第九十話 言えない素性
三人は列になり、階段を上がっていく。
エルザたちは隊長の娘の部屋を知っている。
けれど、あえて知らない振りをして、隊長の娘が上りきるのを待った。
隊長の娘は足を進め、自室のドアの前に立つと、ドア横に備え付けられている小さなテーブルへ視線をやった。
鍵を取り出すために、手にしているトレイをその上へ置こうとしているのだろう。
その仕草を見て、エルザが横から声をかけた。
「私が持つわよ?」
隊長の娘は動作を止め、一瞬迷うようなそぶりを見せた。
このまま親切を受け取っていいのか、部屋へ通していいのだろうかと、状況が進んでも決められないでいるようだった。
エルザは何も言わず、にこやかに微笑んでいる。
こぼれて減ってしまったスープ。
そこから立ち上るのは、もはや湯気とも呼べず、かすかな熱の名残だけが空気を揺らしていた。
隊長の娘は一度深く息を吸うと、躊躇いがちにエルザの方へ身体を向けた。
「……ありがとうございます」
隊長の娘はおずおずとトレイをエルザへ手渡した。
そしてスカートのポケットへ手を入れ、鍵を取り出すと鍵穴へ差し込み、ドアを開けた。
それまで静かだった廊下に、くぐもった咳の音がこぼれてくる。
隊長の娘がそっと部屋に入る。それに続くようにエルザとオットーが室内に入った。
並んだベッドのひとつ。そこには人が一人、布団をかぶって寝ているようだ。
咳の音が漏れないように、掛布団の下で必死に口元を押さえているらしく、音はこもっている。
そのたび、膨れ上がった布団の山が小さく揺れる。
「……だいぶ酷そうだな」
そうオットーがぽつりと言う。
その声に反応し、布団はぴたりと動きを止めた。
それでも堪えきれず、コン、コホッ……と続いた後、ゴロゴロ……と痰が転がるような音を出している。
布団をかぶって咳をしていた人物は、落ち着くと、そろりと掛布団から顔を出した。
エルザとオットーはその顔を見て、小さく息を呑んだ。
その顔は、事前に知らされていた人相描きと一致していた。
ユリウス侯爵の娘、カタリナで間違いない。
これで行商人の持っていた荷物は『極めて不審な物品一式』から『証拠品』として扱える。
エルザもこの時ばかりは、緊張でジワっと背中に汗が滲むのを感じていた。
見知らぬ訪問者の姿を確認すると、カタリナは驚いたそぶりを見せた後、掛布団の中からブランケットを引き寄せ、口元を覆うようにして、痰の絡んだ咳をする。
そして落ち着くと、声を出した。
「どちら……様ですの?」
その声色には険があった。
隊長の娘は、その冷たい声に、胸前で合わせていた手をギュッと握る。
そして小さな声でカタリナに説明をする。
「この方が……あの、手当ての心得があると……」
「それで病気がよくなればと……ごめんなさい」
カタリナは小さく息をこぼすと、その振動が気管に触れたのか、また咳が止まらなくなる。
ひとしきり咳をした後、息を整えて、二人に視線を合わせた。
「結構です。必要ありません」
オットーはその拒絶を受け止め、腰に手を当てたままため息をこぼす。
カタリナのその頑に拒む様子から、無理に押せば余計に警戒されるだろうと汲み取る。
どのように切り出すべきかを考えあぐねていた。
(行商人の話が確かなら、彼女らが検問所へ行きたいのは間違いない。だが、その動機が分からない……)
逡巡したのち、ゆっくりと落ち着いた声で話しかけた。
「咳を殺して悪くしている。診るだけ診る」
「診たからといって、金を取るつもりもない。そこは安心しろ」
カタリナは鋭い視線で、その言葉をじっと聞いていた。
そして、ドアの横で申し訳なさそうに立っている隊長の娘を見た。
悪気があってやったわけじゃない、心配でそうしただろうことは分かっていた。
カタリナはもう一度オットーとエルザを交互に見る。
そのカタリナの静かな動きを見ていたエルザは、カタリナに声をかける。
「食堂のおじさんがあなたを心配して話していたのを、私が小耳に挟んだのよ」
その言葉にカタリナは眉間に一瞬しわを寄せる。
食堂の料理人が話していたのを聞いた。
それならば、この二人が最初から自分たちを狙ってきたわけではない?
おそらく、夕餉前に廊下で声を交わしていた夫婦だろう。
だが、だからといって信用できるわけではない。
残っている銀貨は一枚。
このまま熱と咳が長引けば、宿代も食事代もすぐに尽きる。
自分のせいで、隊長の娘まで立ちいかなくなる。
ドアの横で、身動きひとつせず固まる隊長の娘の顔を見る。
俯き、伏し目がちになっている姿に心が痛む。
(心配をかけている……)
カタリナは咳の余韻で浅く息をしながら、もう一度オットーを見た。
(信用できない……でも……)
しばしの沈黙が流れた後、カタリナは小さく声を出した。
「……お言葉に甘えるわ」
オットーは、ほっと柔らかく息を吐くと、腰に当てていた手をゆっくりと動かし、腰袋へやった。
中から、中央がくびれた短い木筒を取り出す。
「少し背中を出せるか」
その指示にエルザが反応し、ベッドサイドのテーブルへトレイを置き、声をかけた。
「そのブランケットを羽織るようにできる?」
カタリナは握りしめていたブランケットをチラっと見ると「えぇ……」と短く返した。
そうして、ブランケットをするすると布団の中から引っ張り出す。
エルザはブランケットの端に手を添え、そのままカタリナの上半身に掛け「後ろ、向ける?」と声をかけた。
オットーはカタリナの背中側へ立つと、木筒の片端を背に当て、反対側へ耳を寄せた。
「……深く息を吸え。いや、無理はしなくていい」
カタリナは身体を強張らせ、咳を止めようとしているようだが、息を吸えば触発され肩を大きく揺らし咳が出る。
咳の出ていない間は、ヒュッヒュゥ……と、狭まった気管を空気が通るたび、細く音を鳴らしている。
「……風邪をこじらせている。胸の音もよくない」
「ちゃんとした医者に診せたほうが良い」
カタリナは胸前でブランケットをかき合わせ、気丈に振る舞う。
「診てくださって……ゴホッゴホ……」
「ありがとうございます……このまま療養します……大丈夫です」
オットーは、それは軽く見積もりすぎだと、「あのなぁ……」と小さく声を漏らす。
カタリナはおそらく検問所に行きたいはずだ。
でも帝国を彼女がどう捉えているか分からない。
確定できない状況の中で、カタリナ達が納得しそうな言葉を並べていく。
「だいぶ状態が悪い。ここで寝ていて治る段階じゃない。薬と道具のある医者に診せたほうが良い」
「そうだな……検問所あたりまで行けば、医者を呼べるかもしれない」
『検問所』という言葉に、カタリナの指に力が入り、寄せ合わせたブランケットの皺が深くなる。
伏せていた睫毛がわずかに上がり、隊長の娘の方を見る。
「どうする?」問いかけるオットーの声は落ち着いている。
隊長の娘とカタリナは、お互いの意志を確認するかのように無言のまま目を合わせた。
オットーがカタリナを診察しているその頃──
一階の食堂で食事をしていた一人の男。
一口だけつけたビールと、半分しか手を付けていない食事をそのままに、席を立つ。
無言のまま宿屋の出入り口へと向かう。
ドアに手をかけ、押し開こうとしかけた時、カウンターにいた女店主は玄関口へ視線を向けた。
「こんな田舎には、外に出ても店も何もないよ」
その女店主の声に男は動きを止め、振り返った。
「ちょっと飲み過ぎた。風に当たるだけだ」
「なんだい、入り口付近で吐かないでおくれよ」
「わかってる」
男は肩をすくめて答える。
女店主はじろりと男を見た。
宿の外は暗い。道の脇には草が茂り、少し行けば川もある。
酔った客が足を滑らせたなどと騒がれては、こちらがたまらない。
「玄関脇にランプがある。持っていきな」
「いいのか?」
「銅貨一枚。油代だよ。なくしたら弁償してもらうからね」
男は小さく舌打ちしそうになるのを堪え、女店主のいるカウンターへゆっくりと歩み寄る。
すっと銅貨を一枚、腰のポケットから取り出すと、帳場横に置いた。
そして玄関脇に掛けられていた小さなランプを手に取り、何食わぬ顔で夜の外へ出て行った──




