女神はいない。
激しい頭痛と、胃の奥からせり上がる吐き気で目を覚ました。
最初に思ったのは、飲みすぎた、だった。
クソッ 昨日はどれだけ飲んだんだ。
目を開けようとしたが、まぶたが重い。頭の奥で鈍い痛みが脈を打っている。口の中は乾いていて、舌が上顎に貼りついていた。胃だけが、まだ何かを吐き出そうとしていた。
昨日は、たしかバイト先でクレーマーに絡まれた。帰り道にコンビニで缶チューハイを買った。1本でやめるつもりだったのに、寒さと苛立ちに負けて、次のコンビニでもう1本買った。
そこまでは覚えている。
そこから先が、濁っていた。
視界が少しずつ開く。
知らない天井だった。
見慣れた実家のくすんだ白でも、病院のアルコール臭い真っ白でもない。石を積んだ低い天井。煤けた梁。壁にかかった油灯。灯りは弱く、揺れるたびに天井の影が歪んだ。
薬草の匂いがした。その下に、湿った布と古い木材の匂い。
ここはどこだ。
目を擦ろうとして、手を動かそうとした。
動かなかった。
手首に冷たいものが食い込んでいる。金属だった。力を入れると、がちゃり、と重い音がした。手首だけではない。足首にも同じ重さがある。頭の左右に革のようなものが当たっていて、大きく動かせない。
「……は?」
声がかすれた。
拘束されている。
病院ではない。警察署でもない。少なくとも、俺の知っている施設ではない。
自殺志願者か何かだと思われて保護されたのか。酔って暴れて、取り押さえられたのか。それにしても、石造りの部屋と鎖はおかしい。
何があった。
昨夜の記憶を探ろうとした。頭痛が邪魔をする。思考の端がぼろぼろと崩れていく。
橋。街灯。濡れた手すり。
それが浮かんだ瞬間、胃が一段深く沈んだ。
足が滑った。冷たい風。手すりを掴もうとして掴めなかった指。水。
真冬の川だった。骨の髄まで刺すような冷たさ。息ができない。上も下も分からない。手を伸ばしても何も掴めない。喉に水が入り、肺が燃えるように痛んだ。
俺は落ちた。
だが、今は寒くない。服は乾いているようだ。水を吸った重さもない。喉は焼けるように乾いていて、頭は割れそうに痛む。しかし、川から引き上げられた直後の体ではなかった。
視界の端で、何かが動いた。
白い服を着た若い男が、寝台の脇に立っていた。20代前半くらいだろう。痩せていて、顔色が悪く、目の下に薄い隈があった。医者の白衣に似た服だが形が違う。襟元に青い刺繍が入り、袖口が少し広い。胸には金属の小さな留め具。
男は俺の顔を覗き込んだ。
「起きましたね」
知らない言葉だった。
なのに、意味だけは分かった。
音は日本語ではない。英語でもない。聞いたことのない音の連なり。だが、頭が勝手に意味を拾っている。
背中に汗が滲んだ。
「……あなたは、誰ですか」
使い慣れた日本語で言葉を発したつもりが、口から出たのは、知らない言葉だった。
俺は自分の声を聞いて、息を止めた。舌が、知らない形に動いている。喉が、俺の知らない音を作っている。自分の口で喋っているのに、自分の言葉ではない。
何だ、これ。
男は俺の反応を見て、声を少し落とした。
「急に動かないでください。確認中です」
「すみません、ここはどこですか。どうして縛られているんですか」
「拘束は一時的なものです。錯乱時の事故を防ぐために行っています」
「俺、何かしたんですか」
男はすぐには答えなかった。俺の瞼を指で軽く開き、油灯を近づける。目を診ているらしい。次に首筋に触れ、脈を取った。喉元、額、手首。手つきは丁寧だが、自信からではなく、決められた手順を1つずつ外さないようにしている感じだった。
「あなたが何かをした、とは記録されていません」
「じゃあ、外してください。お願いします」
「今はできません」
「どうしてですか」
「担当官の判断が必要です」
担当官。聞いたことのない肩書きだった。
知らない場所で、知らない言葉を喋り、知らない男に脈を取られながら、聞いたこともない肩書きの人間の判断を待たされている。
五感から入ってくる情報の全部が、俺を安心させなかった。
「名前を言えますか」
「……中村亮です」
男は寝台の横に置いてあった薄い木板を取った。紙が挟まれている。その上に、見たことのない文字が書かれていく。曲線と角張った線が混じった文字。読めない。
「年齢は」
「24です」
「痛む場所は」
「頭と喉です。吐き気もあります。手首も」
男は俺の手首を見た。拘束具の内側には革のような緩衝材が当てられている。乱暴に縛ったものではない。最初からこういう用途で作られた道具の形をしていた。
「外傷は確認されていません。吐き気と頭痛は初期反応の範囲です」
「初期反応?」
男は一瞬だけ黙った。
「よくあります」
よくあります。
その言葉だけが、嫌に残った。
何が。誰に。どういう時に。
聞き返そうとしたが、うまく言葉にならなかった。
「すみません。家に帰してください。警察には言いません。だから、鎖を外してください。お願いします」
自分でも、途中から何を言っているのか分からなかった。警察には言わない、などと口走っている時点で、まともな交渉ではない。だが、他に言えることがなかった。
男は困ったように眉を寄せた。
「ここでは、今すぐ帰すことはできません」
「ここって、どこなんですか」
「リュメル公国東部の保護施設です」
「リュメル……?」
聞いたことがない。国名なのか、地名なのかも分からない。
体を起こそうとした。拘束具が金属音を立てる。頭の左右の革が引っかかり、うまく動けない。すぐに扉の外で、金属の擦れる音がした。誰かがいる。
男が俺の肩に手を置いた。強くはないが、止め方に慣れがあった。
「動かないでください」
「頼みます。説明してください。俺は川に落ちたんです。ここが病院じゃないなら、どこなんですか。日本じゃないんですか」
男は答えなかった。答えられないのではなく、答えないようにしている。そういう沈黙だった。
扉が開いた。
濃紺の制服を着た初老の男が入ってきた。白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、小さな銀縁の眼鏡をかけていた。頬がこけ、口元は細い。制服は古い軍服にも役所の制服にも見える形で、胸に銀色の徽章、腰に革の書類鞄を下げていた。
後ろには、紙束を抱えた若い女がいた。髪を後ろで固く結び、表情は薄い。さらにその後ろに兵士が2人。胸当てだけの古い形の鎧に、規格品の帯革。手には槍で、穂先だけが妙に磨かれていた。
白い服の男が姿勢を正した。
初老の男が何かを尋ねる。白い服の男が短く答える。言葉は分かるはずだったが、ふたりの早い口調では断片しか拾えなかった。
覚醒。応答。錯乱。翻訳。拘束。
初老の男が俺の方を見た。
その目には、驚きも、憐れみも、敵意もなかった。
机に向かう前の、役人の目だった。
「中村亮。24歳。本人申告として記録する」
若い女が紙に書き込んだ。
「待ってください」
俺は慌てて言った。
「勝手に進めないでください。ここはどこで、あなたたちは誰なんですか。俺は帰れるんですか」
初老の男は少しだけ間を置いた。
「順に確認する。君が質問に答えられる状態かどうかも含めて、これから記録する」
「記録じゃなくて、説明をしてください」
「説明は行う。ただし、先に確認が必要だ」
その声には、こちらを脅すような強さはなかった。だから余計に、岩や壁のような、動かせないものを相手にしている感じがした。
初老の男は、寝台の横の椅子に腰を下ろした。若い女が隣で紙を広げる。白い服の男は一歩下がり、俺の呼吸と拘束具を確認している。兵士は扉の横に立ったまま動かない。
部屋の空気が変わった。治療でも、観察でもない。何かの手続きが始まる気配だった。
初老の男は紙束の1枚目を開いた。
「これより、前世に関する確認を行う」
前世。
その言葉だけが、部屋の中で妙にはっきり聞こえた。
「……前世?」
喉が引っかかった。
「……前世って、何の話ですか」
初老の男は紙から目を上げた。
「あなたは死亡している」
それだけだった。補足も、前置きも、表情の変化もなかった。
「……死んでません。俺は今、ここにいます」
担当官は俺を一度見た。急ぐでも、苛立つでもなく、ただ間を置いた。それから紙の上に視線を戻した。
「説明する」
短く言った。
「この世界には、別の世界から人間が流れ着く現象がある。神託現象と呼ばれている。流れ着いた者を神託者と言う」
教科書を読み上げるような、淡々とした声だった。
「少なくとも今確認されている限りでは、流れ着くための条件は1つ。それは前の世界で死ぬこと。生きたまま来た者の記録はない」
「……別の世界」
「あなたが生まれた世界とは異なる世界だ。この世界がそれにあたる」
黙って、担当官の顔を見た。嘘をついているようには見えなかった。
「起きる。実際にあなたがここにいる。証拠として我々が話す言語、君が今話す言語、元居た世界で使ってた言葉とは違うはずだ。しかし、現に今会話が成立しているだろう?」
反論できなかった。
「川へ落ちた、とあなたは言っていた。さしずめ、そこで死んでしまったのだろう」
川。
冷たさ。息ができない。肺が燃えるように痛んで、手を伸ばしたが何も掴めなくて——そこで、切れている。
引き上げられた記憶がない。声を呼ばれた記憶もない。岸に辿り着いた記憶もない。
ただ、痛みの中で途切れている。
「……死んだのか、俺は」
担当官は答えなかった。
答える必要がないということだ、と分かった。
「君は現在、神託者として扱われている」
初老の男は、淡々と続けた。
「では、前世問診を開始する。答えられる範囲で構わない」
異世界転生、という言葉が頭の奥から浮かんだ。
そういう物語なら、いくらでも知っている。
死んだ人間が女神に会い、能力を与えられ、特別な役割を告げられる。そして別の世界で目を覚まし、勇者となり世界を救う。
そんな都合のいい物語を、俺は何度も読んでいた。
だが、目の前にいるのは、眼鏡をかけた初老の官吏だった。
彼が持っているのは書類だ。彼の後ろにいるのは記録係だ。扉の横に立っているのは槍を持った兵士だ。
女神はいない。
俺が死んだことを惜しむ声もない。お前は特別だと言ってくれる者もいない。
そのことが、奇妙なほど腹立たしかった。
ただ、手続きがあった。
俺の死は、この部屋ではすでに終わった話だった。




