神託者の皆様へ
問診と採血が終わってから、半日ほど経っていた。
部屋に戻されてから、最初のうちは何も考えずにベッドに寝転がっていた。天井を見て、腕を見て、また天井を見た。
採血された場所には、もう跡がなかった。痛みもない。
それでも、刺された感触だけは少し残っていた。体がまだ勘違いをしているのかもしれない。あんな傷を、ものの数秒で消されたことはなかった。
しばらくして食事が来た。
白い服の男が盆を置き、何も言わずに出ていった。
盆の上には、肉の少ないシチューと、硬そうなパンが一つ。あとはグラスの水。
まずくはなかった。
ただ、俺が勝手に想像していたような、肉と魚が並び、高そうな酒まで出てくる歓迎の宴ではなかった。そんなものを期待してしまうほど、物語を読みすぎたのかもしれない。
温かくて、食べられる。
たぶん、それで十分という扱いなのだろう。
俺は机の前に座って、それを食べた。
食事が終わると、またやることがなくなった。
ベッドに戻り、横になった。眠れる気はしなかったが、起きていてもすることがない。窓の外には草と木がある。空の色は、さっき見たものとあまり変わらない。
どこかで鳥が鳴いていた。
判定が返るまで、1週間。
その一週間は、まだほとんど始まってもいなかった。
扉がノックされた。
「失礼します」
ジョゼフだった。手に薄い冊子を持っていた。
「これをお渡しするのを忘れていました」
少し気まずそうな様子で差し出した。
「ありがとうございます」
「国際神託者管理機構が発行している案内冊子です。この世界の概要と、初期生活に必要な説明が載っています」
「読みます」
冊子を受け取った。
表紙は厚紙で、紙は少しざらついていた。印刷はきれいだが、日本で見慣れたパンフレットとは少し違う。紙の端がわずかに不揃いで、インクの匂いが残っていた。
「それでは、私はこれで」
ジョゼフは退こうとしていた。俺は慌てて言った。
「あの、外が見たいのですが。その……許可はもらえますか」
「つまり、施設の外に出たい、ということですか」
「はい。街を少し歩くだけでもいいので」
ジョゼフは腰のポーチから板を出した。何かを書いた。
「確認してきます。少し待っていてください」
礼をして、出ていった。
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机の上に冊子を置いた。
表紙には、簡潔な文字が印刷されていた。
神託者の皆様へ
国際神託者管理機構 発行
その下には、機構の紋章らしいものがある。丸い輪の中に、開いた手と星のような印。
俺はページを開いた。
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本機構は、加盟各国政府の協調のもと、神託者の受け入れ・保護・生活支援を専門に担う国際機関です。
神託者は、古くからこの世界に記録されてきた存在です。突然知らない土地に導かれ、不安や混乱を覚えることは珍しいことではありません。あなたが今感じている戸惑いは、多くの神託者が最初に経験したものです。
しかし、あなたは一人ではありません。
本機構の前身となる受け入れ体制は、数百年にわたり整備されてきました。これまで多くの神託者が、担当者の案内と各国の支援のもとで生活を始め、前世の知識や経験をこの世界で役立ててきました。
本機構は、神託者の皆様に以下を提供します。
安全な生活環境。
衣食住の確保。
健康状態の確認。
前世の知識・技能の適正な活用機会。
担当者による継続的な案内と相談支援。
あなたの出身、時代、言語、信仰、経歴は一人ひとり異なります。そのため、本機構では初期確認と判定を行い、それぞれに適した支援と役割を整えます。これは、あなたを制限するためではなく、あなた自身と周囲の安全を守り、より安定した生活を始めるための手続きです。
不安なことがある場合は、自己判断で行動せず、担当者に相談してください。多くの問題は、正しい手順を通じて解決できます。
神託者は、この世界にとって異物ではありません。
新しい知識、新しい経験、新しい可能性をもたらす存在です。
私たちはあなたを歓迎します。
文章は丁寧だった。
安全。支援。生活保障。適正な活用機会。
悪い言葉ではない。むしろ今の俺には必要な言葉ばかりだった。
ただ、どの言葉も、こちらが動く前に置かれた柵のようにも見えた。
次のページへ進んだ。
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「活躍する神託者たち」という見出しがあった。
写真は白黒だった。人物は全員、この世界の服を着ていた。役所の中庭、水路、鉱山の入口、教室、記録室。そういう場所で撮られている。
全員が笑っているわけではない。ただ、どの写真も落ち着いた表情のものが選ばれていた。
欄の構造を確認した。
出身。本人申告。機関注記。役割。証言。名前。
人間の生きていた時代が、標本の年代みたいに揃えられていた。
最初の一人。
出身:ローマ市民、アフリカ属州カルタゴ近郊
本人申告:皇帝アントニヌス・ピウスの御代
機関注記:西暦2世紀中頃と推定
役割:地方行政文書顧問(引退)
証言:「知らない土地に来たとしても、秩序ある場所には必ず役目があります。支えてくださった方々を信じ、与えられた務めを果たすことで、私はこの世界に居場所を得ることができました」
マルクス・アエミリウス
西暦2世紀。
1800年前だ。
写真の男は老人だった。椅子に座っていて、後ろに若い書記らしき人間が立っている。手には、この世界の紙束を持っていた。
古代の人間が、ここでは役所の中庭で写真に収まっている。
次へ進んだ。
出身:大明、南直隷・蘇州府
本人申告:万暦28年頃
機関注記:西暦1600年前後と推定
役割:辺境農地改良協力員(現役)
証言:「最初は帰る場所を失ったと思いました。けれど、導きを受け入れ、この土地で働くうちに、私は新しい暮らしを得ました。不安に急かされず、まずこの世界を知ることが大切だと思います」
陳文偉
水路の前に立っている男だった。背後には畑が見える。写真の端に、子どもらしき姿も写っていた。
俺は農地改良という言葉を見た。
水を引く。土地を測る。作物を増やす。
何をしたのかが、短い言葉だけで分かる。
次のページには、別の男が載っていた。
出身:ロシア帝国、カザン県
本人申告:ユリウス暦1905年生まれ
機関注記:西暦20世紀初頭と推定
役割:行政記録補佐(現役)
証言:「特別な力がなくとも、経験を活かせる場所はあります。焦らず、定められた手続きに従い、自分にできる仕事を積み重ねることで、生活は安定していきました」
キリル・ヴォルコフ
記録室らしい部屋に立っている男だった。棚が並び、紐で綴じた書類が積まれている。表情は薄い。笑ってはいないが、不満そうでもない。
特別な力がなくとも。
その一文で、少し手が止まった。
だがこの男には、鉄道局で輸送記録を扱っていた経験があるらしい。統計係。勤務表作成。冊子の補足欄にそう書かれていた。
俺の「特別な力がない」とは、たぶん意味が違う。
ページをめくった。
アメリカ合衆国。オスマン帝国。朝鮮王朝。ムガル帝国。アサンテマン。
時代も場所もばらばらだったが、欄の形式は同じだった。
本人申告。機関注記。役割。証言。名前。
どこかで活躍していると機構が判断した人間が、選ばれて載っているらしかった。載っている以上、全員が成功例なのだろう。少なくとも、この冊子の中では。
失敗した人間のページはなかった。
さらにめくったところで、手が止まった。
出身:日本国、東京特別行政区
本人申告:西暦2094年、月面常駐施設《静かの海・第3保守区画》勤務
機関注記:本人申告による
役割:地下施設・換気管理顧問(現役)
証言:「時代が違っても、人が生きるために必要なものは変わりません。空気と水を守る仕事が、この世界でも役立つと知った時、私はここで生きていけると思いました。支援を信じ、できることから始めてください」
水瀬遼子
日本人だった。
俺の68年後の人間だった。
月面施設。静かの海は月の地名で、第3保守区画は月面基地の区画だ。
写真の水瀬さんは40代くらいに見えた。この世界の服を着て、静かな顔をしている。背景には鉱山の換気塔らしきものが写っていた。月面施設でも、宇宙服でもなかった。
過去から来るだけじゃない。
未来からも来る。
それも、俺の知っている日本の先から。
さらにページをめくった。
ヴォストーク連邦。ブリタニア連邦。東南アジア連合。北アフリカ統合州。
俺の知っている地図にはない名前が続いていた。
何があったのかは書かれていない。独立か、分裂か、統合か、戦争か、災害後の再編か。パンフレットはそこを説明しない。
ただ、その国から来た人間が、港湾防災、物資配給、災害復旧、通信保守といった役割を得ていることだけは分かった。
冊子の中の世界は、俺の知っている歴史よりも広く、俺の知っている未来よりも先にまで伸びていた。
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冊子を机の上に置いた。
写真に載っている人間は、みんな何かを持っていた。
法務記録。水路管理。鉱山測量。教育。鉄道統計。換気管理。港湾防災。
もし俺もこの冊子に掲載されるとしたら、何を書かれるのだろう。
出身:日本国
本人申告:西暦2026年
役割:未定
前世職能:特になし
そんな言葉なら、機構はきれいに書いてくれるのかもしれない。
だが、俺には分かっていた。
この冊子に載っている人間たちには、みんな動詞があった。
水を引いた。
坑道を測った。
鉄道の記録を扱った。
港で人と物を動かした。
空気と水を守った。
俺には、それに並ぶ動詞がない。
読んだ。
知っていた。
分かった気になっていた。
それは、役割になるのだろうか。
そこまで考えたとき、廊下で足音がした。
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扉がノックされた。
「お待たせしました」
ジョゼフが入ってきた。
「許可が下りました。明日の朝から日没前まで、施設外への外出が認められます」
「一日、外に出られるんですか」
「はい。ただし、私が同行します。移動できる範囲も決まっています」
「どのくらいまでですか」
「首都の市街地であれば、概ね問題ありません。ただし、官庁街の一部と港湾区画、軍関連施設には近づけません」
首都。
この施設は、首都の中か、少なくとも近くにあるらしい。
「わかりました。ありがとうございます」
ジョゼフが少しだけ表情を動かした。
「何かご不明な点はありますか」
俺は机の上の冊子を見た。
質問はいくつもあった。
だが、そのどれも、今聞くべきではない気がした。
「いくつかありますが、今日は大丈夫です」
また少し、表情が動いた。今度はさっきとは違う種類だった。
ジョゼフは机の上の冊子を一度見た。それから、俺の顔を見た。
「では、明日の朝にまた」
礼をして、出ていった。
扉が閉まる音がした。
窓の外で、草が揺れていた。
鳥がもう一度鳴いた。
明日、外に出る。
そう考えると、少しだけ晴れやかな気持ちになった気がした。




