五線譜全てを弾き飛ばす。
先程より強く、爽快な三連符の音と共に五線譜は砕け散った。
「やった……! 上手く出来ちゃった……!」
手に残っている弾き飛ばした感触を噛み締めながら、アリアはゆっくりと立ち上がる。
無音の世界。
眼前には無言のヌル。
そんな中で、アリアの心臓の拍だけが熱を帯びたように加速していく。
何をやってもダメダメで。
どんなことでも失敗ばかり。
――けど、これなら!
――指揮棒が一緒にいてくれるなら!!
「よぉし! 次は私の番だからね!!」
アリアは力強く指揮棒をヌルに向けてそう言い放った。
大好きな音楽と共に、アリアの運命への反撃が始まろうとしていたのであった。




