音楽が大好きな君へ、世界が奏でる子守唄
生徒会室は静寂に包まれた。
窓から聞こえていた音楽も何処か遠ざかっていき、最終的には聞こえなくなった。
そんな空間に、一つだけ音が鳴る。
物語に終止符を打つように、アリアが指揮棒のケースを机に置いた音だった。
「…………」
空になった手を再び膝の上に置き、アリアは再び顔を伏せる。
これから起こることが怖かった。
もう後に戻られないのが怖かった。
覚悟を決めた筈なのに、今はただ怖かったのだ――。
――そして。
「…………そっか」
ヴァルはそう呟いて、机に置かれたケースを手に取る。
そして、産まれたばかりの子猫を扱うように。
大切そうにケースを抱えながら、俯くアリアへと顔を向けた。
「……もし良かったら、理由を教えてくれないかな? どうして辞めようと思ったの?」
優しい声色の言葉に、アリアの肩が大きく反応する。
そして、薄い唇を強く噛み締めた後、アリアはゆっくりと息を一つ吐く。
今一度、覚悟を決めた呼吸音だった。
「…………私には、ミューゼになる資格がないんです」
そう切り出したアリアの小さな両手に力が入り、スカートをギュッと掴んだ。
「私、小さい頃から何をやってもダメダメで。周りの人は皆私に呆れていて……。時々嫌なことを言われたこともありました……。けど、音楽だけは違ったんです。こんな私を見捨てないで、音楽だけはずっと一緒に居てくれるんです」
「だから、ミューゼになってヌルをやっつけた時、嬉しかったんです。こんな私でも出来る事があるんだなって思えて。会長に褒めて貰って……。なにより、大好きな音楽が私のことを選んでくれた事が凄く嬉しかったんです」
アリアの頭の中ではヌルと戦った出来事が連続写真のように過っていく。
音楽と共に、死という運命に抗って勝利したこと。
現実世界に戻って、穏やかな笑みを浮かべたヴァルに祝福されたこと。
そして、何度思い返しても美しいエルハーモニアの日常音楽のこと。
それらを思い出すだけで胸が熱くなる。
鼓動がテンポを増していく。
また、指揮棒を振るいたいと勇気が湧いてくる。
――しかし、そんな淡い期待は瞬く間に消え失せてしまった。
頭の中の劇場が、はっきりと映し出したのだ。
残酷なまでに美しい、あの白鳥の佇まいを。
「…………でも、それも私の勘違いだったんです。音楽が本当に選んだのは私じゃない。レイラちゃんだったんです」
アリアは再び身体を小刻みに振るわせる。
強く握った拳に、一滴の雫が落ちた。
「レイラちゃんは本当に凄かったです。ミューゼとしても、音楽の才能も、私なんか足元にも及ばないくらいに……」
「……私じゃないんです。音楽が選んだのは、音楽と一緒にいていいのは……、私じゃなかったんです……!」
一滴、さらに一滴、鍵盤を一つ一つ鳴らし、メロディーを奏でているようにアリアの手に涙が零れる。
鼻を啜る音がベースライン。
漏れる嗚咽が歌となる。
大好きだから別れを告げる、純粋無垢な愛の悲しき音楽が、生徒会室に静かに奏でられている。
たった一人の観客であるヴァルは黙って演奏を聴いていた。
目を逸らさずに。
真剣な表情で。
アリアが奏でる一生懸命な思いを真直ぐに受け止めていたのだった。
そして――。
「――アリア」
自分の名前が優しい声音で呟かれた。
アリアは涙でグシャグシャになった顔をゆっくりとあげる。
涙で滲んだ視界でもハッキリと分かった。
ヴァルが優しく微笑みながらこちらを見つめていたことに。
「話してくれてありがとう……。とっても辛かったね」
そう言ってヴァルはアリアへ自分のハンカチを渡す。
ヴァルの優しい言葉が、行動がアリアの涙腺を更に震わせた。
「……はい、辛いです……。とっても辛いです……ッ! 本当はミューゼを辞めたくないッ!! まだ音楽と一緒にッ!! ずっと音楽と一緒にいたいッ!!」
「けど、駄目なんです……! 私じゃあレイラちゃんみたいにはなれないんですよぉ……!!」
緊張の糸が切れたように、アリアは泣いた。
不器用ながらに一途に音楽を愛し続ける少女の本音だった。
「…………そうだね。君はレイラのようにはなれないかもしれない」
「……え?」
そんな涙を止めたのは、ヴァルが放った言葉だった。
しかし、そんな言葉とは対照的にヴァルは小さく微笑みながらアリアを見つめていたのだ。
「才能だけでいえばレイラは本当に特別だよ。私を含めて恐らく誰も彼女の領域にはたどり着くことなんか出来ないだろうね」
「…………」
「でもね、君は気が付いてないだけで実はもの凄い才能を持っているんだよ。レイラにも私にも無い、本当に特別な才能を」
「…………私だけの才能?」
「…………ほら、耳を澄ませてごらん」
そう言ってヴァルは何かを聴き入れるように目を閉じる。
どういう意味か全く分からないアリアだったが、言葉の真意を確かめるべくヴァルが言うように耳を澄ませた。
そして――。
「――あっ」
耳を澄ませた直後、静まり返った生徒会室の窓辺から微かに聴こえてくるものがある。
――音楽である。
しかも、ただの音楽ではない。
――それは、揺り篭の中にいるような安心する音楽。
――それは、母親の子守歌のような音楽。
――あの時、オルガン塔から聴こえてきたどんなものよりも優しく美しい旋律の音楽だった。
「ほら、聴こえたでしょう? 音楽が君を慰めに来たんだよ」
「…………」
ヴァルがそう言うもアリアの耳には入っていなかった。
信じられなかった。
自分の一方的な理由で別れを告げたのに、それでも尚音楽が傍に居てくれていることに。
そんなアリアに一度笑みを零してから、ヴァルは指揮棒のケース、そしてアリアの手を握る。
「アリア、これが君の才能だよ。音楽のことが大好きで、ずっと一緒にいてくれるから、音楽も君のことが大好きなんだ」
ヴァルはアリアの拳をほどいて、そこに指揮棒のケースを置く。
そして自身の手と重ね合わせるように、優しくケースを握らせた。
そして――。
「――改めて言おう。アリア、君は音楽に選ばれたんだ」




