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1.悪夢のような男

『逃げろ、イングヴァル。今はそれしか言えない。だが絶対に逃げ切れ』


 半月振りに辿り着いた街の中を、イングヴァルは駆けていた。


 走り抜ける周囲には、戦渦の折にも倒壊を逃れた歴史的建造物が建ち並んでいるが、目を瞠るそれらを見る余裕も、食欲をそそる屋台のにおいに腹を鳴らす余裕もなかった。

 ただひたすらに人混みを縫いながら、街中を駆け続けていた。


「おーい、連、どうして逃げるんだー」


 走りながら背後を振り返れば、雑踏から頭一つ分出た男の姿がある。

 歳の頃は三十代前半、細身で長身、一見育ちがよさそうには見える。


「おーい、待ってくれってー」


 その顔には人懐っこく魅力的な笑みが浮かんでいるが、なぜか同時におぞましくも映る。

 そう感じるのは、現在身体を共有する連から流れ込む不穏な気配のせいなのかもしれなかった。

 

 今から数分前、イングヴァルは辿り着いたばかりのこの街の雑踏で背後の男と遭遇した。

 目が合った瞬間、男は満面の笑みをその顔に浮かび上がらせ、直後連からは震え混じりの小さな声が届いた。 


『お前……ファブリシオ……』


 怯えも混じり込んだその声は、常に冷静沈着な彼女が発したものとは思えなかった。

 彼女は続けて絶対逃げ切れと強く言い伝え、イングヴァルは即その指示に従った。

 この男から逃げる理由が分からなくとも、今はそうするべきだと本能で感じ取っていた。


 駆ける速度を上げると、イングヴァルは前方の角を勢いのままに折れた。

 通りから外れたその細い路地には、多くの家々が密集して建ち並んでいる。

 イングヴァルは素早く周囲を見回し、目に留めた傍の石塀に手をかけると一気によじ登った。更にその先にある家屋の屋根にまで上ると、煉瓦造りの煙突の陰に身を潜めた。


「おーい、連、どこに行ったんだよー」


 下の路地を窺うと、男はきょろきょろと辺りを見回しながら連の姿を捜している。

 緊迫続きのこちらの状況に反して、男の様子はどこか呑気にも見える。

 男は声を上げながら路地を行ったり来たりしていたが、しばらくしてここにはいないと判断したのか去っていった。


「連……あいつは何者だ……?」


 男の姿が見えなくなっても、イングヴァルは屋根から降りる気になれずにその場で訊ねた。

 連からの返事はなかなか戻らなかったが、長く続いた沈黙の終わりにこれまたらしくない惑い声が届いた。


『あいつは……ファブリシオ・ゲリアという……一年ほど前に立ち寄った街で出会った男だ……一言で形容するなら馬鹿だ。だが怖ろしく頭の切れる馬鹿だ』

「……頭の切れる、馬鹿……?」


『あいつは私に酷く執着し、今もこうして後を追ってきている。さっきも言ったが、決して捕まるな。私は一年前、一度捕まった……奴に捉えられ、奴の悪趣味なベッドに括りつけられ、まる三日間、二度と思い出したくないような体験をさせられた……解放された四日目の朝、陽の光が目に刺さるようだった……腰はまともに立たず、完全に体力が回復するまで七日を要した……それ以降、奴は裕福な家も約束された将来も放り出して、私を追い続けている。元々旺盛な好奇心と性欲の持ち主だ。その上無駄に腕も立つから余計に厄介だ。再び奴に捕まれば、もしかしたらもう二度と……』

「わ、分かった、そ、その先は言わなくていい! も、もう充分分かったから!」


 イングヴァルはある種の恐怖を覚えながら、連の言葉を遮った。

 この姿になって以降、男の時には不要だった危機に何度も直面していた。

 それらと出会う度、連の体術と自らの強い拒否感でやり過ごしてきたが、どう足掻いても体格の差や力で敵わない時もある。


 今の話からは、これまでとは段違いの危機感を感じ取っていた。

 彼女があれほどまでに忌避感を覚えるあの男との遭遇は、絶対に回避しなければならなかった。そうしなければ連と自分、どちらの精神も崩壊しかねなかった。


「し、心配するな、連……何があろうとあいつからは絶対逃げ切る!」

『……ああ、頼む、イングヴァル、期待……してるから……』


 その言葉を最後に連の声は途絶えた。

 一度捉えられてしまったことを思い返せば確実とは言い切れない危惧は残るが、連の身体と自分の精神を守れるのは、今現在身体の所有権を持つ自分しかいないのは分かっていた。


 イングヴァルは警戒を緩めずに屋根から降りると再び通りに出て、市場方面に向かった。

 観光客や地元の買い物客が多く溢れる市場なら、身を隠すのにも適している。


 市場に着くと甘い香りを漂わせる果物や、ミルクに大量の砂糖を入れて煮詰めた紅茶など、初めて見る土地の名物料理や民芸品、そのようなものを売る店が通りに連なり、イングヴァルの興味も惹く。

 

 炙って香辛料をまぶした鶏肉の香りに腹が鳴ったが今は諦めて、衣料品を扱う店に立ち寄ると藍色のショールを見繕った。

 それを頭に被り、上半身まで覆うと長い髪と着物が大方覆われ、大分印象が変わる。

 それでもイングヴァルは警戒を解くことなく、慎重に通りを歩いた。


 本来ならすぐにでも情報収集に勤しみたいところだったが、状況が変わった。

 早めに宿を取って、数時間は潜伏した方がいいようだった。


「クソ……あいつのせいで予定が狂う」


 市場通りにも宿屋はあったがこんな賑やかな場所ではなく、できればもっと人目につかず、できればもっと場末にあるような安宿がよかった。

 そんなことを考えながら、こそこそと下を向いて歩いていたのが災いしたのか、正面から来た小柄な人物とぶつかってしまった。 


「おい! 痛ってぇな、気ぃつけろよ、姉ちゃん」


 その声に目を向けると、そこには十一、二才くらいの少年の姿がある。


「ああ、すまない、怪我はなかったか?」

「はぁ? 怪我? こんなことぐらいで怪我なんかするかよ。柔な姉ちゃんにぶつかって怪我なんかしたら、こっちが恥ずかしいよ」


 そう言って少年は勝ち気そうな表情でこちらを見上げている。

 諸々のその物怖じしない言動には、つい脊髄反射で生意気なガキだとイングヴァルは思ってしまうが、自らの少年時代を振り返ってみれば、恐らく彼の方が相当マシだろうと思い直す。


「そりゃ悪かったな。それじゃ、もののついでに柔じゃない坊主に一つ訊ねたいんだが、いいかな」

「おう、何でも訊けよ」

 少年は勝ち気な表情をより際立たせて、胸を叩いてみせた。


「この辺で一番安い宿ってどこかな? できれば人目につかない宿だと、なおいいんだけど」

「安くて、人目につかない宿……? うーん……それならこの通りをずーっとまっすぐ行った先に灰色の屋根の小っさい宿があるんだけど、そこかな。だけど姉ちゃん、安い宿って……もしかして貧乏人か……?」


「貧……もうちょっと言葉は選んでくれよ。でもまぁ、確かに裕福ではないな……」

「ふーん、可愛い顔してんのに残念だな。だけど貧乏だろうが何だろうが、この先も生きていくしかないもんな。まぁ、細く長くがんばれ」

「あ、ああ……」


 少年はありがたい激励の言葉を放つと、手を振って去っていった。

 自分のガキの頃よりマシだと思っていたが多分……いい勝負であったようだった。


『イングヴァル……』

「ど、どうした、連? 奴か?」


 再び届いた連の声にイングヴァルは身構えたが、辺りを見回しても男の姿はどこにも見えない。

 

『違う。今すぐ荷物を確認してみろ』

「えっ?」


 言われてすぐ確かめたが、金を入れてある革袋がなくなっている。

 それには旅の資金の多くが入れてあった。

 ショールを買った店では間違いなくあった。なくなったのはその後だ。


「もしかしてあのガキ……」


 あの少年がスリであったと、今更のように悟る。

 彼が去った方角に急いで向かってみるが、もういるはずもない。

 金を盗られた後も呑気に彼と会話していた自分には、残念な思いのみがよぎる。


 いつもならすぐに気づいていたはずだ。

 しかし他のこと(ファブリシオ)に気を取られ、全く気づけていなかった。

 だが今更そんな言い訳をしてみても、自分すら納得させられそうもなかった。


「まったくなんて日だ……」


 そう呟いても、己の取り返せない失態を取り消せるはずもなかった。

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