表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/6

5. 十二輪の意味

「第五計測会。以下、七日分」


 九輪。十二輪。十三輪。十一輪。十二輪。十一輪。十二輪。


「週の平均、十一・四輪」


 灯の間が、しんとする。


 週の平均が十二を割ったのは、これが初めてだった。


「割れは三日。いずれも連なってはおりません」


 ユーリス様が付け足される。


「三日続けて割れなければ、(ひび)は入りません」


 その言い方があまりに平らだったので、わたしはかえって背中が冷たくなる。三日続けて割れたら、罅が入るということである。


 ギルベルト様が、日程表を畳まれた。


「では、次を用意いたしましょう。北を、ご覧に入れます」


       ◇


 凍え峠へ行くことになった。


 行列は二百人である。旗と、天幕と、楽隊と、祈祷師が十二人。峠の下で式典をやろうとして、風で天幕が二度飛び、三度目に諦めて杭を打った。旗手の方が、旗を抱えて斜面を追いかけていかれる。


 祈祷師の方々が輪へ向かって長い祝詞を上げているあいだ、楽隊の方の指が寒さでかじかんで、笛の音が一度ひっくり返った。誰も笑わない。笑うと値が上がるかもしれないので、みなさん、笑っていいかどうかを迷っていらっしゃる。


 わたしは、そちらのほうがよほど気の毒だと思う。


 日程は三日前から知らされていた。三輪だったそうである。


       ◇


 峠は、思っていたよりずっと静かだった。


 風の音はする。けれど、鳥の声がしない。


 見上げると、稜線に沿って、細い光の輪が架かっている。夕方の光に混じって、うっかりすると見落としそうなくらい薄い。


 その、いちばん薄いところの真下で――雪が、黒かった。


「凍えが、染みておるのです」


 案内の方が仰る。


「輪が痩せますと、まず色が来ます。次に、風が来ます」


 峠の向こう側は、白かった。ただ白いだけで、生きているものの気配がない。木が一本もない。白い斜面が、空の底までずっと続いている。


 振り返ると、南の斜面に村の屋根が三つ、遠く見えた。煙が上がっている。夕飯の刻限である。


「ヴィンケル、アルテ橋、鹿ノ辻。合わせて四百十人でございます」


 四百十人。


 わたしは、その数を口のなかで転がす。四百と、十。灰通りの路地に住んでいる人数より、たぶん多い。


 一日に、十二輪。


 その十二輪が、この四百十人だった。


 村の名前を、わたしはその場で三つとも覚える。ヴィンケル。アルテ橋。鹿ノ辻。


 名前を覚えると、数が人になる。人になったものは、もう数には戻せない。


       ◇


 風が変わって、外套の裾がめくれる。


 肩から膝まで、すうっと冷たくなる。歯の根が合わなくなる前に、背中に重いものがかかった。


 厚い、黒い、少し煙草の匂いのする外套である。


「観測上の措置です」


 ユーリス様は、こちらをご覧にならないままそう仰る。


「身体が冷えますと、値が落ちます」


「……はい」


「落ちますので」


 二度仰った。


 布ごしに、肩のところだけがあたたかい。わたしは前を向いたまま、その重さを数えないようにしている。数えたら、たぶん何かが減る。


 この方は、わたしの三歩前を歩いていらっしゃる。風上である。背中が広いわけではない。むしろ薄い。それでも、風はたしかに少し弱くなる。


       ◇


 下りの途中、峠番の小屋に寄った。


 老人がひとりで住んでいる。壁に鉈が一本と、干した草が束で吊ってある。


 欠けた椀に麦湯を注いで、無言で差し出してくださった。


「……あの、おいくらですか」


「銭は取らん。ここに来る人間から取ったら、罰が当たる」


「ここに、人はいらっしゃるんですか」


「あんたが今年の三人目だ」


 老人が、椀の縁を親指で拭かれる。爪が割れている。


「二人目は薬売り。一人目は、去年の暮れに死んだ息子の嫁だ」


 二百人の行列は、この小屋の前を通らずに帰っていく。


 湯気が顔に当たって、睫毛が曇る。ひと口飲むと、麦の焦げた匂いと、湯の熱さだけの、ほかに何もない味がした。器の欠けたところが、下唇に当たる。


 ――あ、と思った。


 嬉しい。


 嬉しいと思った、その半呼吸あとに、わたしは考えてしまう。


 これで何輪だろう。


 十二輪に、届くだろうか。


       ◇


 その瞬間に、麦湯の味が遠のいた。


 湯はまだ熱い。手も熱い。なのに、さっきまで胸のあたりにあったあたたかいものが、すっと薄くなって、代わりに喉と胃のあいだに重たいものが下りてくる。


 わたしは椀を両手で持ったまま、それが戻ってくるのを待った。戻ってこない。


 十一輪だったそうである。


 五条の意味が、そこでようやく身体に届いた。局長様の読み上げを聞いたときには、ただの一行にすぎなかったのに。


 数を出すのを目当てにして向かうと、その分だけ、予期になる。


 つまり――わたしが「嬉しがらなければ」と思えば思うほど、わたしは嬉しくなくなる。


 わたしの喜びは、いま、四百十人の命に繋がっている。繋がっていると知ってしまった。


 もう、知らなかった頃には戻れない。


 あの黒い雪の下に、四百十人ぶんの屋根がある。夕飯の煙が三つ上がっていた。


 わたしが今日、麦湯を美味しいと思わなければ、あの煙のどれかが、来年は上がらないかもしれない。


 そう考えることが、いちばん、値を下げる。


       ◇


 その夜、寝台のなかで、わたしは明日のことを考えていた。


 明日は何で驚こう。明後日は何で驚こう。取っておける驚きはないだろうか。三日ぶんまとめて驚く方法はないだろうか。


 考えてから、はっとする。


 明日のぶんは、明日。


 路地裏で、わたしがいちばん最初に覚えた言い方である。取っておけば盗られるか、腐るかのどちらか。だから、その日のうちに食べてしまう。


 その言い方が、この夜、初めて使えなかった。


 厚い敷布のなかで、わたしは膝を抱える。この寝台は、三日目に十九輪だった寝台である。わたしが変わったわけではない。寝台が変わったわけでもない。ただ、わたしが知ってしまったというだけで、こんなにも減る。


       ◇


 翌朝、シビュラ様が灯の間の戸口で待っておられた。


「聖女様。理は、曲がりません」


 それから、少しだけ間がある。


「……十二輪を、三日続けて割らぬように」


 その言い方は、命令ではなかった。命令であってくれたほうが、まだ楽だったと思う。


       ◇


 観測日誌 第五計測会 継承より三十六日


 本日、十四輪。内訳、凍え峠の視察、三輪。峠番の小屋にて麦湯、十一輪。ただし刻みの後半、値の伸びが途中で止まっている。伸びの止まった刻限は、聖女様が輪の下の雪をご覧になった刻限と一致する。


 原因、欠けたる椀の麦湯。


 備考。外套を貸した。観測上の措置であると申し上げてある。措置であったかどうかは、記録しない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ