1.紫堂連
祭壇の前で、自らの血と肉にまみれて死んだ男。
遠い異国の地で、自らが捨てた得物に貫かれて死んだ男。
教会で人々に説き続ける男は、常に傍にある死を横目に寂れた地で生きる――。
「イングヴァル」
焚き火の炎が、周囲の闇を照らしていた。
これまで幾度も繰り返されてきた同じ夜。
頭上にある森の木々の切れ間からは、月と崩壊しかけた塔が覗く。
隣の少女は一呼吸置いた後に、静かに告げた。
「イングヴァル、言っておきたいことがある。私自身の話だ」
届いた声には固い意思が垣間見えた。
彼女の生い立ちについて興味を持ったことは確かにあったが、今はもう敢えて聞かずとも〝彼女という人間〟を知っている。
幻の姿を燻らせるイングヴァルは、そう言い伝えるために隣の少女に向き直った。
『その必要はない、連。俺が明かしたからといって、お前にも語れとは言わない』
「違う、イングヴァル。話すのは私の意思だ。私の意思で話すと決めた。あの場所に向かうその前に」
彼女は眇めた瞳で遠くにある塔を見る。
その後、赤々と燃え盛る炎を見つめながら、自らの生い立ちを淡々と語った。
******
紫堂連は十七年前、極東のとある島国で生まれた。
彼女の家は代々土地を治める権力者だったが、威厳と温厚さを備えた歴代の主達は皆に慕われ、人望も厚かった。
先代達と同様に立派な人格者である父の祐、嫋やかで優しい母の美和、六つ歳の離れた妹思いの姉、薫子、そんな家族に見守られ、連は健やかに成長した。
生まれながらに持つ両方の性については当然家族は知っていた。でも彼らは多くを口にせず、ただ連が彼女なりに選び取った幸せを手にできることを願っていた。
暖かい陽だまりのような平穏な日々、そんな毎日がいつまでも続くと思われた。
しかし紫堂家は遠い昔から、ある昏い秘密を抱えていた。
代々紫堂家には、常に女児しか生まれない。
そしてもし二人姉妹であるならそのどちらか、それ以上の姉妹であるならその内の一人。
その子供が十才になった時、必ず身体のどこかに黒い痣が現れる。
それは最初は小さなものでしかない。
だが歳を得るごとに痣は広がり、次第にそれは身体の内側まで蝕んでいく。
終には身体中を腐食させ、耐え難い痛みで対象者を苦しめる。『選ばれた一人』となった者の行く末にあるのは、安らぎの欠片もない死のみだった。
悲劇的なこの事実は数百年もの間、紫堂家に昏い影を落とし続けてきた。
静かにゆっくりと確実に這い寄る、この家にかけられた終わりのない呪いだった。
連の母、美和にも多喜という名の姉がいた。
しかし彼女は連が物心ついた頃には、既にこの世にいなかった。『選ばれた一人』となった彼女の最期がどのようであったか、美和は今でも口を噤んで話そうとしない。その理由は彼女が墓場まで持っていこうとするその決心に垣間見ることができていた。
呪いは再び次の代に送られ、連がこの度の『選ばれた一人』となった。
だが連は薫子が発症しなかった六年前の時点で、既に覚悟を決めていた。
けれど薫子の方は違っていた。
妹が確実に『選ばれた一人』となったと知った彼女は悲嘆に暮れ、泣き続けた。
妹へと呪いが手渡されると確立した六年前から、彼女は自らに痣が現れなかったことを悔やみ続けていた。
連は泣き続ける姉に寄り添うと、彼女を慰めた。そして彼女が悲しむ必要などないと言った。
こうなったのは誰のせいでもなく、運命だった。連はそう感じていた。
『今回の生贄は妹の方だったか。可哀想に』
『いやいや、両親は安心したのではないか。まともな方が残ったのだから』
『恐らく〝だからこそそうなった〟のだろう。最初からその運命だった。選ばれたことがその証とも言える』
周囲の大人達が放った言葉の意味合いは、幼い連にも伝わっていた。
いつの世も心ない大人は存在するものだった。でもそれらを受け取っても連の中に悲観はなかった。
〝運命だった〟
無情な言葉ではあるが、それが真実だとも思っていた。
自らに舞い降りたこの運命は、確かに自分のこれからの道筋をつけた。
しかしそのとおりに流される必要などなかった。
そこから進む術と歩む道を見つけるのは自分だった。
ただ徒に運命に身を委ねるのは、愚かな行為でしかない。
常に前を見据え、抗い続けることが、これからの自分の人生に必要だと感じていた。
だがそれから数年の時が経ち、
連は運命が自らの歯車だけを狂わせるものではないと、思い知ることになる。
きっかけは姉、薫子の結婚だった。彼女の夫となったのは宮前圭介という姉妹の幼馴染みの青年だった。
自由恋愛ではなかったが親戚筋でもある彼は全ての事情を知った上で薫子に求婚し、薫子も誠実な彼を好いていた。
翌年には水葉という娘も生まれ、両親と優しい夫に見守られて幸せそうに赤ん坊を抱く姉を見ながら連は昏い不安に襲われ始めていた。
呪いは今も脈々と続いている。
いずれ水葉か、彼女の妹が自分と同じ運命を辿る。
自分さえこの運命に抗えばいいと思っていた。
だがそんなはずなどなかった。
いつか必ず起こり得るその不幸は、あってはならないことだった。
そんな中、ある噂を耳にした。
遥か遠くにある西方の国、そこにはこの世に存在する全ての呪いを解くことができる男がいるという。
男の顔も、居場所も分からない。分かっているのは名前だけ。
可能性は微々たるものでしかなかったが、連はその男を捜しに行くと決めた。
無論両親も姉夫婦も、強く引き留めた。
しかし決心が決して揺らがないと知った後は何も言わず、ただ彼女の身を案じていた。
旅立ちの日、皆がまだ寝静まっている間に連は家を出た。
小さかった痣は五年の間に、肩から腕へと広がろうとしていた。
自らが望むものを手にできる保証など、何一つなかった。
男を見つけ出すより先に、この身体が朽ち果てるかもしれない。
でも呪いが身体中を蝕むその前に、この命が潰えるその前に、大事な人達を守る手段を手に入れるために踏み止まることも、振り返ることもしなかった。
******
「確かに私は遠回りをしているのだろう。でもイングヴァル、私はお前の行く末を見届けると決心した。この先どんなことが起ころうと全て受け入れる。そう決めた」
焚火の炎が爆ぜ、火の粉が散る。
風に吹き流されていくそれはイングヴァルの幻の身体を通り抜けていった。
単身故郷を出た彼女は、大きな目的を持ってこの地を旅していた。
しかし望まず運命づけられた大きな回り道に、今も翻弄されている。
だが自身の身体を取り戻すことが既に可能だとしても、彼女は目的と永遠に遠離ってしまう可能性も孕む道を選ぼうとしている。
『……連』
イングヴァルは暗い空を見上げながら呼びかけた。
自らが始めたこの復讐の旅。
そこには正義も正気も存在しない。
そんなことなど最初から分かっていた。
辿り着いた最後の地で〝自らが到達した最期〟を見届ける。
それが自分に課せられた理であり、運命だった。
『明日、あの塔へ向かう』
響いたその言葉は闇に溶けながら消える。
返事は戻らなかったが、必要もなかった。




