1. 二百四十品で、二輪
かつん、と音がした。
塔のいちばん上――幸福観測局の〈灯の間〉で、細い針が右の柱に当たって止まる音である。
針をそこまで振り切らせたのは、二百四十品の大晩餐ではない。厨房の床で、下働きの少年から半分だけ分けてもらった、冷めたパンの端である。
――順を追って話す。
今日は、わたしが灯を継いで八日目だった。
◇
〈灯環〉というものがある。
国の北、凍え峠の稜線に架かった光の輪で、峠の向こうの凍えを、この国へ入れずにいる。
その輪を保つ燃料が、聖女ひとりの「その日あらたに嬉しかった量」なのだと、八日前に知った。
単位は輪。目盛りは〇から二十まで。針が振れるたび紙の帯へ線が引かれ、観測官が一刻ごとに刻む。日没に、その日の刻みを足したものが〈日締め〉になる。灯環が燃やすのは、この値である。
一日に、十二輪。それが輪を保つのに要る量だという。
七日ごとの翌日の午後、〈計測会〉で前の七日ぶんが読み上げられる。
――つまり今日が、その日である。
◇
「第一計測会。灯環、本日十二輪を上回っております。以下、七日分」
灯の間に、宰相府と内務卿府の方々が並んでいる。読み上げるのは、当直の幸福観測官ユーリス・アムゼル様。痩せて猫背で、指はいつも黒鉛で汚れていて、声に高低がない。
「一日目、十七輪。二日目、十六輪。三日目、十九輪」
三日目のところで、この方が一度こちらをご覧になった。
「原因、朝の湯。あと一輪で、右の柱に届いております」
「……お湯ですよ。あんなに熱いお湯が、栓をひねるだけで出てくるんですよ」
「記録します」
「そこ、記録なさるんですか」
この方は、わたしの言うことを全部お書きになる。
「四日目、十四輪。五日目、十八輪。六日目、十五輪。七日目、十六輪。週の平均、十六・四輪」
わあ、と声が上がる。
五日目の十八輪は、ごはんが二回出た日である。屋根の下の湯と、二回のごはん。どちらも生まれて初めてだった。
「素晴らしい。実に素晴らしい」
内務卿ギルベルト・フォン・ヴァーレン様が、白い手袋の指を組まれる。四十六歳。書類の角がいつも揃っている方だ。
部屋の奥で、国王ヴァルデマル二世陛下が身を乗り出された。
「十六・四か。よいぞ。数が上がるのは、よいことだ」
「陛下。では、今宵の大晩餐は、いったい何輪になりましょうか」
◇
長卓に、金の皿が端から端まで並んでいる。鴨、鹿、川魚、砂糖菓子の塔。燭台の火が皿の縁を撫でるたび、光がひとつずつ増えていく。
二百四十品。献立は三日前から触れ回られていて、わたしも一昨日、絵入りの目録を頂いた。
鹿肉は柔らかい。砂糖菓子は、口のなかで音もなく崩れる。
――ただ、味が遠い。
三百人が、わたしの手元を見ている。匙を持つ指、口へ運ぶまでの間、噛む回数まで。一口ごとに、卓のあちこちで囁きが起きる。いま動いたか。まだだ。次の皿だ。
喉が細くなって、顎が固まる。舌に載っているはずのものが、一枚向こうでしている味みたいになる。
それに、全部知っていた。献立も、順番も、次に何が来るかも。目録の絵と、皿の上とが、同じ形をしている。
驚く場所が、どこにもない。
半分ほど残った鴨を見て、つい、指を伸ばしてしまう。
「聖女様」
給仕の方が、そっと皿をお引きになる。
「明日は、また別の献立をご用意しております」
「……あ。はい」
路地裏では、明日の勘定はしない。取っておけば盗られるか腐るかだから、残りものはその日に誰かと分けてしまう。
明日のぶんは、明日。
もったいない、という言葉は、この広間では通じないらしい。
◇
宴の後半に、それが来た。
銀の盆に、封をした紙が一枚。針の報せは一刻ごとにまとめられるので、遅れて届く。
大広間が、しん、となる。ギルベルト様が封をお切りになる。
紙を見る目が、一度止まった。
「……二輪」
「何輪と仰いました」
「二輪でございます」
どこかで、匙が皿に落ちる音がする。
視線が、また集まる。責める目ではない。困っている目である。それが、少しだけ痛い。
並べてくださった方々に、ごめんなさい、と言いそうになる。
ギルベルト様が、静かに紙を畳まれた。
「では、次を用意いたしましょう」
◇
抜け出したのは、半刻あとである。
階段を下りて、下りて、灯りが減っていく先に厨房がある。竈の煙と、洗った鉄鍋の匂い。わたしには、こちらのほうがよほど懐かしい。
下働きの少年が、床に座って何かを齧っていた。わたしを見て、跳ねるように立ち上がる。
「あ、あの、これ、余りで。盗ってません」
「知ってます」
「え」
「半分、ください」
少年が、恐る恐るちぎってくれる。冷めたパンの端である。硬くて、粉っぽくて、塩の粒が、噛んだ歯にざらりと当たる。
――おいしい。
その一言が、胸の奥から勝手にせり上がる。
目録などないパンの端っこ。誰も、これから素晴らしいものをお見せしますと言わない。誰も、わたしの口元を見ていない。ただ、余りものを、半分もらった。灰通りでは、それがいちばん普通で――心がホッとしたのである。
どん、と塔のほうで音がした気がする。
◇
駆け下りてきた足音が、厨房の入口で止まる。
ユーリス様である。息が上がっている。この方が走るところを、初めて見る。
「針、止まりました。計測不能です」
「……ごめんなさい。また壊しました」
「壊れておりません。振り切れただけです」
それから、この方はしばらく黙っていらした。
黒鉛で汚れた指が、帳面の縁を撫でる。竈の火が、その横顔を赤く縁取っている。
「――もう一度、同じものを」
「え?」
「もう一度、同じものを、お召し上がりいただけますか」
「これを……?」
わたしはパンを見る。それから、この方の帳面の開いた頁を、こっそり覗いた。
日付の下に、名前が書いてある。
セリカ、と。
路地裏では、誰もわたしを名前で呼ばなかった。「おい」か「そこの」で足りたから。宮廷でも、みなさま「聖女様」と呼ばれる。
名前を毎日書かれるのは、この帳面のなかだけである。
わたしはどう答えていいものか分からず、ガリっともう一口パンをかじった。
◇
観測日誌 第一計測会 継承より八日
本日、計測不能。針、右柱に接触。日没前の刻みに、大晩餐二百四十品、二輪を含む。献立は三日前に公示済み。二条により、予期はすでに育っていたと見る。
原因、厨房にて下働きより譲り受けた冷めたパンの端、半分。公示なし。供する意図なし。渡した者は、相手を聖女様と知らずにいる。
備考。もう一度、同じものをと申し上げた。理由は、記録しない。




