2. 二度目のパンは、一輪
「第二計測会。以下、七日分」
ユーリス様の声は、今日も高くも低くもならない。
「一日目、計測不能。二日目、十三輪。三日目、十四輪。四日目、十二輪。五日目、十三輪。六日目、十一輪。七日目、十二輪。週の平均、十三・六輪」
六日目の十一輪のところで、灯の間の空気が少しへこむ。十二輪に足りない日を〈割れ〉と呼ぶのだと、この七日で覚えた。
でも、みなさんの関心は、そこにはない。
一日目の、計測不能のほうにある。
◇
朝から、城のなかが妙に静かだった。
侍女の方々が、わたしの顔を見るたびに口の端を結んで目を逸らされる。廊下を運ばれる銀の器を、宰相府の方が三人がかりで検分していらっしゃる。
隠している側が全員、そわそわしている。
昼餉の膳に、その銀の皿が載っていた。
給仕の方が、両手で蓋をお取りになる。ギルベルト様が、顎を引いて頷かれる。
――冷めたパンの端が、載っていた。
そこだけ切り取ったように、みごとに同じ形をしている。厨房の方々が七日かけて、粉の挽き方から冷ます場所まで揃えてくださったのだという。
わたしは、それを口へ運んだ。
硬い。粉っぽい。塩の粒が、歯にざらりと当たる。
あの夜と、まったく同じ味である。
なのに。
「一輪」
読み上げられた数を、わたしはうまく飲み込めない。
美味しくなかったのではない。美味しかった。ただ、胸の奥からせり上がってくるものが、あの夜の十分の一もない。蓋を取る前から、わたしは中身を知っていた。それだけの違いである。
厨房長の方が、廊下の隅で頭を下げていらっしゃる。七日かけて粉を挽いた人の背中である。
「……あの、美味しかったです。ほんとうに」
「もったいないお言葉でございます」
その方は、それ以上おっしゃらない。わたしも、それ以上の言い方を持っていない。謝りたくなるのに、謝る筋合いがどこにもなかった。
◇
「四条でございます」
観測局長シビュラ様が、机の上で指を組まれる。五十四歳。髪をきつく結って、笑うところを見たことがない。
「〈灯環の理〉九条を、いま一度読み上げます」
「局長、それは以前も――」
「読み上げます」
宰相府の方が黙られた。
「一条。灯環は、灯を継いだ者がその日あらたに得た喜びを燃やして保つ。二条。数えるのは、予期と実際の差である。予期したとおりのものは、いかに大きくとも効果が薄い」
二条のところで、ギルベルト様の指がぴくりと動く。
「三条。実際が予期に満たないとき、値は負になる。四条。繰り返せば予期が育つ。同じ喜びは、二度目に半ば、三度目に四半となる」
部屋の隅で、若い官吏の方が顔色を失っていく。手にした献策の綴りを、そっと後ろへ回された。
「五条。値を出すことを目当てにして向かった喜びは、向かった分だけ予期に数える。六条。分かち合った喜びは、差が戻る。他人がどう喜ぶかは、誰にも予期できぬゆえ」
「……お待ちください。では、我々が用意すればするほど」
「七条。欺いて驚かせたものは、欺きが知れたとき、その日の値が全額負に転じる。八条。値はその日限り。持ち越せぬ。九条。測れるのは、聖女ひとりの主観のみ」
シビュラ様が、そこで初めて顔をお上げになる。
「理は、曲がりません」
国庫を動かせる人たちが十人ばかり、揃って黙っている。わたしはこの滑稽な光景を眺めながら、ガリっともう一口パンをかじった。
◇
「局長様。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
評定のあと、わたしは廊下でシビュラ様を追いかけた。
「あのパンを、二度目に美味しいと思ってはいけなかったんでしょうか」
「思ってよろしいのです」
その方は、廊下の途中で足を止められる。
「美味しいと存じることと、あらたに嬉しいこととは、別でございます。理が数えますのは、後のほうだけ」
「……ひどい理です」
「はい」
シビュラ様は、否定なさらない。灰色の髪を撫でつけて、灯の間のほうへ戻っていかれる。
◇
その日の午後、わたしは自分の部屋で、掌をずっと見ていた。
日に灼けて、荒れて、指の付け根が硬い。絹の袖から出ているこの手だけが、灰通りにいた頃のままである。爪の際には、まだ炭の色が残っている。
一輪。
嬉しかった気持ちに、数がついた。
路地裏では、値をつけられるのは危ないことである。買われるか売られるかが近いという合図だから、値踏みされそうになったら目を伏せて走る。それを先に覚える。
いま、わたしは毎日、値踏みされている。わたしの嬉しさそのものを。
喉に、飲み込みそこねた小石がひとつ引っかかっている。窓の外では、庭師が薔薇の枯れ枝を落としている。鋏の音が、規則正しく庭を渡ってくる。
あの音は、たぶん数にならない。毎日、聞いているから。
そう考えた自分に気づいて、掌を握った。
いつのまにか、わたしは音にまで値をつけている。
◇
夕方、封蝋の押された手紙が届いた。
差出人は、レジーナ様。二十二年のあいだ灯を持っておられた先代の聖女様で、半年前に灯を返して、いまは南の海のそばにいらっしゃると聞いている。
紙は安い。字は大きい。
『おめでとう。ひとつだけ。驚けるうちが、聖女です』
それだけである。
わたしは、二回読んだ。三回目の途中で、灯の間のほうから、遠く、かすかな音が届く。
「十七輪」
戸口に立っておられたユーリス様が、そう仰る。
「聖女様――いえ、セリカ様。この手紙の差出人は」
わたしは息を止めた。
この方だけが、わたしを名前で呼ぶ。
「……先代の、聖女様です」
「では、二通目が来る見込みを、記録します」
そう言って、この方は階段を上がっていかれた。
手紙を膝に置いたまま、しばらく座っている。二十文字しかない紙のほうが、二百四十品より重い。
◇
夜の評定で、ギルベルト様が立ち上がられる。
「理は分かりました。同じ手が二度目に半ばになるのなら、答えは一つでございます」
「内務卿。国庫には、限りが」
「贅を尽くすのが目的ではございません。数を絶やさぬことが目的でございます」
白い手袋が、机の上の目録をとん、と揃える。
「では、慣れる前に、次を用意いたしましょう」
◇
観測日誌 第二計測会 継承より十五日
本日、十八輪。内訳、昼餉の冷めたパンの端、一輪。夕刻、書簡一通、十七輪。昼餉の品は初回と同一の製法で再現されたもの。四条により、二度目の値は一輪にとどまる。
原因、先代聖女レジーナ様よりの手紙。文面は二十文字。
備考。同じ品を二度供する策は、四条により本日をもって尽きた。次を用意するとの由。用意される側の値は、いまだ誰も測っていない。




