公都 サン・リュメール
朝、目が覚めたとき、窓の外が明るかった。
昨日と同じ天井、同じ石壁、同じ寝台の硬さ。だが、今日は違う。施設の外に出られる日だった。
起き上がって窓の外を見ると、草が光を受けていた。遠くの木が風で揺れている。外に出るだけで少し気分が軽くなるのが、自分でも単純だと思った。
朝食を食べ終えた頃、ジョゼフが来た。
「おはようございます。準備ができたら出られます」
いつもと同じ服。徽章のない胸元。腰のポーチだけが少し膨らんでいた。
「これで大丈夫ですか」
外出用に渡された厚手の服を見せると、ジョゼフは頷いた。
「十分です」
それから板に何かを書いた。俺はもう、それをいちいち聞かないことにしていた。
---
施設の出口で手続きがあった。
受付の女性が木の板を差し出し、俺は小さな印石を押しつけた。ジョゼフが番号を読み上げ、女性が帳簿に記録する。外出日時、同行者名、予定行動範囲、帰着予定時刻。
次の窓口では、外出許可証の確認があった。
木の台の上に帳簿が置かれ、受付の女性が俺の名前と番号を読み上げた。ジョゼフが同行者として署名する。予定行動範囲と帰着予定時刻がもう一度確認された。
「単独行動はできません」
受付の女性が言った。
「承知しています」
ジョゼフが答えた。
俺は横で立っているだけだった。俺の外出なのに、俺の口から確認することはほとんどなかった。
扉が開く。外の風が入った。
暖かい日だった。草の上で飯でも食ったら気持ちがいいだろうと思った。
外に出られる。だが、どこへ行くかも、いつ戻るかも、俺が決めたわけではない。
---
施設は、外から見ると思ったより小さかった。
石造りの建物が三棟、渡り廊下で繋がっている。壁は古く、下の方に苔が張っていた。屋根には煙突が二本。言われなければ、地方の古い修道院にしか見えない。
だが、門だけは違った。鉄製で、建物に不釣り合いなほど頑丈だった。滑車と歯車が組み込まれ、兵士が帳簿を持って立っている。
兵士がジョゼフの書類を確認し、俺の顔を見て、何かを書いた。
「行ってらっしゃいませ」
丁寧な声だった。
それが余計に、扱われている感じを強くした。
---
門の外には馬車が一台待っていた。二頭立てで、幌はない。木の荷台に長椅子を渡しただけの簡素なものだった。
馬は思ったより大きかった。首が太く、鼻から白い息を吐くたびに体全体がわずかに揺れた。前の世界で、これほど近くで本物の馬を見たことはなかった。
「今日はどこへ行くんですか」
「公都のサン・リュメールです。大体一時間ほどかかります」
荷台に乗ると、木が軋んだ。馬車が動き出す。揺れるたびに、施設の門が少しずつ遠ざかっていった。
道は舗装されていなかった。土を踏み固めただけの細い道で、両側に草が生えている。しばらく行くと、道の脇に細い柱が一定の間隔で立っているのに気づいた。
木ではなく、鉄だった。根元が石材で固められ、上部には陶器のような部品がついている。そこから細い線が次の柱へ伸びていた。
「あれは何ですか」
「通信用の設備です。各施設を公都と繋いでいます」
「電信みたいなものですか」
「その理解で近いと思います。魔石に術式を組み込んで信号を通します。詳しくは私も知りません」
鉄の柱の向こうに農地が広がっていた。牛が鋤を引き、農夫が鍬を担いで歩いている。
中世だ、と思った。
しかし、その横を通信線が走っている。
前の世界の歴史写真で似た光景を見たことがある。電信線が引かれた農村。鉄道が通ったが馬車も走っていた時代。産業革命期の炭鉱と畑。
ただし、ここには魔石が混じっていた。
---
地が鳴った。
最初は耳ではなく、体で感じた。荷台の木を通じて、低い振動が伝わってくる。馬の蹄ではない。もっと大きく、もっと遠い。
丘の向こうを、黒い塊が動いていた。
煙突を二本立て、白と黒の煙を吐きながら、重く、まっすぐに進んでいる。速かった。あの大きさで、馬より速い。
「あれは、汽車ですか」
「魔動機関車です。工業区域の操車場へ向かっているのでしょう」
機関車が遠ざかっても、振動だけがしばらく荷台に残った。
剣と魔法だけの世界ではない。
ここには先に来た誰かの知識が、もう何層にも積もっている。
俺はそう考えたが、それを言葉にはしなかった。言葉にすると、少し知ったふうに聞こえる気がした。
---
サン・リュメールに近づくと、道は砕いた石を固めた路面になった。排水溝が現れ、通信柱の線が増えた。石造りの家が並び、洗濯物が風に揺れている。
城壁は石と鉄材で補強されていた。古い町並みの中で、そこだけ素材が違う。
城門には兵士が四人いた。二人は剣を帯び、二人は長い銃を肩から提げている。
銃だった。
ジョゼフが書類を出す。兵士は俺の顔を見て、帳簿に何かを記録した。
「神託者の外出か」
兵士が小さく確認した。その言葉を、門の脇にいた子どもが拾ったらしい。
「神託者様?」
子どもは俺を指さした。
隣の女が、すぐにその手を下ろさせた。
「指をさすんじゃありません」
怒鳴ったわけではない。珍しいものを見た子どもに、人前での作法を教えるような言い方だった。
子どもはまだこちらを見ていた。俺は目をそらした。
門をくぐると、サン・リュメールの内側には外とは違う密度があった。石畳の上を人が流れ、荷車が軋み、焼いた肉の匂いと馬の匂いが混じっている。
「見学です」とジョゼフが言った。「今日の外出はそういう手続きで申請しています」
見学。
確かに見学だ。ただし俺は、予定行動範囲を記録され、案内役に同行されたうえで歩いている。
外界への試験放流、と言った方が近かった。
---
大通りで新聞を買った。
少年が紙束を抱えて叫んでいる。ジョゼフが銅貨を渡し、俺は新聞を受け取った。少年は次の客を呼ぶため、すぐに別の方へ声を張った。
文字は読めるが、見出しの癖にまだ目が慣れない。
北方街道で未確認大型魔物、隊商三組が消息不明。
アルデンラート海軍、サン・リュメール港防衛協定を更新。
アルデンラート神託者庁、調査員派遣を検討。
ミラディア王国紙、同協定を「小国への軍事的圧力」と批判。
勇者レオン隊、第三次北方遠征の日程発表。
「北方の魔物というのは」
「頻繁にあります。隊商への被害は珍しくありません」
「三組同時は?」
「少し多い方です」
少し多い方。
人が消えた話を、ジョゼフはそういう重さで言った。
---
商館街の公告板には、数字が並んでいた。
港湾整備債、北方護送公債、魔物災害補償証券。名前だけなら読めるが、意味が頭に入るまで少し時間がかかった。
その中に、勇者レオンの名前があった。
> 北方護送公債 三年物 利回り五分八厘 勇者レオン隊参加予定
「勇者の名前が、利回りの横にあるんですね」
「遠征には金がかかりますから。装備、食料、輸送、治療、遺族補償。国庫だけで足りない分は、市場から借ります」
「勇者がいれば、金が集まる」
「そう見込む者がいる、ということです」
言い切らないのが、ジョゼフらしかった。
公告板の前で、商人らしい男が別の男と口論していた。
「レオン隊が出るなら値は戻る。今売る方が損だ」
「その前に街道がまた閉じたら終わりだ。補償証券も見ろ、先週から落ちっぱなしだぞ」
勇者の名前は、祈りでも噂でもなく、売り買いの理由になっていた。
俺はそれを見ながら、少しだけ嫌な感じがした。何が嫌なのかは、すぐには分からなかった。
---
市場に入ると、食料、布、香辛料の屋台が並んでいた。
その一角に、明らかに様子の違う店があった。木製の剣、盾を持った人形、勇者レオンの絵札。「第三次北方遠征記念」と書かれた紙札。隣には小さな薬瓶が並び、「聖女エリアナ監修・救療軟膏」と印刷されている。
俺が薬瓶を手に取ると、店主の男がすぐに身を乗り出した。
「お目が高いですね、お客様。そちらは普段使いには十分ですが、旅先でお持ちになるなら、こちらの方がよろしいですよ」
男は奥から別の瓶を出した。少し高そうな箱に入っている。
「聖女印の上位品でして、傷にも疲れにもよく効くという触れ込みです。少々値は張りますが——」
「戻してください」とジョゼフが言った。
声は大きくなかった。
だが、店主の口が止まった。
「失礼しました」
男はすぐに箱を引っ込めた。
俺は薬瓶を棚に戻した。
「今のは」
「正規品かどうか、ここでは確認できません。旅先の客には、よくこういう勧め方をします」
ジョゼフはそれだけ言って、板に何かを書いた。
市場の人間がこちらを少し見ていた。好奇心なのか、警戒なのか、商売の目なのか、判別がつかなかった。
俺は何か言いかけて、途中でやめた。
---
港へ続く道は傾斜していた。石畳が古く、建物の間から海の匂いが来る。
港は広かった。岸壁に沿って荷役の人間が動き、木箱、縄、滑車、怒鳴り声が混じっている。帆船が何隻か停泊し、マストが灰色の空に刺さっていた。
その奥に、形の違う船があった。
大きかった。帆がない。黒い鋼鉄の船体から煙突が二本伸び、うっすらと煙を吐いている。舷側には規則的に丸い口が並んでいた。砲口だと気づいたとき、数えるのをやめた。
「アルデンラートの装甲艦です。定期的に寄港します」
新聞にあった港防衛協定。その意味が、目の前に浮いていた。
帆船の木の色と、装甲艦の黒と、その間の灰色の海。
この港の人間は、これを毎日見ている。
港の倉庫の壁に、大きな貼り紙があった。勇者レオンの横顔。背後には船と旗。
「北方護送公債・追加募集」
その下に、大きな一文。
「勝利に投資せよ」
絵の中のレオンは、前だけを見ていた。
俺はその絵を見上げる側にいた。
「行きましょう。そろそろ戻る時間です」
ジョゼフが言った。
俺はもう一度だけポスターを見てから、坂を上った。
---
帰りの馬車の中で、新聞を広げた。
揺れる荷台の上では細かい文字を追いにくかったが、見出しだけは読めた。
魔石価格、三週連続で上昇。
旧市街で聖女印の偽薬流通。
勇者レオン隊公認絵札、第三刷へ。
アルデンラート海軍の新型装甲艦がサン・リュメール港で補給を受けたという記事。そのすぐ下に、ミラディア王国紙の批判が載っていた。魔物対策を名目とした事実上の軍事駐留。小国の安全保障を一国に依存させる危険。
さらに下には、アルデンラート外務局の反論があった。正式な合意。港湾都市の安全確保。周辺海域全体の利益。
同じ船が、防衛協力になり、軍事駐留になり、港湾債の信用材料になる。
同じ勇者の名前が、絵札になり、公債になり、薬瓶の隣に並ぶ。
この世界は、俺が想像していたより複雑だった。
剣はあった。魔法もあった。だが銃もあり、新聞もあり、国債もあり、港には装甲艦があった。
ただの剣と魔法の世界ではなかった。
---
施設に戻ったのは夕刻だった。
門で書類を確認され、番号を読み上げられ、帰着が帳簿に記録された。
それで外出は終わった。
何も奪われたわけではない。何も縛られていたわけでもない。それでも、門をくぐった瞬間に、少しだけ息が楽になった。
居室に戻ってから、もう一度新聞を広げた。
最後の方に、小さな記事があった。
北方街道の未確認大型魔物について、アルデンラート神託者庁が調査員の派遣を検討している、という内容だった。
俺はその記事を、すぐには重要だと思わなかった。
ただ、勇者レオンの名前だけが、紙面のあちこちに出てくるのが気になった。
この世界に来て一週間も経っていないのに、俺はもうその名前を覚えていた。
窓の外は暗くなっていた。




