1.乖離
イングヴァルは水面に浮上すると、肌に張りついた長い髪を掻き上げた。
連の漆黒の髪は濡れると一層艶を増す。そのなめらかな手触りにはこれまで幾度も心奪われたが、今は何も感じなかった。
再度水に浸かり身体を水面に浮かせて、夕闇近い空を見上げる。
森の奥深く、翠の水面をひっそりと湛える泉の水は冷たかったが、心地よくもある。
右手を挙げれば、連の張りのある肌を水滴が伝っていく。
彼女の右肩から腕までを覆う黒い痣。不安をかき立てるその色が肌を覆い尽くそうとしていても、彼女が一体どう感じているのかイングヴァルには分からなかった。
『……イングヴァル』
連の呼びかけが届いたが、イングヴァルは何も言わず頭まで泉に浸かった。
彼女が自分の意思で身体を入れ替えられると知って以降、その声を無視することが多くなっていた。
よくないことだとは分かっていた。
しかしその事実から目を背け続けていたいと感じているのも事実だった。
昏い水中に沈むと、くたばり損なったあの日が蘇る。
本当は死ぬはずだった自分に与えられた二度目の生。
その決断を下したのは〝この世を掌る大きな何か〟だと、連は言った。
その相手に新たな身体を与えられ、自分は生き延びることができた。
だがまたその何者かの気まぐれによってこの身体も、未だ果たせずにいる復讐の機会も奪われようとしている。
弄ばれているとしか思えなかった。
理不尽でしかないと思った。
でも自分など遙かに凌駕する理不尽さに巻き込まれた人物がすぐ傍にいる。
連は何もしてない。
彼女は元犯罪者でもなければ、自らの誤った判断で家族を死に追いやったりもしていない。
ただ死にかけの男を哀れに思って、親切心で近づいただけだ。
結局自分は彼女を思いやっているようで、実はただの『容れもの』としてしか見ていないのかもしれないとイングヴァルは思った。
今ここにあるのは復讐を絶対の盾にして、生にいつまでも執着する醜い男の姿なのかもしれなかった。
「なぁ連……一体いつから身体を自由に取り戻せるようになってたんだ……?」
水面に浮上し、イングヴァルは問いかけた。
暫しの沈黙の後、いつもと変わらぬ声が届いた。
『……その問いの正確な答えにはならないかもしれないが、不確かながら〝戻れる感覚〟というものを徐々に感じるようになっていた。実行したのはあの時が初めてだった……但し長くは戻れないし、恒久的でもない。それに代わる時は〝戻る〟という私の強い意思が必要だ……だからイングヴァル……』
「〝だからイングヴァル、復讐を果たすまでお前に身体を貸す〟ってか?」
『……ああ、そうだ。何か不満があるか?』
相手からは予測どおりの返事が戻り、その返答にイングヴァルは苛立ちしか感じていなかった。
絶対言わないと分かっているが、もっと違う言葉が聞きたかった。
お前になど二度と身体の主導権を握らせない。
こちらの未練を完全に断ち切るような決定的な言葉が欲しかった。
「……連、あの時、なぜジーラに行こうと言わなかった……? やっと掴んだ貴重な情報だったはずだ。俺の目的地のサルマは、ジーラとは逆方向だ。そんな回り道をしていたら相手を取り逃がす……俺の存在など障害でしかない。利点など何一つない。それなのに身体を取り戻す機会も、目的を果たす機会も他人に譲ろうとするお前は一体何なんだ? 馬鹿以外の何者でもない」
その言葉を向けたが、相手から返答が戻ることはなかった。
イングヴァルは溜息を一つ落とすと、岸に向かって泳ぎ始めた。
だが戻ろうとしたその岸辺に、先程まではなかった人影があることに気づく。
荷物を漁っていたらしきその人影は着物の下に隠していた刀を見つけ出し、手に取る。
立ち上がり、そのまま立ち去ろうとした相手にイングヴァルは声を上げた。
「おい、お前、何してる!」
響き渡った声に相手が驚いて顔を上げる。
遠目だが、まだ十代の少女と分かった。
彼女は動揺を見せたがそれでも刀は手放さず、身を翻し森の方へと逃げていく。
イングヴァルは急いで水から上がると裸身のまま相手を追いかけた。
「待て!」
声を上げながら相手を追うが、怪我でもしているのか左足を引き摺る相手のその背を捉えるのは容易かった。
肩を掴み、草の上に引き倒す。
刀を取り上げ、身体を返した。
上から両手首を押さえ込み、身体を跨いで間近で見下ろす。
濡れたままの身体から滴る水が下にいる相手の胸元にポタポタと落ちた。
「どうして盗んだ?」
問いかけても相手は答えず、ただ怯えた表情でいる。
詰問から逃れるために彼女は目を逸らすが、逸らした先で連の下半身が目に入り、顔を赤らめる。
怯えと困惑。それらの感情が混じり合ったその表情をイングヴァルは久しく目にしたことがなかった。非力でしかない表情やその仕草に、次第に己の嗜虐の欲望が煽られていくのを感じていた。
「どうした? 俺が怖いか?」
少女の頬に指を添え、イングヴァルは強引に正面を向かせた。
童顔のせいで幼く見えたが、恐らく連よりも年上の少女だった。
顔を近づけると、怯えの中に微かに恥じらいが浮かぶ。
イングヴァルは舌を出し、相手の唇を舐め取った。
子供のような甘い香りが鼻腔をくすぐり、一瞬後悔がよぎる。
自分は今からこれまで徹底的に見下し、蔑んでいたはずの行為を行おうとしている。
それに気づいたが、もう止められなかった。
服の上から相手の胸のふくらみに触れ、掴み取る。
意外なほどの豊かさに下半身が反応する。
欲望に突き動かされ次の行動に移ろうとしたが、その時これまで黙していた連の声が届いた。
『やめるんだ、イングヴァル』
「……は? やめろ? なぜやめる必要がある? こんなのはいつもやってることと大差ない。それとも今日は相手がガキだからやめとけってか? 心配するなよ、連。こんな顔してたって身体までガキとは限らない。とっくに処女でも童貞でもなかったお前と同じだよ」
『やめろと言ってるんだ』
「しつこいな、いつもみたいに黙ってろよ」
『心にもないことを言うなと言ってるんだ、イングヴァル』
「知ったような口を利くな、連。お前に俺の何が分かる?」
『身体を共有していれば口にしなくても分かる。お前にも私の思いは伝わっているはずだ。現実から目を逸らす代わりに、他人や自分を傷つけるのはやめろ』
イングヴァルはその言葉に何も答えられず、黙した。
その場で動きを止め、悔恨の情に駆られていた。
連に制止されなければ、死んでも後悔しきれない愚かな行為に突き進んでいた。
少女の手首を掴んでいた力が弛み、力なく顔を上げる。
その時ようやく傍に誰かが立っていることに気づいた。
「この化け物! リリーから手を離せ!」
突然のことで、何も反応できなかった。
振り翳された何かが側頭部を直撃する。
その強烈な衝撃に耐えきれず身体からは力が抜け、意識が遠離る。
「リリー! 無事?」
草の上に昏倒したイングヴァルの目に最後に映ったのは木の棒を握り締め、怒りに身を震わせた長身の少女の姿だった。




