前世問診
問診は、すぐには始まらなかった。
担当官は革の書類鞄から何枚かの紙を取り出し、その下に挟んでいた別の束も広げた。記録係の女が追いかけるように自分のものを並べる。2人の間で、しばらく紙が行き来した。2人とも俺を見ていない。
俺は寝台の上で、拘束具をつけたまま待った。
拘束を外してもらえたのは、担当官が椅子に座ってから少し経ったあとだった。白い服の男が手首の錠を解く。足首も。頭の横の革も取れた。
ゆっくり起き上がると、頭の奥でまだ痛みが脈を打っていた。
「座ったままでいてください」
白い服の男が言った。俺は頷いた。
立てる気はしなかった。
---
「出身地を確認する」
担当官が紙を見ながら言った。
「日本です」
彼は動じなかった。
「日本のどの時代か」
どの時代。そんなことを聞かれると思っていなかった。
「……21世紀です。2026年です」
担当官は紙の束から1枚引き抜いた。それを眺め、何かを確認している。横の記録係も一緒に覗き込んだ。
「21世紀。産業革命は既に完了している」
「……はい」
「電気、内燃機関、インターネット。これらは利用可能な環境にあった」
「使ってました」
担当官は頷いて、紙を元の束に戻した。何かを書き込む。
俺はその紙の束を見た。
日本という国を、彼は聞いて驚かなかった。確認するように繰り返しただけだ。あの紙の中に、過去の神託者の記録でもあるのだろう。日本から来た者が、以前にもいたのかもしれない。
それがいつの話なのか、俺には分からないが。
---
「職業は」
「アルバイトです。日雇いも少し」
「定職なし、と記録する」
記録係の筆が走る音がした。
「……はい」
はい以外に言うことがなかった。間違ってはいないからだ。
「専門技術はあるか。医療、建築、農業、冶金、魔法に関わる知識の実用化が可能なもの」
「ありません」
「趣味は」
「読書です」
担当官がほんの少し、手を止めた。
「分野は」
「歴史が多いです。日本の中世から近世あたり。あとは科学の読み物とか、政治、社会学も少し。物語もよく読んでいました」
「幅広い」
褒めている声ではなかった。確認だった。
「この世界で実用化できると考えられるものはあるか」
考えた。
すぐに答えたくなかった。ここで即答すれば、本当に何もないと認めることになる気がした。
読んだのは本当だ。大学図書館でも、実家近くの古本屋でも、暇があれば本を開いていた。中世の日本史を読んで、近世の経済構造を読んで、科学の原理を読んで、政治哲学を読んだ。物語も読んだ。
それだけ読んでいれば、何か1つくらいは使える知識があるはずだ。
そう思いたかった。
だが、「この世界で」という条件がついた瞬間、何も出てこなかった。
江戸時代の出版事情は、ここでは役に立たない。社会学の理論も、この石造りの部屋では使いようがない。読んでいた異世界転生ものも、今の俺を助けてはくれなかった。あれは全部、向こう側から読んでいた物語だった。
知識を仕入れることと、それを使うことの間には、本来なら回路があるはずだ。
俺には、その回路がなかった。
「……できません」
それ以外に言えることがなかった。
担当官は何も言わずに書き込んだ。
「運動の習慣は」
「ありません」
「社会活動、ボランティア、組織運営の経験は」
「ありません」
「軍事的な訓練、武器の扱い、格闘の経験は」
「ありません」
担当官は驚かなかった。憐れまなかった。俺の顔を見もしなかった。次の欄へ進んだ。
それが、ある意味で一番きつかった。
軽蔑でも同情でもない。欄に何かが埋まっていけばそれでいい。その中身には興味がない。俺の24年間を、この男は今この速度で処理している。
記録係の筆の音だけが、規則正しく続いた。
「教育歴を確認する。高等教育は受けているか」
「大学に通っていました」
担当官が顔を上げた。記録係も少し手を止めた。
「専攻は」
「文学です。社会学も少し」
「学位は。学士、修士、博士」
「学士です」
「成果は。論文、研究、資格取得、実務への応用」
間があった。
何か言えることがないか、と記憶を探った。卒業論文は書いた。テーマは確か、江戸時代の出版文化だったか、それとも明治の何かだったか。調べたことは覚えている。
だが内容を今、誰かに説明できるかと考えたとき、言葉が出てこなかった。
「……特に、ありません」
担当官は書き込んだ。記録係も書いた。
2人の間で、俺の大学4年間がそれで終わった。
「前世で習得した知識に、この世界で有用だと考えられるものはあるか」
「……ありません」
担当官は顔を上げなかった。
「知識習得。実地応用なし、と記録する」
一瞬、胸の奥が固くなった。
正確だった。
だから余計にきつかった。
広く読んだが深くはない。深めようとしたこともなかった。読めば分かった気になり、次の本へ移って、また分かった気になった。それを繰り返して24年が経った。
本を読んでいた頃のことを思い出した。
茨城の実家の、自分の部屋。机の前には一応椅子があったが、たいていは畳の上に転がって読んでいた。蛍光灯の下でページを捲りながら、分かった気になっていた。
読むことが好きだったのは本当だ。だがもう1つ、別の理由もあった気がする。
本を開いている間は、バイトで怒鳴られた日も、就職活動の書類が通らなかった日も、何かを積み上げているような気がした。
歴史を読んで、政治を読んで、科学を読んで。
そういう自分は、少なくとも何もしていないだけの人間ではない。そう思えた。
だが今、「実地応用なし」と記録されていく音を聞きながら、積み上げたと思っていたものが、ただ机の上に散らばった紙のように見えた。
本は読んだ。
知識は頭の中にある。
ただ、それを一度も、何かの目的に向けて使ったことがなかった。
教育歴の確認が終わると、担当官は一度だけ紙の束を揃えた。
終わったのかと思った。
だが、次に出された紙は、履歴書のようなものではなかった。
「前世の政治体制について確認する」
担当官が紙をめくった。
「日本の政治体制は、議会制民主主義。象徴として天皇を置くが、政治的決定は議会と内閣を中心に行われる。これは正しいか」
「……はい」
ただ、その情報がどこから来たものなのかは、やはり分からなかった。俺より前に、日本について話した誰かがいたのだろうか。
「この世界では、同様の制度を採用している国は多くない。それを踏まえて、その制度を、この世界で広めたい、或いは民衆に啓蒙したいという意志はあるか」
「ありません」
反射的に答えた。
民主主義という言葉が、急に思想ではなく、持ち込み禁止の品目のように扱われている気がした。
そもそも、俺はそれを広められるほど、民主主義を理解しているわけではなかった。選挙に行ったことはある。ニュースを見て、政治について何か言ったこともある。だが、それだけだ。制度を背負って異世界の民衆を啓蒙するような人間ではない。
まして、この世界の歴史も、王も、民衆も、宗教も知らない。
それでも広めたいなどと言えば、たぶん、それは信念ではなく、ただの無責任な持ち込みになる。
少し間があり、再び筆を走らせる。
---
「宗教について確認する」
担当官が紙の束から一枚を引き抜いた。机を越えてこちらに差し出す。
受け取ると、そこにはいくつかの図が並んでいた。
十字架。
三日月と星。
炎を象った紋様。
複数の腕を持つ像。
そして、鳥居。
「信仰に近いものがあれば示せ」
俺は少し迷って、鳥居を指さした。
「これです。ただ、信仰というほど真剣なものではなかったと思います。神社には行きます。初詣も行きます。ただ、何かを本気で信じているかと言われると……」
担当官は指で刺された鳥居のイラストを一瞥してから、また書類の束をゴソゴソと漁り、何かを確認する。
「神道。自然崇拝で多神教。形式的な参拝習慣。以上の理解でよいか」
「……はい」
担当官が紙を回収した。何かを書く。
「教義を布教する、あるいは広める意志はあるか」
「ありません」
「特定の宗教的、政治的指導者、またはその思想を広める意志はあるか」
担当官は顔を上げなかった。
「ありません」
また筆の音がした。
---
「転生について確認する」
担当官は次の欄へ移った。
「神託者の中には、転生に神意や使命を見出す者がいる。あなたは、自分が何らかの使命のために選ばれたと思うか」
少し間があった。
「いいえ」
俺に使命を託すくらいなら、神にももう少しましな人選があるはずだった。
担当官は何も言わずに書いた。
特別な理由でここに来たとは思わない。
それは本当だった。
死んで、気づいたらここにいた。それだけだ。
選ばれた理由があるとしたら、俺が今まで生きてきた時間のどこかに、それらしい意味があったことになる。
けれど、そんなものに心当たりはなかった。
記録係の筆が止まった。
「思想、信仰の確認を終わる」
担当官が紙を揃えた。
---
「魔力の採取に移る」
担当官が言った。
魔法。
その言葉で、少しだけ背筋が伸びた。
魔法という単語なら知っている。物語の中で何度も見た。炎を出す。傷を治す。空を飛ぶ。物品を出し入れする。そういうものだ。
だが、今この部屋で担当官の口から出たそれは、物語の中の言葉とは違って聞こえた。
「それって、ここでは普通にあるんですか」
「ある」
「どうやって確認するんですか。その……鑑定石みたいなもので見るとか、聖職者に診てもらうとか、そういう方法じゃないんですか」
担当官が、少し間を置いた。
「なぜそう思う?」
「前世の知識ですけど、異世界転生の物語というのが向こうではよくありまして。魔法の才能とか、能力の種類とか、鑑定石か何かで調べるのが定番なんですよ。もしくは神官に見てもらうとか」
記録係が書くのを止めた。俺を見ている。
言ってから、少し恥ずかしくなった。
この状況で、物語ではこうでした、と説明している。まるで自分の置かれている立場を理解していない。そう思われても仕方ないと言ってから思った。だが、他に参照できるものがなかった。
担当官は一拍置いてから言った。
「君が鑑定石と呼ぶものは、大型の設備だ。簡単に移動できない」
「……コンピューターみたいなものですか」
「その理解でよい。ここにはない」
「聖職者は」
「この施設には常駐していない」
「じゃあ、どうやって」
扉が開いた。
入ってきたのは、今まで部屋にいた誰とも違う女だった。20代後半か30代前半くらい。白と灰色の服を着ていた。胸元に小さな銀の留め具。腰には布の帯。修道服に近い形だが、装飾はほとんどない。
脇に木の箱を抱えていた。
彼女は担当官に一礼してから、箱を卓の上に置いた。
蓋を開けると、中には金属と硝子で作られた器具が入っていた。
注射器だ、と思った。
ただし、俺の知っているものより大きい。ピストンが太く、針が太く、長い。使い込まれた道具というより、普段はしまわれている器具を出してきたように見えた。
「採血します」
修道服の女が俺を見て言った。
「……はい」
魔法を調べるのに、採血。
想像していたのとは違い、ずいぶん現実的な手段をとるようだ。
---
女は箱の中から器具を取り出した。それから、木箱の内蓋を開いた。内蓋の裏に、何かが貼りつけてある。手順が書かれた紙だった。
女はそれを一度読んだ。
使い慣れている動きには見えなかった。
俺は黙って見ていた。
「これ、よく使うんですか」
「あまり使いません」
それだけ言って、女は器具を持ち直した。
神託者が来るたびに採血するわけではないのかもしれない。鑑定石があれば採血は不要なのだろう。ここに鑑定石はない。だから器具を引っ張り出してきた。使用頻度が低いから女も手順を確認した。
俺は今、代わりの方法で処理されようとしている。
左腕を取られた。袖がまくられる。
女は肘の内側をしばらく見た。指で軽く押す。次に器具の針を、俺の腕に当てた。
一瞬の圧力。
それから、強烈な痛みが走った。
「っ」
声が出た。
刺さった。
刺さったのは分かっている。だが普通の採血より、明らかに深い。針が太い。それに、角度が少しおかしい。皮膚を貫いてから、さらに押し込まれるような感触があった。
「……深くないですか」
「少し動かないでください」
動くな、と言われたが、体が勝手に腕を引こうとした。そこを女に押さえられた。ピストンが引かれる。血が吸い上げられていく。その間も、針が刺さっている感触がずっとある。
目が、にじんだ。
泣くつもりはなかった。だが痛みが先に体を動かした。耐えるとか、耐えないとかいう前に、涙が出た。
担当官も記録係も、俺の方を見ていなかった。
十分に採れた、という判断をしたのか、女がピストンを止めた。
引き抜いた。
一気に、だった。
「ぐっ」
また声が出た。刺す時より、抜く方が短く鋭かった。
俺は片手で腕を押さえながら、歯を食いしばった。
---
女は採れた血液を別の硝子管に移し始めた。
腕の傷口が、じんじんしている。押さえた指に、血がにじんでいた。
女がこちらを向いた。
器具の処理が終わったらしい。彼女は俺の腕を取り、傷口を確認した。それから片膝をついた。
傷の上に、手が置かれた。
少し温かくなった。
熱ではない。指先から何かが染み込んでくるような感触だった。それが傷口から入って、広がって、消えた。
押さえた指をゆっくり離した。
赤みが消えていた。
さっきまでの痛みも、じんじんした感触もなかった。腕の皮膚は、採血の前と変わらない。
修道服の女が立ち上がり、礼をして出ていった。
扉が閉まり、彼女が出て行ってから、礼をしそびれたことに気がついた。
それよりも...
魔法があった。
そう思った。
だが、思っただけで、納得したわけではない。腕の傷は消えているし、痛みもない。だから理解するしかない。そういう順番だった。
頭の中では、まだ何も追いついていなかった。この世界は、元居た世界とは違いすぎる。
---
「結果についてだが」
担当官が言った。記録係は採れた血液の入った硝子管に、何かを書いた紙を貼り、布で包み始めていた。書類も束ねて封をする。
「採取した血液は書類とともに、アルデンラートへ送付する」
「アルデンラートというのは」
「大国の1つだ。神託者の検査設備がある」
紙に何かを記入しながら、担当官が顔を上げずに続けた。
「判定が返ってくるまで、1週間かかる」
「……1週間」
「それまで、ここで待機してもらう」
担当官は書類束を閉じた。
「施設内での生活になる。食事と寝具は提供する」
「わかりました」
わかった、と言った。
だが、本当は何もわかっていなかった。
言われたことを順番に受け取って、返事をしただけだ。返事をすれば次へ進む。担当官たちはそういう速度で動いていたし、俺もその速度に押されていた。
担当官は立ち上がり、書類鞄を抱えた。記録係も荷物を抱えて立つ。2人は俺を一瞥もせずに扉へ向かい、出ていった。もう二度と会うことはないとでもいうように。
白い服の男もついていく。
部屋の中に、俺だけが残された。
---
急に、音がなくなった。
さっきまで人が何人もいて、紙が動いて、器具が鳴って、誰かが何かを決めていた。その全部が消えると、逆に何をしていいのか分からなかった。
死んだ。
異世界。
神託者。
魔法。
1週間。
単語だけが残って、どれも文章にならなかった。
腕を見た。
傷はない。
ないのに、刺された感じだけが残っている。痛みではなく、記憶の形をした痛みだった。
息を吸った。
うまく入らなかった。
何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
そのとき、扉のそばに人がいることに気づいた。
---
兵士ではない。
俺とそれほど変わらない年齢の若い男で、上質だが地味な服を着ていた。胸に何の徽章もない。腰に小さなポーチを1つぶら下げている。
壁に背を当てて立っていた。担当官たちが入ってきた時から、ずっとここにいたのかもしれない。俺は気づいていなかった。
男が俺を見た。
「……お疲れ様でした」
挨拶だった。
事務的でも、形式的でもない、普通の声だった。
それだけで、俺は少し面食らった。今日この部屋に来た人間は、挨拶をしなかった。担当官も、記録係も、白い服の男も。用件から始まり、用件が終わったら出ていった。
「あなたの案内役です。ジョゼフと申します」
俺はその名前を、頭の中で一度繰り返した。
ジョゼフ。
この世界に来てから今まで、誰も名前を名乗らなかった。担当官も記録係も、白い服の医者も、修道服の女も。ジョゼフ、という名前の男が、今はじめて俺の前に立っている。
「何かこの世界のこと、これからの生活のこと、聞きたいことがあったら、何でも質問してください。許可されている範囲名で答えます。」
「……俺は」
そこまで言って、止まった。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
俺は死んだんですか。
帰れないんですか。
さっきのは本当に魔法なんですか。
これからどうなるんですか。
どれを先に聞けばいいのか分からなかった。全部が先で、全部が遅かった。
「すみません。今、何を聞けばいいのかも分かっていません」
ジョゼフは少しだけ目を伏せた。
「当然だと思います」
その言い方だけは、今日聞いたどの説明よりも人間らしかった。
「水を持ってきます。飲めますか」
「……たぶん」
「では、少しだけ」
ジョゼフはそう言って、扉の外に出た。
すぐに戻ってきた。透明なグラスに水が入っていた。
受け取ると、手が少し震えていることに気づいた。ジョゼフはそれを見ても、何も言わなかった。ただ、杯を持ちやすいように少しだけ下から支えた。
水はぬるかった。
うまいとは思わなかった。けれど、喉は勝手に動いた。
少しだけ警戒して飲んだが、口の中に広がったのは、どこにでもある水の味だった。甘くもなく、苦くもない。あの何も期待できない退屈で鈍い味。
それが喉を通ったとき、俺は目が覚めてから初めて少しだけ息をつけた気がした。
「……ありがとうございます」
「いいえ」
ジョゼフは短く答えた。
「これから、どうなるんですか」
ようやく、それだけ聞けた。
「判定が戻るまでは、この施設で待機していただきます」
「そのあとは」
「等級によります」
「等級」
また知らない言葉が増えた。
ジョゼフは腰のポーチから薄い板を取り出した。何かを書き込んでいる。慣れた手つきだった。
「こちらです。部屋へご案内します。歩けそうですか」
「……分かりません」
「では、ゆっくりで構いません」
それも、今日初めて聞いた言葉だった気がした。
急がなくていい。
言葉自体はありふれているのに、その時の俺には少し変に聞こえた。
---
廊下に出た。
狭くて天井が低い。壁は石で、左右に扉が並んでいる。廊下の奥に窓があった。薄曇りの光が入ってくる。草の地面。遠くに木立。空の色は、知らない色ではなかった。
ジョゼフは少し前を歩いていた。
歩くたびに、膝が少し頼りなかった。自分の足で歩いているのに、廊下だけが先に進んでいくような感覚があった。
「ひとつ聞いていいですか」
「はい」
「神託者って、よく来るんですか」
口に出してから、自分でも少し変な質問だと思った。
本当は、もっと聞くことがあるはずだった。
俺は帰れるのか。家族はどうなるのか。前の世界の俺は死体として見つかったのか。ここは本当に別の世界なのか。
だが、そういう質問は喉の奥で詰まった。代わりに出てきたのが、それだった。
ジョゼフが少し間を置いた。
「……それほど多くはないです」
「年にどのくらい」
「それは……私の口からは、少し言いにくいです。申し訳ないですが」
「謝ることでもないですよ」
ジョゼフが振り返った。一瞬だけ、何か驚いたような顔をした。それからまた前を向いた。
「……ありがとうございます」
廊下を歩きながら、ジョゼフは板に何かを書いた。
案内のメモか何かだろう、とその時の俺は思った。
---
ジョゼフは数枚の扉を通り過ぎさせ、一番端の部屋を開けた。
「ここです」
扉を開けると、小さな部屋だった。寝台。机。椅子ひとつ。窓は1つで、鉄格子が嵌っていた。
刑務所と宿屋の中間のような部屋だった。
「何か必要なものがあれば言ってください。食事は1日に3回です。施設内を移動する際は、声をかけてください。私が同行します」
「どこにでも行けるんですか」
「施設内であれば、概ね。施設長の許可があれば、街にまで出ることもできます」
「外にも出られるんですか」
「はい。ただし私が同行します」
俺は部屋の中に入り、椅子に座った。ジョゼフは扉の内側で立っていた。敷居の手前、外に出るわけでも完全に部屋に入るわけでもない、その境目の位置に。
「神託者って、普通は歓迎されるものじゃないんですか」
ジョゼフが少しだけ間を置いた。
「……状況によります」
「状況というのは」
「能力の性質と、等級によります」
等級。その言葉がまた出てきた。
「等級というのは」
「有用性の段階評価です。S、A、B、C、Dの5段階が存在しており、発現した能力の強さと、前世の知識や技術の両方を合わせて評価されます」
ジョゼフが少し姿勢を変えた。扉から離れて、壁に背を当てる。もう少し部屋に入った形になった。それと同時に、ポーチから板を取り出した。
能力に等級がある。
そういうものなのか、と思いかけて、少し遅れて「有用性」という言葉が引っかかった。
能力だけではない。前世の知識や技術も含めて、転生者を労働力として使えるかどうかで分ける。
ずいぶん、はっきりした世界だった。
「S、というのは何ですか。どのような人がなれるんですか」
「Sというのは非常に強力な能力を持ち、かつ単独で大きな社会的影響力を持ちうる存在です。国家の規模で扱われます」
「Dは」
「能力や知識の評価が低い場合の等級です。ほかにも、言語的な意思疎通が困難な場合や、明らかな敵意を示す場合も、ここに分類されることがあります」
ジョゼフは板の上に何かを書いた。俺が質問したから書いているのか、それとも俺の反応を書いているのか、どちらか判別がつかなかった。
S、A、B、C、D。
単純に能力の強弱で並んでいると思っていたが、Dは少し違う。能力が低い者と、意思疎通ができない者と、敵意がある者が、同じDに入る。
「Cというのは」
「一般的な神託者が多く含まれる等級です。詳しい扱いは、判定後に説明されます」
そこで切られた。
説明するつもりがないというより、ここから先はまだ言わない、という切り方だった。
「俺はどのくらいになると思いますか」
ジョゼフが少し間を置いた。
「……それは判定を待ってください。能力の詳細と合わせて、1週間後にお知らせがあります」
また板に何かを書いた。
「等級次第では、歓迎されないこともあるんですか」
「そういう場合もあります」
「過去に、そういう人がいたんですか」
ジョゼフの視線が、少し重くなった気がした。
問答を続けるようにすぐ答えなかった。俺の顔を見て、それから窓の外に目をやった。1秒か2秒、そうしていた。何かを言いかけて止めているのか、どこから話すかを考えているのか、分からなかった。
板の上に、何かを書いた。
「……います。強い神託者が、必ずしも歓迎されるとは限りません」
「強いのに?」
「強いからです」
ジョゼフの声が、それまでより少し低くなっていた。
「制御できない力は、味方であるうちは英雄になります。制御できなくなれば、災害になります」
少しだけ、間があった。
「過去には、そのように記録された神託者もいます。伝承では、魔王と呼ばれています」
「魔王」
「その後から、神託者の能力管理について、各国が協調して取り組むようになりました」
ジョゼフは板から目を上げなかった。何かを書いていた。
俺が読んできた物語なら、強い能力は称賛される。転生者は英雄になる。だがここでは、強い能力は「制御が難しい」という評価につながるらしい。そしてその評価は、世界からは歓迎されないことを意味する。
英雄とは、制御できない者の別名かもしれなかった。そしてこの世界の制度は、そういう存在を称えるためではなく、封じるために作られているように見えた。
「俺のいた世界の物語では、転生者は特別扱いされるんですよ。勇者と呼ばれたり、能力を讃えられたり」
「……必ずしも、そうではありません」
その一言だけが、他より少し早く返ってきた。
「神託者は、魔法が使えるんですか」
「何らかの能力を持つことが多いです。内容は人によって違います」
「判定が戻ってきたら、俺はどこへ行くんですか」
「等級によります」
「それも、今は言えないんですか」
ジョゼフは少しだけ目を伏せた。
「はい」
板に何かを書いた。
「あなたは、神託者ですか」
少し長い間があった。ジョゼフは板から目を上げた。答えようとしているような間だった。しかし何も出てこなかった。
「……それも、答えられません」
また書いた。
「あなたは、答えたくないことが多いですね」
ジョゼフは少しだけ、表情が変わった。困ったような、苦いような、何か微妙なものが一瞬だけ出た。
「……その通りです。申し訳ないですね」
「いや、あなたのせいじゃないでしょう」
ジョゼフが、わずかに笑った。
完全な笑顔ではなかった。口の端が少し動いた、その程度だ。でも、笑ったのは分かった。今日この施設で会った人間の中で、笑ったのはこの男だけだった。
「……まあ」
それだけ言って、ジョゼフは姿勢を戻した。板をポーチに戻した。
「他に何か」
「今日はいいです。ありがとうございます」
ジョゼフが礼をした。形式的な礼だったが、廊下に出る前に一度だけ俺を見た。確認するような視線でも、評価するような視線でもない。それよりもっと、普通の——また明日、みたいな目だった。
「必要があればお呼びください。廊下にいます」
扉が閉まった。
---
窓から外を見た。
草と木と空。
1週間。
部屋は静かだった。石の壁が音を吸っている。廊下の向こうで、足音が1つ、止まった。
ジョゼフが廊下で立ち止まったのだろう。案内のメモにしては書くタイミングが妙だった、という引っかかりが、まだ残っていた。俺が質問するたびに書いていた。俺の反応を、書いていたのか。
答えは出なかった。考えてもしかたがないかもしれない。
担当官は名前を言わなかった。記録係も、白い服の男も、修道服の女も。この世界に来てから今日の今日まで、誰も名前を教えなかった。ジョゼフという名前の男だけが、挨拶をして、名前を言った。
名前があると、人間が1人いるような気がする。
単純だが、そういうものかもしれない。
俺は机の上に視線を落とした。
何もない机だった。書くものも読むものも何もない。1週間、ここで何をするのか。食事が来る。眠る。起きる。また食事が来る。それだけの1週間が始まろうとしていた。
今日だけで、どれだけの「ありません」を言っただろう。
専門技術はない。運動の習慣はない。組織経験も武器の知識も軍事訓練もない。学士を持っているが成果はない。知識はあるが実地応用なし。
俺の24年間が、今日の午前中で記録された。
腹は立った。
だが担当官は何も感じていなかった。憐れみも軽蔑も出なかった。欄が埋まっていけば、それで仕事は終わる。それが余計に、じわじわと残った。
1週間後に等級が返ってくる。S、A、B、C、D。
Sというのは、単独で社会的な影響力を持ちうる存在だとジョゼフは言った。
もしかして俺の能力は——と、思った。
思ってしまった。
俺が読んできた物語では、前の世界で何者でもなかった人間でも、別の世界では規格外の力を持って生まれ直す。チートと呼ばれるやつだ。前世の業績は関係ない。むしろ何もなかった人間ほど、逆転のために選ばれる。
だとすれば俺だって——
ありません。
ありません。
ありません。
知識習得、実地応用なし。
今日の棚卸しが、思ったより速く頭の中に戻ってきた。
まあそうか、とは思う。
しかし能力は前世とは別の話かもしれない。等級だけは高い可能性が、まだゼロではない。そうだったら、一躍俺は勇者に、皆から尊敬される、あの英雄になれるかもしれない。
あるいは——
止めた。
結果が来てから考えることにした。来てもいないものについて、今ここで楽しくなったり暗くなったりするのは、どちらも消耗するだけだ。
壁の石を1枚だけ見ていた。
外は草と木と空で、空の色は知らない色ではなかった。




