第九十一話 動き出す影
交易路を挟んだ宿屋の向かい、背の高い草の奥にマーティン曹長は身を潜めていた。
油で水を弾くように加工された大判の布を低く張り、三角に張った簡易天幕を設置し終えていた。
小さな灯りも使わず、干し肉を少しずつ噛みながら、宿屋の様子を見ている。
草が風に擦れる音だけの空間に、干し肉を奥歯で噛みしめる、ぎち……という小さな音が溶け込む。
カラン……
ドアベルの人工的なその音は、マーティンの聴覚を刺激した。
干し肉を一旦しまい、宿屋を注視する。
扉の隙間から漏れた灯りが、一瞬膨らむと地面に延び、玄関先が明るくなる。
そこに、出てきた男の輪郭が浮かぶ。
(こんな夜更けに、なんだ……?)
宿屋から出てきた男は、手にランプを持ち、警戒するように周囲を見渡している。
そうして確認を終えると、交易路をそのまま北上するように歩き出した。
服装は一般市民のように見える。
だが、夜更けに宿を出て、ためらいなく道を進む足取りは、なにか目的を持っているようだ。
マーティンは草陰に身を潜め、その不穏な男が見えなくなっても、消えた方角を警戒し続けた。
それからほどなくして、北の方角から三つの灯りが近づいてきた。
ひとつは人が手に持つ高さ、残る二つはそれよりも高い位置にあった。
馬に乗った者がいる。馬上の灯りが高いのだろう。
(まさか……)
ランプの灯りはゆらゆらと尾を引くように動き、黒い人影を映し出す。
目を凝らしても、人影の輪郭と、ランプの近くに浮かぶ服の色が、ぼんやり滲んで見える程度だった。
(馬上の人間は、制服のような装い? 軍服か……?)
その時──ランプの揺れに合わせ、馬上の人間の首元で何かがきらりと光った。
(襟元……留め具か? 何かの装飾品……?)
装飾品にしては位置が高く、服の形もそろっている。
ただの旅人が、夜更けに馬で連れ立って動くには不自然だった。
(これはまずいな)
三つの灯りはこちらへ向かっている。
マーティンは足元の荷物から鉤のついたロープを取り出し、腰を低くして宿屋の裏手へ急いで回った。
宿屋の裏手に着くと、二階のバルコニーを見上げる。
バルコニー横には梯子が備え付けられているが、手を伸ばしても届かない位置で途切れている。
ロープの先についた鉤を手に持つと、角度を確かめ低く息を吐き、手首を返して投げ上げた。
鉤は弧を描き、木の梯子に引っかかる。コンっと乾いた音が辺りに落ちた。
ぐっと力を入れロープを二度引き、それが外れないかを確かめた。
右太ももに沿わせたロープを右足の甲へ回し、左足の靴底で挟み込むように押さえた。
両手でロープを掴み、身体を引き上げる。
膝を引き寄せ、足元のロープを挟み直す。
そこへ体重を預けると、腕だけに頼らず、足で立ち上がるように身体を持ち上げた。
ロープの編み目に重みがかかるたび、ギュっと小さく軋む音がする。
引き上げる。
挟む。
踏み上がる。
その動作を繰り返し、マーティンは闇に紛れるように梯子の最下部を目指す。
梯子に手が届くと横木に足をかけ、するすると上まで登り、バルコニーへ静かに降り立った。
バルコニーのドア上部にある硝子から、宿屋の中の気配を探った。
(廊下には誰もいない)
音を立てぬようにドアを開け、マーティンは廊下へ滑り込んだ。
まずはオットー達が宿泊している部屋のドアに手をかける。
ドアノブからは鍵のかかった硬い反応が返ってきた。
オットーから報告を受けた女性二名の部屋の前へ足を進め、ドア前で耳をそばだてた。
中からは複数人の話し声が、壁越しに低い振動となって伝わってきた。
(この低い振動は男の声の響きか、時々入る高い声はエルザだな)
オットー達は恐らく対象の女性二名と接触したのだろう。
(話は進んでいるのか……?)
(事情の見えていない俺が乱入するよりは、正体不明の三人を見張っていたほうが良いだろう)
一階の様子を確かめるため、マーティンは階段脇まで進むとそこで待機し、様子を探り始めた──
カラン……
宿のドアを押し開けて入ってきたのは、先ほど宿から出て行った男。
そして後方から二つの人影が入ってきた。
宿の明かりに照らされ、後ろから入ってきた二人の姿がはっきりと見えた。
ユリウス侯爵の私兵の制服を着ている。
その姿に驚いた女店主は、うわずった声をかける。
「こんな夜更けに、何故、侯爵様の私兵の方が……?」
「小さな田舎の宿屋へ、どのようなご用件で」
女店主は、つけていた帳簿をそっと閉じると、揉み手をしながら私兵へ猫なで声を向ける。
その様子をじろりとねめつけた私兵の一人は、低く答えた。
「捜索中の人間が、この宿に滞在しているという情報を得た」
「女性二名が宿泊しているはずだ。宿泊客の部屋を確認する」
その一階のやり取りをマーティン曹長は確認すると、オットー達が接触しているだろう女性二名の部屋へ急いだ。
(まずいな……対象者を穏便に確保は無理だ)
ドアをそっと開けている余裕などない。バンッと開かれたドアに、室内にいた四名の視線が一気に入口に集まる。
「ユリウス侯爵の私兵が女性二名を探しに来ている。正面は使えない。裏へ出る」
オットーはその言葉で確信する。
カタリナがユリウス侯爵の差し金で動いていたなら、私兵が探しに来るはずがない。
彼女らは侯爵から逃げている。
そして、検問所へ届いた荷物が彼女たちのものなら──彼女らは帝国軍に何かを託そうとしていた。
マーティン曹長が部屋に入ったことで、エルザ達はもう、ただの旅商人ではいられなくなった。
オットーはカタリナを見た。
彼女は動揺していたが、握っていたブランケットから手を離し、ベッドから降りようとしている。
オットーは、振りほどけない。けれど痛くもない。そんな適切な力加減でカタリナの腕を掴んだ。
「君たちの荷物が行商人の荷車によって、帝国軍管理の検問所に届いた」
この内容で意味が分かるなら間違いないだろう。
カタリナはその言葉を聞くと、ほっと息を漏らし、目の縁にじわっと涙を浮かべだす。
安心したようなその反応で、オットーは、彼女は帝国軍に保護を求めているだろうと推察する。
「俺たちは、君たちを保護するために動いている」
「一緒に行けるか?」
カタリナはゆっくりとうなずき、目の縁を拭う。
「……お願いします」
オットーはベッドからブランケットを急いで引っ張り出すと、それを小脇に抱えた。
「バルコニー側から出る」
カタリナと隊長の娘へ視線を合わせ、彼女らが部屋を出るのを急がせた。
その間に、一階にいた者達が階段脇に向かう足音が近づく。
「急げ」
そう低くマーティン曹長は告げ、四人の背中を押しやった。
オットーを先頭に、カタリナ、隊長の娘と続き、最後尾にエルザとマーティンがついた。
オットーがバルコニーのドアを開き、壁に備え付けられている梯子へ目をやった。
「これで降りる。俺が下で受け止める」
そう告げるとスルスルと梯子を下って行き、途切れた箇所で手を離すと、トスン……と静かに地面に着地する。
そうしてオットーは壁沿いにある樽へブランケットを置くと、バルコニーに向けて腕を広げ、待っている。
隊長の娘がまず梯子へ手をかけ降りはじめた。
オットーはそれを下から見守っている。そうして最下部まで隊長の娘が降りてくると、補助し、地面へおろす。
続いてカタリナが梯子へ身を預けた。
咳が大きく出るたびに肩が揺れ、踏み板を踏み外しそうになる。
そうしながらゆっくりと梯子の先端まで降りてきた。
カタリナは振り向くような仕草を数回挟む。地面との距離を確かめているようだ。
オットーは声をかけた。
「俺が受け止める」
オットーはカタリナの下を支えるように手を伸ばし、カタリナが落ちてくると身体を支え地面へ降ろした。
カタリナの息は荒い。
高熱で呼吸も苦しいのだろう。大きく肩を揺らしている。
オットーはブランケットを樽から拾い上げると、隊長の娘に視線をやり「これをお願いできるか?」と差し出した。
こくりと頷く隊長の娘。
オットーはカタリナの傍に来ると背中を向け、膝をついた。
「走るのは無理だろう。背中に」
躊躇うカタリナにオットーは強い口調で「早く」と声をかけた。
カタリナはオットーの背に身を預けた。
オットーは彼女を背負うと、バルコニーを振り返り、見上げた。
エルザとマーティン曹長はまだバルコニーだ。
追っ手はもうすぐにでも二階へたどり着くだろう。
マーティン曹長は、バルコニーの手摺から顔を出すと「早く行け!」と地面にいる三人へ声をかけた。
そうして返事も待たず身をひるがえし、室内へ戻っていく。
それを援護するように、エルザも室内へ戻っていった。




