クッキーの痛い匂いとピリオド。
生徒会室では、甘くて優しい香りが立ち込めていた。
焼きたてのクッキーの香り。
品のある紅茶の香り。
窓から差し込む西日。
そして、外から聞こえてくる美しい音楽達。
ゆったりと心が落ち着くような、そんな空間になっていた。
――しかし。
「――どうしたの? クッキー苦手だったかな?」
ヴァルが綺麗に整えた眉を下げて、対面する形で座っているアリアに問う。
「……いえ、クッキーも紅茶も大好きです……! 大好き、なんですが……」
アリアは俯きがちにそう答える。
落とした視線の先にあるのは手つかずのクッキーと茶器であった。
アリアはクッキーも紅茶も好きだ。
才能の無い自分に優しくしてくれるヴァル会長も好きだ。
好きな物に好きな人、遠くの方からは大好きな音楽まで聞こえてくる。
だからこそ、痛かった。
こんな自分に優しくしてくれる人を。
自分が大好きだった物を。
自分の言葉で裏切り、悲しませてしまうことに、酷く心が痛かったのだった――。
「――おーい、ヴァルよ! 扉の修復が終わったぞっ!」
そんな時、この場の空気にそぐわない快活な声が一つ聞こえる。
自らがぶち破って破壊した生徒会室の扉を付け直したノゾミの声だった。
「ぬっふっふ……! 扉の修復とアリアの連れ出しの褒美として、儂もクッキーでも頂くとするかのう! ヴァルの作る甘味はどれも絶品で…………って、むぅ?」
子犬のように瞳を輝かせながら、皿に盛られたクッキーへと手を伸ばしたノゾミ。
そんなノゾミの手が止まったのは、俯き縮こまるアリアが目に入ったからだった。
ノゾミは伸ばした手を引っ込ませ、代わりに腕を組んで考える。
考えをまとめた後、目を開けると困惑した様子のヴァルと目が合った。
そんなヴァルにノゾミは不敵な笑みを一瞬みせて。
そして――。
「――ヴァルよ。これは一体何の真似じゃ? 何故牛乳が用意されておらぬ?」
先程の快活な声から一変、静かなる怒りを込めた口調でノゾミが問いだす。
「……何故って『コーヒーは苦いし牛乳は子供っぽいから嫌じゃ』って君が言い出したんだろう?」
「何を呆けたこと抜かしておるのじゃ!! クッキーには牛乳だと相場で決まっておろうに!! 全く、気の利かない奴じゃのう……!」
怒りそのままに、ノゾミはそっぽを向いて自らが直した扉に手を掛けた。
「では儂は市場へ牛乳を買ってくるからのう! その間、二人で楽しくお喋りでもしとるが良いわ! 勿論、儂の分のクッキーはちゃんと残しておくんじゃぞ!!」
そう言ってノゾミは勢いよく扉を開閉し、生徒会室を後にする。
その音はまるでシンバルを大きく鳴らした音によく似ていて。
ヴァルは残響の余韻に浸るように目を閉じた後、柔らかい笑みでアリアを見つめた。
「……本当に優しい子だね、ノゾミは」
「……え?」
「アリアが話しやすいように、ワザと席を外してくれたんだよ」
「…………そうだったんですか」
俯きがちなアリアの頭の中で、ノゾミの不敵な笑みが浮かんでくる。
破天荒で自由奔放。
しかし、その裏には沢山の思いやりと優しさが込められている。
きっとこれから先もノゾミに振り回されるのだろう。
きっとこれらか先も沢山優しくされてお世話になるのだろう。
――きっとこれから先も一緒の時間を過ごして、ノゾミのことを大好きになるのだろう。
しかし――。
「…………ッ」
アリアの心が更に痛み、思わず表情に出てしまった。
痛かった。
ただ、痛かった。
優しさの針が心に刺さって、痛かった。
「…………アリア?」
そんなアリアの様子を見て、ヴァルが不思議そうに小首を傾げる。
ヴァルの優しい声色が、その優しい眼差しが針となってアリアに突き刺さる。
――もう、限界だった。
アリアは震える手をゆっくりと伸ばし、リュックのジッパーを開ける。
中から取り出したのは、ミューゼの証である指揮棒のケースだった。
アリアはソレを大切そうに両手で抱える。
――怖い。
――もの凄く怖い。
――けど、言わなきゃ。
――これで、終わらせなきゃ。
「――あの、会長」
「うん?」
覚悟を決めたアリアは顔を上げてヴァルと向き合う。
ヴァルの優しい表情が涙で滲んでぼやけていく。
唇が震える。
息が苦しい。
けど、大丈夫。
――あの時みたいに、勇気を出せば。
「――私、今日はこれを返しに来たんです」




