狭間へ舞い降りるは白鳥の調べ
――目を覚ますと、世界は灰色になっていた。
空も。
地面も。
辺りの風景全てが灰色の世界。
その世界では何も音が聴こえてこない。
まるで音楽を否定し、拒絶し、排除したかのような、虚無だけが広がる世界だった。
「…………どうしよう、指揮棒が無いと私、ミューゼになれないよ……!」
そんな世界にアリアの不安が籠った声のみが反響する。
この世界からの唯一脱出する手段は、ミューゼになってヌルを倒すことしかない。
しかし、ミューゼへと変身することが出来る指揮棒は現実世界に置いてきてしまった。
なんとかならないか、どうにか出来ないか、アリアは辺りを必死に見渡しながら逃げ道を探す。
しかし、この空間にはそんなものは存在していない。
ただ、何ものでもない虚無が広がり続けているのみであった。
――そんな時。
――ギィイイイ…………!
「ひぃっ!」
虚無の世界が奏でた音に、アリアは短い悲鳴を上げる。
それは酷く歪なノイズ音。
それは無機質な人ならざる者が鳴らす音。
それは、アリアが一生忘れることのない、恐怖と絶望の音。
虚無の世界の黒い異形、ヌルがやってきたのだ。
「い、嫌っ! 来ないでっ!!」
アリアは制服の袖をギュッと強く握りしめ叫ぶ。
しかし、口を持たぬヌルが言葉を返す筈が無い。
代わりにアリアへ向けて歪な黒い掌を向けて――。
――黒い五線譜を放った。
「きゃあああっ!!!」
アリアの悲鳴と共に、黒い五線譜がアリアの足元に炸裂する。
土煙と黒い音符が辺りに飛び散り、直撃した箇所は何もない黒い虚無へと変貌していった。
「……や、いやぁ……!」
虚無と化した地面を見てしまったアリアは、足がすくんでその場でしゃがみ込んでしまった。
アリアは思い出してしまったのだ。
あの日、恐怖で逃げ回っていたことを。
自分の身体が、虚無へと浸食されていく姿を。
無音の世界の中で、独りぼっちのまま絶命する瞬間のことを。
「いやぁああ!! 来ないで! こっちに来ないで!!」
アリアは地面の砂を握りしめ、ヌルに向かって一心不乱に投げつける。
当然、ヌルにはそんなもの通用せず、ヌルはノイズ音を上げながらゆっくりとアリアへと近づいていく。
――無音の世界の中で。
――泣き叫び無駄な抵抗をするアリアに向かって。
――黒い身体を引きずるように歩きながら。
――ヌルが、近づいてくる。
――そんな時だった。
「――ギィイイイイイイイ!?」
ヌルのノイズ音が苦痛で歪んだ。
アリアへと迫っていた魔の手が、一刀両断に切り離されたのだった。
一瞬の出来事。
何が起こったのか分からない、時間が止まったような錯覚。
そんな錯覚から目を覚ますと、アリアの目の前には人が立っていた。
頭の後ろで纏めた月光のような淡い金髪。
水滴が滴りそうな程の長いまつ毛。
細くしなやかに伸びた体躯。
――音の無い灰色の世界に、一羽の白鳥が舞い降りたのであった。
「…………レイラちゃん?」
アリアが白鳥の名前をポツリと呟く。
名前を呼ばれたレイラは、結った金髪を僅かに揺らして、恐怖で座り込んでしまったアリアを見つめた。
「…………アリアさん。貴方はそのまま動かないで。私の邪魔になるから」
「……え?」
レイラの言葉に怯えた疑問符がアリアの口から洩れる。
レイラの口調は冷たかった。
視線も。
態度も。
レイラが纏う雰囲気も、全てが凍てつく氷のように冷たかったのである。
「貴方は特等席で、思う存分見惚れていなさい。私の舞踏に」
そう言い捨て、レイラはアリアからヌルへと視線を移し、足を交差し腕をゆっくりと広げた。
まるで、これからバレエの公演が始まるかのような姿勢を取ったのだ。
アリアは何も言えずに、レイラに言われた通り黙って見つめる。
レイラが放つ突き放すような重圧、触れてしまえば凍り付きそうな程の冷たさに声を出せずにいた。
そして何より、アリアは驚きで声が出せずにいた。
白鳥の嘴のように伸ばしたレイラの手には、ミューゼの証である指揮棒が指先で咥えられてたからだ。
――そして。
「――始奏」
「白鳥の舞踏」
その口上に、指揮棒は光り輝き――。
――レイラの身体は、白銀の輝きに包まれていった。




