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外縁試験区域

C。


 封蝋の中央に押されたその文字だけが、変にくっきり見えた。


 結局、フェイは朝に部屋を訪れて以来、ついに姿を見せなかった。


 代わりに夕方、扉の向こうからジョゼフが来た。ジョゼフの後ろには、初日に見た担当官とは別の男が立っている。男は黒い筒を持っていた。その口に押された赤い封蝋。そこに刻まれた一文字。


 C。


 最初のうち、その文字の意味が分からなかった。分からないふりをしていただけかもしれない。


 いまだに、この期に及んで、何か別の結果を期待していた。


「中村さん。あなたの等級判定が出ました」


 ジョゼフはそう言って、男から黒い筒を受け取った。


 封を切る音がした。


 紙は数枚あった。厚く、端がそろっていて、右上に番号が振られている。ジョゼフはそれを机に並べ、一枚目を俺の方へ向けた。


「中村亮さん。国際神託者管理機構リュメル支部、およびリュメル公国神託者処遇局による初期判定の結果をお伝えします」


 声はいつも通りだった。


 丁寧で、聞き取りやすい。感情を荒げない。こちらに圧をかけるわけでもない。


 けれど、俺に話しているというより、書類を読み上げているだけの声だった。


「登録区分、C級」


 椅子の脚が、床に擦れる音がした。


 無意識に自分が動かしたのだと、少し遅れて分かった。膝から力が抜け、座っているだけの姿勢すら保てなくなっていた。


「暫定能力分類、魔法効果の失効。運用推奨、後方支援補助。単独戦闘運用は現在の能力を鑑みて不可。監督下での補助任務を推奨」


 ジョゼフは続けた。


 俺はただ置かれた紙に書かれた文字を見ていた。声が遠くなる。脳内の声がくぐもる。


 C級。


 後方支援補助。


 単独戦闘運用不可。


 俺がどう受け取るのかなど関係ないように、紙の上の文字は最初から最後まで冷たかった。ただ淡々と、伝えるべきことを伝えている。とても、冷たい。


 C級。


 『多くの転生者がここに入ります』


 数日前にジョゼフが言っていた言葉を思い出した。まさか自分も、その「多く」の中に押し込まれるとは思っていなかった。


 とはいえ、ふと冷静に考えてみると、やっぱりな、と思う気持ちもあった。


 自分でも分かっていたはずだった。前世の職業を聞かれ、学歴を聞かれ、専門知識を聞かれ、俺は客観的に見て何らこの世界に価値を提供できなかった。俺が高く評価される要素などほとんどない。


 それだけだ。


 医師でもない。技術者でもない。軍人でもない。官僚でもない。役に立つ肩書きを並べると、俺はきれいに消えた。


 それは分かっていた。


 だが、能力だけは、宝くじみたいに一等を引けると思っていた。根拠はなかった。ただ、そういうことにしていた。


 今こうして目の前にC級という身分相応の等級を与えられ、ジョゼフ含めこの世界の人間がさも当然、のようにすました顔をしているのを見ていると、自分の期待があまりに無邪気で、哀れに思えてくる。


「……能力があるのに、C級なんですか」


 声は思ったより小さかった。


 ジョゼフは一度だけ紙から目を上げた。


 俺の顔色を見たのかもしれない。あるいは、ただ目の前のC級転生者の顔を見ただけかもしれない。


「能力の有無と、等級は必ずしも関係があるわけではありません」


 ジョゼフは言った。


「等級は、能力の有用性だけでなく、前世知識との組み合わせを含めて判断されます」


「有用性」


「はい」


 もう一度紙に目を落とす。


 魔法効果の失効。


「能力が確認されていて、それでもC級なんですか」


「はい。中村さんには、魔法効果を失効させる能力が確認されています」


「魔法効果を失効させる能力」


「簡単に言えば、魔法を無効化する能力です」


 魔法を無効化する魔法。


 火を出したり、水を出したり、風を起こすのとは全く別物だ。


 それではまるで、皆が思い思い自分だけの色鉛筆を持っている世界に、消しゴムを渡されたようなものだ。


 こんな能力、どう受け取ればよいのだろうか。


「魔法の無効化というのは、どうなんですか」


 俺は、目元に熱が集まるのを感じて、慌ててうつむいた。


「どう、というのは。どのような意味でしょうか」


 つくづく察しが悪い男だ。いや、察していて言わないだけかもしれない。


 声を絞り出すほど、喉がすぼまって、唇が震えて、余計に惨めな気持ちになってくる。自分の能力に絶望して泣きそうになる成人男性など、まるでほしいゲームを買ってもらえなかった子供だ。


「だから、強いんですか」


 ぶっきらぼうに答える。


「わかりやすく戦闘に特化している、という魔法ではないです。実を言えば、何ができるのかということすら、私からは答えにくい。なにしろその無効化魔法というのは、ほとんど術者がいないのです」


「術者がいない……?つまりこの魔法を持つ人が少ないという意味ですか?」


 少しの驚きで、心がわずかに軽くなる。


「はい。魔法は十人十色といえど、大まかに炎、水、治療、強化、結界など、ある程度の部分まで似ているところがあるもので、全く類似の魔法を持つ術者がいないというのは珍しいです。中村さん、とても厄介ですね」


 厄介。


 珍しい、ではなく、厄介。


 厄介というのはどういう意味なんだ。誰から見て、厄介なんだ。


「中村さん」


 二枚目の紙を差し出しながらジョゼフが言う。


「今から施設外縁部の試験区へ移動して、能力の測定をしてもらいます」


「今からですか」


「はい。一応言っておきますが、登録等級そのものを変更する試験ではありません。今後の補助任務に向け、能力の習熟度と危険範囲を確認するものです」


 その一言で、残っていた何かがまた少し沈んだ。


「つまり、C級として俺をどう使うか決める試験」


「まぁ、そうなります」


 ジョゼフは否定しなかった。


 否定してほしかったのかもしれない。自分でも、それは分からなかった。


---


 外縁試験区は、施設の裏手にあった。


 聞いた話によれば、この施設全体には魔法効果を封じる結界があるらしい。


 ただし、それは俺の能力とは別物なのだと、ジョゼフは道中で短く説明した。


「この施設の結界は、魔法そのものを消すものではありません。出力を抑えるものです。火を小さくする。流れを弱くする。発動しにくくする。そういうものです」


「それと、俺の能力は違うんですか」


「はい。中村さんの場合は、すでに形になっている魔法効果そのものを失効させる傾向があります。少なくとも、この文書ではそう見られています」


 魔法を弱くするのと、魔法を落とすこと。


 似ているようで、扱いは違うらしい。


 ジョゼフに連れられて廊下を進み、居住棟とは別の扉を抜ける。外には短い石畳が伸びていて、沈みかけの太陽がその上に長い影を落としていた。


 広々とした空だ。だが、施設の外へ出たはずなのに、自由になった感じはしなかった。


 むしろ、もっと奥へと連れていかれている気がした。


 石畳の先に、低い塀で囲まれた広場があった。中には白い線が何本も引かれている。地面に固定された石台。木製の標的。金属の柱。遠くには土を盛った壁があり、その前に矢を受けるための板が置かれていた。


 兵士が二人、塀の近くに立っていた。


 剣は抜いていない。銃も構えていない。しかし、俺たちを見ていた。いや、俺を見ているのか。


「ここからは、私ではなく測定官の管轄になります」


 ジョゼフが言った。


 広場の入口に、一人の女性が立っていた。


 二十代後半か、三十代前半くらい。黒髪を後ろで雑にまとめ、白衣のような長い上着を着ている。上着のポケットには小さな金属器具がいくつも刺さっていて、腰には工具箱のような革鞄を下げていた。


 彼女は小走りでこちらへ近づき、ジョゼフから書類を受け取った。そして俺の顔を見て、


「中村亮さんですね。C級、魔法効果失効。後方支援補助予定。単独運用不可。はいはい、見ました」


 早口だ。紙をめくる手と、言葉の速度が合っていない。どちらも、こちらの反応を待っていない。なんとなく、学校の事務員を思い出した。


「測定官のマルタ・リュッケです。今日の試験は私が担当します。試験と言っても不合格だったら取って食うみたいな、別に合否を出すものではありません。今日やるのは、中村さんがご自身の能力をどのくらい使えて、実際その魔法はどのくらい強力なのか、の確認です」


 最初の数秒で、俺はこの人がジョゼフのような人間ではないことだけは分かった。


 冷たいわけではない。だが、人情味を感じるような温かさをもっているわけでもない。


 目が、人間を見る目ではなかった。


 いや、別に化け物を見るような目でもない。ただ、俺という人間より、俺に貼られた値札を見ているような目だった。俺の顔も見ている。だがそれ以上に、書類の能力欄と、俺の身体のどこかと、広場に並んだ器具とを同じ種類のものとして見ている。


「ここでお別れです」


 ジョゼフが言った。


「ジョゼフさんは、来ないんですか」


「結果は後で私にも共有されます」


 答えになっているようで、なっていなかった。


 ジョゼフは一度だけこちらを見た。


「説明をよく聞いてください」


「はい」


「分からないことは、自己判断せずに聞いてください」


 それは心配の言葉にも聞こえたし、手続き上の注意にも聞こえた。


 ジョゼフは軽く礼をして、広場の入口から離れた。


 俺は、少しだけ心細くなった。ジョゼフは味方でも友達でもない。だが、この世界で一番長く会話した人間ではあった。


 それを認めたくなくて、すぐにマルタの方を見た。


「準備はよろしいですか?」


 マルタはにっこりと微笑みかけてくる。仕事で何度も作ってきたであろう美しい笑顔。


 俺は軽くうなずく。


「では歩きます。歩きながらいろいろと説明します。ホントは教室で机と椅子を並べて講義でもしてあげたいんですけどね」


 これは彼女の本音かもしれない。


 マルタはそう言って、さっさと歩き出した。


---


「まず、魔法について神託者の方が抱きがちな誤解を消します」


 マルタは広場の中央へ向かいながら言った。


「魔法は願いではありません。杖を振って願えば、水がワインになるような、そのような便利な魔法ではありません。いや杖をふるう方もいますし、魔法でもあるのですが」


 彼女はカラカラ笑いながら言う。もしかして面白いと思っているのか。


「ここを間違える人が多いんです。願いで火が出るなら、我々は文明を発達させることはなかったでしょう。実際には、もっとこう、退屈なんです。魔力を取り込み、変換して、形を作って、それを維持する。大雑把に言えばこの世界でいう『魔法』とはその四段階で構成されているんです」


 彼女は指を四本立てた。


「魔力の供給、変換、形成、維持。もうちょっとあるんですが、細かい分類は今日は不要です。あなたの能力を見るに、おそらく一番関係するのは、特に最後の維持。魔法効果は、現実に一時的な形を強制的に押しつけています。その形を何らかの理由で保てなくなれば、魔法は消えます」


 マルタは一つ目の石台の前で止まった。


 石台の上には、小さな金属の輪が置かれていた。隣には、革紐のついた腕輪が二つ。


「それで、魔法の制御ですが」


 マルタは金属の輪を持ち上げた。


「魔法は強く念じればいい、というものではありません。水を含んだ布を絞ったことはあると思います。あれ、何も考えず強く絞れば水も飛び散りますよね。しかし手に込める力や、握る場所、どれだけ絞るか、そういうのをコントロールすれば、きれいに水が出てきます。魔法もそれに近い感覚なんです。つまり、自分の体内に蓄えられた魔力を、上手く、現実世界に絞り出す。これが魔法の真髄なんです」


 そう言いながら、彼女は金属の輪を弄る。


「これは何ですか」


「測定具です」


「封印具ではなく?」


「測定具です。封印機能はありません。まぁ厳密に言うと、封印系統と同じ規格の部品は使っていますが、今日使う範囲では封印しません。動かないでくださいよ」


「首に付けるんですか」


「はい」


 彼女は俺の後ろに回り、首輪をつける。


 サン・リュメールに行った時につけたのと同様、金属の輪は冷たかった。


 首の後ろで小さく音がした。鍵、というより留め具が噛む音だった。続いて両手首に腕輪を巻かれる。内側に薄い石のようなものが埋め込まれていて、肌に触れると少しだけざらついた。


「痛みは?」


「ないです」


「息苦しさは?」


「ないです」


「外したい感じは?」


「あります」


「なら正常です」


 マルタは小さな板に何かを書いた。


 測定具。便利な言葉だと思った。首と手首に嵌めれば、だいたいの拘束具は測定具になる。


「では始めます。最初は単純失効」


 マルタは手を上げた。


 離れた位置にいた若い術者が頷き、石台の上、光る石を置いた。


 弱いが、妙に目に残る光だった。


 石全体が淡く光っている。ただ均一に光っているわけではない。表面に走った細い割れ目の奥から、そこだけ強い光が滲んでいた。傷口から光が漏れているようにも見えた。


「あれは光石です。魔力を光に変換する自然の石です」


 俺はそれを見た。


「近づいてください。白線の内側まで」


 言われた通り、一歩進んだ。


「それでは、まずはその石に手をかざして、消えろ、と念じながら、体内の力を……こう……手の先に集めて放出するイメージを作ってください」


 なんだそりゃ。


 願いではないと言った後に、念じろと言われた。その違いが、俺には分からなかった。


「念じろと言われたって……」


 そうは言いつつ、石に触れ、目をつぶり、とにかく言われた通り『イメージ』を作ってみた。体中の血液が手先に集うイメージ。熱が高まっていくイメージ。体中に存在する、形が定かではない『魔力』が手先から漏れ出るイメージ。


「あ、落ちましたね」


 マルタが言った。


 目を開けると、石は輝きをやめていた。


 何ら手ごたえも感触もなかった。おそらく自分の魔法を、初めて使った。が、別に感動もない。ただ目の前の石ころが輝きをやめただけだ。


 俺が息を止めていたことに、そこで気づいた。


「単純失効、確認。反応は粗いですが、出ています」


「粗いんですか」


「きれいではないです。落ち方が雑です」


 落ち方が雑。


 そんなことを言われるとは思っていなかった。


 きれいに落ちるとは何だろうか。俺のは、古い蛍光灯が何度か点滅してからようやく消えるような、そういう落ち方だったのだろうか。


 俺は、今の光が消えた石をしげしげと見つめた。きれいかどうかなど、分かるはずがない。ただ消えた。それだけだ。


 だがマルタは不満そうに首を傾げていた。


「もう一度。白線の外に出てください」


 光が作られる。


 再び白線の内に入り、同じ動作、同じイメージを作る。今度は目をあけていた。


 また消える。ただ徐々に薄く、ゆっくりと消えていった。


「はい。単一目標なら問題なし。まぁ、多少荒いですが、慣れなんでね。こういうのは」


「どこが荒いんですか」


「さっきも今も、光だけを落としたわけではないんです」


 マルタは光を失った石を持ち上げ、指で軽く叩いた。


「本当に上手い失効なら、光だけがすっと落ちます。石の芯は揺れない。周りの魔力も引っかけない。でも中村さんの場合は、光を消す時に、石そのものと周辺の魔力まで一緒に触っています。灯りを消したいだけなのに、台ごと揺らしている感じですね」


「それは、駄目なんですか」


「駄目です。灯りを消す係が、毎回机までドカドカと揺らしていたら困るでしょう」


 言われてみれば、分かる。


「まぁ当たり前ですが、上手くはありませんね。たまに最初から習熟しているいわゆる天才がいるのですが、まぁ神託者さんの多くはこんな感じです」


 上手くはない。


 それは、かなり正確に嫌な言葉だった。C級と判別され、厄介と評された能力だと言われ、挙句の果てに「上手くはない」、か。


 続けて距離も測った。半歩、一歩、二歩。離れるほど光が落ちるまでの時間が伸び、三歩目では俺の集中の方が先に切れた。


「安定距離は短いですね。それにしても驚いた。中村さん体力ありませんね」


 マルタは板に書きながら言う。俺はその言葉に若干のイラつきを覚えながらも、聞く。


「まだ慣れていないからですか」


「それもあります。ただ、慣れれば全部解決、というわけでもない。体を鍛えれば全員運動選手になれるわけでもないでしょ?能力には形があります。訓練で伸びる部分と、伸びない部分がある」


「俺の場合は」


「現時点では不明です。残念ながら」


 即答だった。


「不明なので測っています。が、これですべてわかるというわけでもありません」


 俺は何も言えなくなった。


 マルタはもう次の石台へ歩き出していた。


---


 三つの石台が並んでいた。


 それぞれの上に、小さな光石が浮かぶ。青、赤、白。色が違うだけでなく、形も少しずつ違った。


「対象選別を見ます」


 マルタは赤い光を指した。


「中央の、赤い光石だけ落としてください」


「どうやって」


「中央だけ落とすつもりで」


「それでできるんですか」


「イメージですよ。さっきも言ったでしょう」


 雑だ。


 だが、試験とはそういうものなのかもしれない。


 俺は中央の赤い光を見た。


 消えろ、と手をかざした。


 赤い光の輪郭が揺れた。


 次の瞬間、三つとも消えた。


 青も、赤も、白も。


 広場に、少しだけ間が空いた。


 俺は、成功したような気がした。


 全部消えたのだから。


「はい、駄目です」


 マルタが言った。


「失敗ですね」


「全部消えましたけど」


「だから駄目です。中央だけと言いました」


 マルタは板に書き込む。


「もう一度やります。今度は、赤だけを見てください。青と白は見ない。あるいは、見えていても触らない」


「触らない」


「はい。そこにあるものを、そこにないものとして扱う感じです。分かりにくいですね。忘れてください。とにかくやってみてくださいな」


 青、赤、白がもう一度点いた。


 俺は赤だけを見た。青と白を視界に入れたまま、存在しないものとして扱う。無茶だと思った。だが、無茶だと思っている間にもマルタは待っている。


 消えろ。


 二度目は、青だけが残った。


 赤と白が消えた。


 俺は少しだけ息を吐いた。今度は、さっきよりましだった。


「改善してますね」


 マルタは言った。


「でも失敗です。中央だけと言いました」


 失敗。


 その言葉が、思ったより刺さった。


「対象選別、失敗。隣接術式への干渉あり。失効範囲の境界制御不能」


「全部消せるなら、強いんじゃないですか」


 言ってから、かなり子供っぽいことを言ったと思った。


 マルタは顔を上げた。少し笑っている。


「この世界には消してほしい魔法と、消してほしくない魔法があるんです。それら全部ひっくるめてまとめて全部を消す人は、現場では強いとは言いません。危ないと言います」


 返す言葉がなかった。


「たとえば、まぁ、戦闘で表すなら、前衛の防護術式だけ残して、敵の拘束術式だけ落としたい場面があります。治癒は残したい。結界は残したい。通信は残したい。あなたが全部落とすなら、その場の人間はあなたを敵と同じくらい警戒します」


 その説明は、分かりやすかった。分かりやすく、俺が現場で邪魔になる説明だった。


---


 「次は、層状術式といわれる魔法に対する試験です」


「重ねがけ、と言った方が分かりやすいかもしれません。防護、強化、治癒補助のような複数の魔法効果を、一つの対象に重ねるものです。現場ではだいたい重ねがけで通じます」


 木製の人形に、薄い膜のような光がかかっている。その内側に、細い線が血管みたいに走っていた。胸のあたりには小さな緑の光が点滅している。


「外側が防護、結界魔法。内側が身体強化。胸部に治癒補助。という想定です。実戦ではもっと複雑ですが、今日は三層だけです」


 マルタは楽しそうだった。


 楽しそう、と言っていいのか分からない。笑っているわけではない。ただ、言葉の速度が少し上がっていた。


「外側の防護だけを落としてください」


 まただ。


 俺は人形を見た。


 外側の膜だけ。


 膜だけを消す。


 消えろ。


 首輪が震えた。


 人形の外側の膜が薄くなり、消えた。


 よし、と思った。


 その直後、内側の線が乱れた。胸の緑の光が明滅し、人形全体が一瞬だけ傾いた。


「停止」


 マルタの声が急に短くなった。


 周囲の職員が動いた。術者が手を下げ、人形にかかっていた残りの術式が消える。


 マルタは人形の前にしゃがみ込み、埋め込まれた小さな石を確認した。


「表層失効は確認。内部術式への干渉あり。治癒補助にも触っています。駄目です」


「でも、外側は消えました」


 さっきも同じこと言った気がする。


「消えました。だから成功要素はあります。ですが、治癒補助まで揺らしました」


 彼女は立ち上がった。


「あなたが味方にかけられた呪いだけ消したつもりで、ついでに止血している治癒魔法も止めたら、その味方は死ぬかもしれません」


 死ぬ。


 マルタは脅すような言い方をしなかった。むしろ、淡々と事実を置いただけだった。


 だから余計に、自分が期待されていないような印象を覚えた。


---


 最後の試験は、矢だった。


 土壁の前に標的が立てられ、若い職員が短い弓のような道具を持った。矢には薄い光の線が巻きついている。


「魔法補助された物理現象です」


 マルタが言った。


「矢そのものは物理物体です。ただし、飛ばす際に加速術式を使っています。あなたが落とせるのは術式だけです。矢そのものは消えませんし、発射された矢が急に止まるわけでもありません」


「分かります」


「分かっているつもりです」


 怒られた。


 まず、俺なしで撃った。


 矢はほとんど音だけを残して飛び、標的に深く刺さった。板が揺れ、土壁から乾いた砂が落ちる。


 次に、俺が白線の内側に立たされた。


 首輪と腕輪が、さっきより強く肌に触れている気がした。


「動かないでください。消そうとしすぎないでください。強~く布を絞らないように。じゃないと全部乱れます」


「絞るって」


「さっきも使った比喩でしょう。だいたい合っています」


 職員が矢をつがえる。


 薄い光が、矢の周りに巻きついた。


 頭上を弧を描くように矢が放たれる。


 俺は集中して、その矢にかかった魔法を消そうとした。が、イメージがわかなかった。


 もちろん、矢は消えなかった。


 速度をそのまま保ちながら、飛び続け、標的の的ど真ん中に突き刺さる。


「お見事。でもあなたに、ではありませんよ。魔法は消えませんでしたね」


 マルタはそう言った。


「もう一度やります」


 マルタが言った。


 俺は頷いた。


 次の矢が放たれる。


 先ほどと同じ結果。と、思っていたが、マルタが少しだけ首を傾げた。


「今のは、少し揺れました」


「揺れた?」


「矢ではなく、矢にかかっている術式です。矢を見ないでください。矢に巻きついている線だけ見てください」


「矢を見ないで、矢の線を見るんですか」


「そうです。分かりにくいですね。私も今、説明としては最悪だと思いました」


 マルタは悪びれずに言った。


「もう一度。矢そのものを消す必要はありません。そもそも消えません。矢についている光の線だけを、ほどく。あるいは、切る。あるいは、絞りを緩める。どれでもいいです。あなたの中で一番しっくりくる言葉を使ってください」


 ほどく。切る。緩める。どれも違う気がした。


 だが、何もしなければまた標的に刺さるだけだ。


 三本目の矢がつがえられた。


 薄い光が、矢の周りに巻きつく。


 放たれる。


 今度は矢そのものを追わないようにした。矢の速度ではなく、その周りにある光の線を見ようとする。細い。速い。目が勝手に矢の先端を追いそうになる。だが、無理やりそこから外す。


 光の線だけ。線だけを、落とす。


 集中。イメージだ。イメージしろ。


 矢を包んでいた光がふっと消えた。手ごたえはなかった。


 速度を落としながら、それでも飛び続け、標的には届かず、手前の土に斜めに刺さった。


 魔法は消えた。いや、俺が消した。


 その瞬間、首輪が強く震えた。


 同時に、広場の端に並んでいた街灯がいくつか、ふっと暗くなる。何かが瞬時に消え失せたような感覚に襲われた。


 誰かが息を呑んだ。兵士が咄嗟に腰に据えられた剣の柄に手を伸ばしたのが目の端に映った。


 灯りはすぐ戻った。


 ほんの一瞬だった。


 だが、マルタは黙っていた。


 さっきまで何かを見るたびにべらべらと喋っていた人間が、急に黙った。


 ほら見ろ。


 俺が何をしたのかは分からなかった。それでも、マルタが一瞬黙った。それだけで、沈んでいたものが少しだけ浮いた。


「停止」


 マルタの声は急に短くなった。


「第二測定線を切ってください。記録板、こちらへ。中村さんは動かないで」


 ここから先、俺には何を言っているのか分からなかった。


「外縁干渉値を固定。第三補助線は閉じないで。記録板、反応径だけ先に取ってください。封印環の逆流値も見ます」


 職員たちが動いた。


 兵士の一人が、剣の柄に手を置いていた。


 マルタは首輪の横にある小さな石を覗き込み、腕輪の留め具を確認した。それから、職員から受け取った記録板に目を走らせる。先ほどまでの早口は消えていた。


 彼女は右手の指輪に短く何かを唱えた。薄い輪のような光が指先に浮かび、空中に細かな文字列が浮かび上がる。俺には読めなかった。数字なのか文字なのかも分からない。マルタはそれを一瞥すると、記録板に素早く書き写した。


 俺はそのあいだ、マルタが自分の顔を見るかどうかを確認していた。


 見なかった。


 書類と首輪を、交互に見ていた。


「今のは」


 俺が聞くと、マルタは一拍置いて答えた。


「測定具の誤差です。気にしないように」


 短すぎた。


 今までの彼女なら、誤差なら誤差で、どういう誤差か、どの程度の誤差か、なぜ誤差が出るのか、聞いてもいないことまで話したはずだった。


「誤差」


「はい」


 マルタは記録板を閉じた。


「制御外干渉。記録します」


「今のは失敗ですか」


「はい」


 即答だった。


「加速術式の失効は確認しました。ただし周辺設備への干渉疑いあり。面白いですが、別にあなたに対する評価は上がりません。むしろ現時点での単独運用不可を補強します」


 浮いたものが、また沈んだ。


---


 測定が終わる頃には、首の金属にも少し慣れていた。


 マルタが留め具を外すと、首の皮膚が空気に触れた。そこだけ少し冷たい。腕輪も外され、手首に薄い跡が残っていた。


「痛みは?」


「ないです」


「眩暈は?」


「少し」


「疲れたでしょう」


「……はい」


「能力使用後の軽い反応でしょう。座りますか」


「大丈夫です」


「大丈夫と言う人ほど倒れますが、顔色はそこまで悪くないですね」


 マルタは板を見ながら言った。


「総評を言います」


 俺は立ったまま聞いた。


「単純失効は可能。単一目標なら現時点でも使えます。到達範囲は限定的。対象選別は不安定。層状術式への干渉は部分的に可能ですが、内部術式を巻き込みます。魔法補助された物理現象については、四回目で加速術式の失効を確認」


 彼女は一息で言った。


「結論。現時点での単独運用は不可。監督下での後方支援、あるいは小規模現場での補助任務が妥当です。文書の推奨通りですね」


「C級のままですか」


「等級判定は私の担当ではありません」


「でも、今の結果は」


「C級運用を否定しません」


 即答だった。


 俺は笑いそうになった。


 何がそんなにおかしいのかは自分でも分からなかった。


「この能力は、そんなに悪いんですか」


 マルタは板から目を上げた。


 初めて、少しだけ俺自身を見た気がした。


「魔法に悪いも何もないですよ。多少の使い勝手の差はありますが、すべては術者次第です」


 彼女は言った。


「だから、あなたに関して言えばすべてが雑なんです」


 雑。


 その一言は、低いより刺さった。


「勿論、あなたは今日初めて魔法を使ったわけで、慣れれば、多少は変わります。力の入れ方、抜き方、対象との距離、見る場所、呼吸。能力そのものの形が変わるかは分かりませんが、扱いは改善します」


「訓練で」


「はい。ただし、ここで棒を振るだけではあまり伸びません。実際の現場で、落としていいものと、落としてはいけないものを覚える必要があります」


 落としていいもの。


 落としてはいけないもの。


 俺は、土に刺さった矢を見た。


「そのため、しばらくは小さい任務に入ってもらいます」


「任務」


「討伐ではありません」


 マルタは先回りするように言った。


「戦闘でもありません」


 マルタは書類を一枚取り出した。


「明日、サン・リュメールの港湾倉庫の残留魔力処理に同行してもらいます」


「港湾倉庫?」


「昨夜、小型の魔物が倉庫内に入り込みました。討伐はすでに終わっています」


「じゃあ、俺は何をするんですか」


「処理後に残った魔力残滓の失効です。通常は討伐班が片づけたあと、封印師が現場を整えます。ただ今回は、少し残り方が悪い」


 マルタは続けた。


「普通なら、魔物の核が壊れれば魔力は自然に薄くなっていきます。ですが、今回は倉庫で保管されていた魔材や魔道具と絡んで、残滓が散らずに残っています。封印師が内側から整えるより、外側から落とした方が早いかもしれません」


「それは簡単な任務、なんですよね」


「簡単です」


 マルタは言った。


「魔物は既に処理されました。あなた一人で行かせるわけでもありません。ベテランが一人つきますし、失敗してもすぐに誰かが死ぬような任務ではありません」


 それから、少しだけ間を置いた。


「ただ、倉庫の保管品が少し面倒で」


「面倒?」


「放置しておくと魔物を引き寄せるかもしれません。封印師が内側から手を入れると逆流する可能性もある。あなたの能力の方が向いています」


 広場の端で、街灯が小さく鳴った。


 風が土の上を通り、さっきの矢の羽根を揺らした。


 討伐ではない。

 

 戦闘でもない。

 

 C級。後方支援補助。


 俺はもう一度、土に刺さった矢を見た。加速術式を失った矢は、標的に届かなかった。


 なぜだかその光景が、重く、心にのしかかるような感じがした。


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