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判定

# 第五話 通知前夜


 外出の翌日から、待つだけの日が始まった。


 朝食が来る。昼食が来る。夕方になるとジョゼフが記録を持ってきて、俺が印石を押す。判定はまだです、と言われる。扉が閉まる。


 一日目も、二日目も、それで終わった。


 食事を持ってくる職員は毎回同じではなかった。盆を置き、軽く礼をして、すぐに出ていく。俺も何も言わなかった。言うことがなかった。


「通常、一週間から十日程度です」


 外出の翌日、ジョゼフに判定の通知がいつ来るのか聞いた。彼は少し考えてから、そう答えた。


 一週間から十日。


 つまり、今週か来週。


 分かったのは、それだけだった。


---


 窓から農地が見えた。


 外出の日は晴れていた。今日の空は低く曇っている。通信柱、魔動機関車、公告板の数字、港の装甲艦、勇者レオンの横顔。外で見たものは確かに本物だったはずなのに、施設に戻ると少し遠くなった。


 新聞は机の引き出しに入れてある。


 何度か読み返した。読むたびに、同じ名前が目についた。


 勇者レオン隊。


 誰もが知っている、と記事には書かれていた。


 誰もが知っている。


 俺がこの世界に来てから、まだそれほど経っていない。それでも、もうその名前だけは覚えてしまった。


 窓の外で農夫が一人、鍬を担いで歩いていた。俺はしばらくそれを見ていた。


---


 三日目の昼、扉を叩く音がした。


 いつもの職員だろうと思って開けると、知らない顔があった。


 俺よりだいぶ若い。十四か十五くらいだろう。まだ少年と言っていい顔で、目だけがやけに明るかった。施設の下働きらしい服を着て、両手で盆を支えている。器が二つ、盆の上で小さく揺れていた。


「ナカムラさん、ですよね」


 率直な問い方だった。


「……はい」


「会いたかったんです」


 少年はそこで、自分の声が少し大きかったことに気づいたらしい。廊下の左右を見て、肩をすくめた。


「あ、すみません。フェイです。ここで働いてます。一昨日まで家に戻っていて、昨日こっちに戻りました。転生者の方が来ているって聞いて、それで」


 フェイはそこで一度、言葉を探した。


「俺、神託者の話を聞くのが好きなんです。絵札とか新聞とか、そういうのじゃなくて、本人がどう思ってるのか、聞いてみたくて」


「俺に聞いても、まだ何も分からないですよ」


「でも、来た人でしょう」


 フェイは当然のように言った。


「それだけで、俺には聞きたいことがあります」


 言葉が止まらない。気後れしていないようで、フェイはもう一度だけ廊下を見た。


「あの、これ、置きますね」


 盆を机に置くときだけ、手つきが急に丁寧になった。今日は汁物の匂いがした。


「……勝手に話しかけていいんですか」


 俺が聞くと、フェイは少し固まった。


「本当は、あんまり良くないと思います」


「なら駄目じゃないですか」


「でも、食事を届ける係なので。届けるときに少し話すくらいなら……たぶん、大丈夫です」


「たぶん」


「ジョゼフさんに見つかったら怒られます」


 本人は真面目な顔で言った。怒られる自覚はあるらしい。


「今は仕事中なので、長くは無理です。でも、夜なら少し時間があります。あの、また来てもいいですか」


 俺が答える前に、フェイは慌てたように続けた。


「もちろん、迷惑なら来ません」


「……別に、迷惑ではないです」


 そう言うと、フェイの顔が少し明るくなった。


「じゃあ、夜に来ます」


 彼はそれだけ言って、すぐに廊下へ戻っていった。


 夜なら来てもいいというわけではないだろう、と言いかけたが、扉はもう閉まっていた。


---


 その夜、また扉が鳴った。


「やっと終わりました」


 フェイは仕事着のまま廊下に立っていた。手には小さな紙包みを持っている。


「どうぞ」


 部屋に入ると、フェイは壁のそばに立った。座っていいと言う前に、もう話し始めていた。


「ナカムラさんは、S級のこと知ってますか」


「新聞で少し」


「じゃあ、レオンさんは?」


「名前だけなら。詳しくは知らない」


 フェイの目が大きくなった。


「レオンさんって、七年前に北方でとんでもないことをしたんです」


 彼は紙包みを開いた。中には絵札が一枚入っていた。


 勇者レオンらしい男が、剣を構えている。背後には壁のように大きな魔物。光の線が魔物の胸を貫き、その後ろに小さく兵士と大砲が描かれていた。


「北の拠点都市に、大型の魔物が出たんです。砲で撃っても倒れなくて、傷が戻るやつです。外皮を砕いてもまた動く。それで二週間も包囲されたんです」


「二週間も」


「はい。そこに援軍としてレオンさんが来て、胸のあたりを一撃で貫いたんです。絵札だと、こう、光が走って、魔物の体が真っ二つになってるんですけど」


「真っ二つ」


「すごいでしょう」


 フェイは嬉しそうに言った。


 俺は絵札を見た。勇者の顔は凛々しく描かれている。背後の兵士と大砲は、言われなければ背景の一部にしか見えなかった。


「それ、どこまで本当なんですか」


 口に出してから、少し意地が悪かったと思った。


 フェイは予想外の返答だったらしく、瞬きをした。


「え」


「新聞とか絵札って、だいぶ盛られるんじゃないですか」


「ああ……」


 フェイは少し考えた。それから、絵札の端を指で押さえた。


「盛られてる部分はあると思います。でも、全部嘘じゃないです。レオンさんが北方で生き残ったのは本当ですし、その魔物が倒されたのも本当です」


「本人が一人で倒したのか」


「絵札だと一人です」


 フェイは少し笑った。


「でも、本当は兵士もいたし、大砲もあったと思います。そういうのは、絵札には小さくしか描かれません」


「小さくは描かれているんですね」


「はい。隅の方に。見たことあります」


 得意そうに言った。


「たぶん、細かいところが違うんです。でも、細かいところが違っても、すごいものはすごいんです」


 その言い方は子どもっぽかった。だが、馬鹿には見えなかった。


 俺は絵札を返した。


 フェイは大事そうに紙包みに戻した。


「ナカムラさんは、どういう人がすごいと思いますか」


「どういう人が、というのは」


「S級の中にも色々いるじゃないですか。派手に戦う人、広い範囲で人を治す人、誰も死なせない人。俺はレオンさんみたいに前に出る人がかっこいいと思うんですが」


「まだ分からない。この世界に来て日が浅いので」


「そうですよね。俺、忘れてました。ナカムラさんって最近来たんですよね」


 フェイは少し恥ずかしそうに笑った。


 それから、絵札の包みを胸の前で持ち直した。


「でも、分からなくても、見たら分かると思います。たぶん。すごい人は、見たら分かるんです」


 根拠のない言い方だった。


 だが、その雑さが少し羨ましかった。


 理由を丁寧に説明されなくても、誰かの中で先に答えになっている人間がいる。


 俺は、そういうものに一度もなったことがなかった。


---


 その後も、フェイは何度か来た。


 昼は短く、夜も長くはなかった。話の中身は、ほとんどが絵札と噂だった。


 レオンが北方で魔物を貫いた話。聖女が疫病の街に入った話。別の神託者が崩れた橋を一晩で直したという話。どれも、どこまで本当なのか分からない。


 けれどフェイは、それを疑いながらも楽しそうに話した。大人の言葉を借りて説明しようとして、途中で我慢できなくなり、結局ただ「すごいんです」と言った。


 四日目の夜、フェイは紙包みを二つ持ってきた。


「厨房で余ったんです」


 そう言って、片方を俺の机に置いた。中には硬い焼き菓子が一つ入っていた。表面に砂糖の粒が少しだけついている。


「勝手に持ってきていいんですか」


「余りです。たぶん大丈夫です」


「また、たぶんですか」


 フェイは真面目な顔で頷いた。


「はい。たぶんです」


 俺は少し笑った。


 焼き菓子は硬かった。歯で割ると、粉っぽい甘さが口の中に広がった。うまいかと聞かれると微妙だったが、まずくはなかった。


「ニホンにも、こういうのありますか」


「あります。もっと柔らかいものが多いですけど」


「柔らかい焼き菓子」


 フェイは、その言葉だけで少し驚いた顔をした。


「そんなに珍しいですか」


「珍しいというか、うちの焼き菓子はだいたい硬いので。遠くまで持つから」


 言われてみればそうだった。うまさより、保存できることの方が重要な菓子なのだろう。


 俺はもう一口かじった。


「でも、これはこれで悪くないです」


 フェイは少しだけ安心したように笑った。


 その顔を見て、俺は自分がただ感想を言っただけなのに、相手を安心させたことに気づいた。


 それは、この世界に来てから初めて、自分の言葉が何かを少し動かした瞬間のように思えた。


---


 五日目の夜、ジョゼフが居室にいた。


 夕方の記録を届けに来て、そのまま書類を整理していた。そこへ扉が叩かれた。


「ナカムラさん、少しだけ——」


 扉を開けたフェイは、そこで止まった。


 ジョゼフが顔を上げた。


「フェイ」


「……はい」


「勤務は終わったのですか」


「終わりました」


「では、ここに来た理由は」


 フェイは盆も布巾も持っていなかった。手ぶらだった。


「食器の……確認です」


 食器はすでに下げられていた。


 ジョゼフは机の上を見て、またフェイに視線を戻した。


 数秒だけ沈黙があった。


「食器は、ありませんね」


「……はい」


「次からは、もう少し通りやすい理由を考えなさい」


 フェイが顔を上げた。


 怒られると思っていたのか、返事が遅れた。


「はい」


「長くならないように」


 ジョゼフはそれだけ言って、書類に目を戻した。


 許可なのか、警告なのか分からない言い方だった。ただ、追い出すつもりはないらしい。


 フェイは部屋の端に立った。いつもなら壁に背を預けるのに、その日は背中をつけなかった。


 俺はその様子を見て、ジョゼフがこの施設でどういう位置にいるのかを少し理解した。敵ではない。怒鳴るわけでもない。ただ、見られていると勝手に背筋が伸びる。


 そういう人間だった。


 フェイの話は、その日は少し短かった。


 ジョゼフがいるせいで声が小さくなっていたが、それでも彼はレオンの絵札の別版について話した。構図が違うとか、古い版では大砲がもっと大きく描かれていたとか、どうでもいいようなことを真剣に説明した。


 ジョゼフは書類を書いていた。


 途中で一度だけ、ペンを置いた。


「絵札は、版によって戦場の描き方が変わります」


 フェイが止まった。


「ジョゼフさんも見るんですか」


「記録資料としてです」


「好きなんですか」


「資料として見ます」


 同じことを言ったようで、少し違った。


 フェイは笑いをこらえている顔をした。俺も少しだけ笑った。


 ジョゼフは何も言わなかった。ただ、次の行を書くまでに、いつもより少しだけ時間がかかった。


 俺はだいたい聞いていた。


 聞きながら、同じことを考えていた。


 誰かに見られて、覚えられて、何度も話されること。


 強いというのは、たぶんそういうことなのだと思った。


---


 六日目の昼。


 フェイが来た。今日は少し時間があるらしく、盆を廊下に置いてから入ってきた。


「聞いてもいいですか」


「何ですか」


「ナカムラさんって、ニホンでは何をしてたんですか」


 フェイは机の端に置かれた空の器を、意味もなく少し動かしていた。聞いていいことなのか迷っているらしい。


「働いていた」


「何の仕事ですか」


「店で物を売ったり、荷物を運んだり。その日だけの仕事もあった」


「それは、神託者様がやるようなお仕事ですか」


「全然違う。誰でもできると思われていた仕事だ」


 言ってから、少し言いすぎたと思った。誰でもできる、という言い方は、向こうでもこちらでも失礼だった。だが、そのときの俺は自分の仕事をそういう目で見ていた。


 フェイは器から手を離した。


「でも、働いてたんですよね」


「一応は」


「じゃあ、その後は。もっと違う仕事をする予定だったんですか」


 そこで詰まった。


 前の世界にいたときも、答えにくい質問だった。


「予定は、なかった」


「なかったんですか」


「あればよかったとは思っていた。何かになれるとは思っていた。ただ、その何かが何なのかは、ずっと分からなかった」


 フェイは「そうですか」と言った。責めるわけでも、同情するわけでもない言い方だった。


「俺も、今の仕事をずっとするわけじゃないと思います」


「そうなんですか」


「たぶん。分かりませんけど。家の都合もありますし。でも、ずっと盆を運んでいる自分は、あまり想像できないです」


「じゃあ、何をやりたいんですか」


 聞き返すと、フェイは少し困った顔をした。


「それが分かってたら、もう少し偉そうに話せます」


 俺は少し笑った。


 フェイも笑った。


 その瞬間だけ、この部屋が施設の部屋ではなくなった気がした。石壁も、帳簿も、押印も、少し遠くなった。


「判定が来たら、何か変わりますか」


 フェイが言った。


 変わる、とだけ思った。何がどう変わるかは分からない。だが、何かが決まる。持ち場が決まる。役割が決まる。決まれば、次に何をするかが少しでも見えるはずだ。


「変わると思います」


「早く来るといいですね」


 フェイはそう言って、空の器を持って出ていった。


---


 七日目の朝。


 フェイが朝食を持ってきた。


「今日の昼には街に戻ります。家族のところに」


「そうですか。気をつけて」


「ジョゼフさんが、今日か明日には通知が来るかもって言ってました」


「本当ですか」


 フェイは頷きながら盆を置いた。


「一つ聞いていいですか」


「何ですか」


「ナカムラさんって、英雄になれると思いますか」


 少し間があった。


「……分かりません」


「分からないのに来たんですね、この世界に」


「来た、というか、来てしまった」


「じゃあ今は、分かりたいと思ってますか」


 俺は少し止まった。


 判定が来れば、等級がつく。役割が与えられる。俺がこの世界でどの棚に置かれるのかが分かる。


 けれど、俺が本当に知りたいのは、それだけではないのかもしれなかった。


 自分が役に立つかどうか。


 どこで使われるか。


 誰かの記録に、どんな言葉で残るのか。


 それを知りたいと思っている。


 そう認めるのは、少し嫌だった。


「分かりたいと思っています」


 俺は言った。


 フェイは少しだけ笑った。


「また来ますよ」


 断定するような言い方だった。


 扉が閉まった。


 部屋が急に静かになった。


---


 その日の午後は、長かった。


 食事が来る。盆が下げられる。廊下で誰かの足音がする。夕方に書類が来る。印石を押す。扉が閉まる。


 最初は全部が異物だったはずなのに、今ではその流れを体が覚え始めている。


 それが少し嫌だった。


 異世界に来たというのに、俺はまた、狭い部屋で何かの通知を待っている。


 ふと、元の世界のことを思い出した。


 向こうでも、俺は何かの返事を待っていた気がする。採用通知、連絡、結果、次の予定。自分で何かを動かすより先に、誰かから名前を呼ばれるのを待っていた。


 家族は今、何をしているのだろう。


 考えても分からなかった。


 横になったが、眠れなかった。


 起き上がって、部屋の中を歩いた。机の前まで行き、戻り、窓の前に立った。


 外には通信柱が見えた。何も変わらない顔で、曇った空の下に立っている。


 あの柱を通じて、今日、何かが届くかもしれない。


 そう考えた瞬間、廊下の奥で足音がした。


 いつもの足音とは違った。


 一人ではない。


 靴底が石床を打つ音が、二つ、三つ、重なって近づいてくる。


 俺は窓から離れた。


 扉の前で足音が止まった。


 短い沈黙のあと、ノックが三回。


「中村亮さん」


 ジョゼフの声だった。


 いつもの声より、少し硬かった。


「判定が戻りました」


 扉が開いた。


 ジョゼフの後ろに、初日に見た担当官とは別の男が立っていた。黒い筒を一本、手に持っている。筒の口には赤い封蝋がされていた。


 封蝋の中央に、文字が一つ押されている。


 C。


 見間違えようのない形だった。


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