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黒の矜持  作者: 川端マレ
第三部 グローテハーフェン編
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第八十九話 盗み聞き

 古い床板を、コン、コツンと鳴らし、宿の二階へ上がる。

 上り終えたエルザは、一瞬足を止め、周囲に視線を走らせた。

 

 廊下を挟み、向かい合うようにドアが六つ並んでいる。

 突き当たりには外へ出るための古い両開きの木戸があり、上半分に硝子が格子状に嵌め込まれていた。

 小さなテーブルと椅子、そして鉢植えの影が見える。どうやら奥は、宿泊客が使えるバルコニーになっているらしい。


 エルザは、手元の鍵に結ばれた木札の部屋番号へ目をやる。

 並んでいる各部屋のドアの上部には、番号の書かれたプレートが打ち付けられており、その数字の並びから察するに、二人の部屋はどうやら一番奥のようだ。

 床板を鳴らしながら、ひとつ、ふたつと各ドアの前を通る。

 各部屋のドアの向こうは静かで、中にどのような宿泊客がいるのかなど、分かるはずもない。


 廊下の壁には、色あせた花模様の壁紙が貼られていた。

 腰のあたりまで古い木板が打ち付けられており、ところどころに擦れた跡や、荷物をぶつけたような傷が残っている。


 女性二名の名が記されていた部屋の前へ差し掛かる。

 エルザは少し歩みを緩め、耳をそばだてて室内の気配を探る。

 客室の厚い木戸は、こちらの探る耳を押し返すように、ただ無言で廊下に居座っている。


 エルザはくるりと振り返り、後ろのオットーへ声をかけた。

 ドアの向こうにも届くよう、少しだけ声を明るくする。


「ねぇ、夕餉(ゆうげ)の前に何処か、汗の流せる場所がないか見て来てよ」

「は? どうして俺が……」

「妻の我儘を聞いてくれないの?」


 オットーはため息を漏らしながら、「わかったよ」と不服そうに答えた。


 その返答を聞くと、エルザはさっさと歩き出した。

 一番奥のドアの前で立ち止まると、鍵を差し込み、何食わぬ顔で部屋の中へ入る。


 部屋に入ると二人は荷物を置く。

 偽装夫婦という役のため、同室だ。

 ベッドは二つ並べて置かれている。


 空気がぎこちなくなるのを感じるオットーには気づきもせず、エルザは窓に寄ると、そっと外を眺め始めた。

 西の稜線の奥に茜が残るばかりで、空は藍色に染まっている。

 室内の灯りが窓の硝子に反射し、外はよく見えない。


 オットーは部屋の状態だけひととおり確認すると、入口のドアへ歩み寄った。


「……湯場を見てくる」


 ぶっきらぼうにそう言った声は、まだ不機嫌な夫役のままだった。

 だが、視線だけは一瞬エルザへ向く。

 宿内の出入り口と間取りを確認してくる、という合図だ。


 エルザは窓へ向けていた視線をオットーに合わせ「さすが私の夫ね」と明るく言うと、視線を外に戻した。


 その返答にオットーは何か言いかけ、結局口を閉じ部屋を出た──


 女性二名が宿泊していると思しき部屋のドアを一瞥すると、廊下奥のバルコニーへ向かった。

 上部に硝子をはめ込んだ木戸を開けると、キィと蝶番(ちょうつがい)が小さく鳴った。

 小さなテーブルに鉢植え、(つた)の絡んだ手摺(てすり)に少し力をこめて押す。古びているが造りはしっかりしているようだ。

 壁際には梯子が据え付けられており、下端は地面より少し高い位置で途切れていた。


 建物内へ戻り、二階の間取りを確認すると、一階へと降りた。

 マーティン曹長へ一度報告をするためだ。


 入口のドアへ手をかけるとカラン……とドアベルが鳴る。

 それに気が付いた女店主はオットーへ声をかける。


「こんな田舎じゃ、夜は店も何もやってないよ」


 女店主の言葉に、オットーは肩越しに答えた。


「いや、湯場を探している。裏手かい?」

「なんだい、水場なら裏にあるよ。湯を使うなら先に声をかけな」

「わかった。ついでに馬車から着替えを取ってくる」


 オットーとの会話を終えると女店主は再び視線を下にして、帳簿のようなものを付け始めた。


 交易路の脇は草木が生い茂っている。

 少し入ると、マーティン曹長が野宿の準備をしていた。

 草の擦れる音で気が付いた曹長は、オットー伍長の方へ警戒しながら視線を合わせた。

 オットーは近くに行くと報告をする。


「この宿に女性二名の記名を確認しました。部屋は二〇三号室。該当人物かは未確認です」


「そうか」


「対象を確認するため、二〇六に部屋をとりました」

「出入り口は正面。それと建物背面にバルコニーがあり、下に降りる梯子を確認しています。一階は公共の設備、二階に宿泊施設です」


「わかった。ひきつづき対象への接触を試みてくれ」


 オットーは手短に報告を済ませ、敬礼をして踵を返す。

 宿屋に向かいながらオットーは考えていた。


(そろそろ夕餉の時間だな……待たせるとエルザがうるさい……)


 なるべく他の客と接点を持たせるため、食事つきを頼んだ。

 食事は一階の食堂でとる形になる。


 エルザはオットーが部屋へ戻ってくると共に一階へ降りた。

 二人は食事を受け取り、全体が見える位置で、なおかつ食事の受け取り場所に近いテーブルを選んだ。


 はたから見れば、食事と会話を楽しんでいるような様子を演じ、周囲を観察する。

 周りには単身の男性、そして男性の二人組。男性ばかりだ。


 食事が半分ほど進んだ頃だろうか、一人の若い女性が降りてきた。

 顔を伏せ、どこか足音にすら慎重になっている素振りで、配膳口へ向かって行く。

 配膳を待つ間、若い女性は顔を伏せたまま、なるべく頭を動かさないようにしているようだった。肩はわずかに強張っている。

 けれど視線だけは周囲を確かめるように落ち着きなく動き、そのたび伏せた顔もわずかに揺れる。


 一つのトレイに二人分の食事。

 中の料理人が快活にその若い女性に声をかけた。


「まだ、具合はよくならないのか? 大変だな」

「これ、サービスだ。カミさんには内緒だぞ?」


 若い女性──隊長の娘は、顔を伏せたまま、上目遣いで料理人に視線を向けると軽く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 そう言い、トレイに料理をのせて、そそくさとその場を離れようとする。

 エルザ達の横を通り過ぎようとした時だった。


「ねぇねぇ、おねえさん」


 エルザは隊長の娘に声をかけた。


 隊長の娘は大きく肩をゆらし、手に持っていたトレイに乗せたスープが少しこぼれた。

 そのこぼれたスープを娘は見つめたあと、チラっとエルザを確認すると少し距離をとるように身体をずらす。


「あー、ごめんなさいね。急に話しかけたから、驚かせちゃったわ」

「さっきの話、盗み聞きしちゃって」


 エルザは申し訳なさそうに小さく肩をすくめたあと、手に持っていたスプーンを置く。

 ゆっくり隊長の娘の方へ身体を向けると覗き込み、心配そうに尋ねる。


「お連れさん具合が悪いの? 大丈夫?」

「なにかお役に立てないかしら?」

「この人、こう見えて手当てはそこそこ出来るのよ」


 エルザは目の前に座る、オットーを視線で指し示す。


 隊長の娘はトレイを持ったまま固まった。

 『手当て』という言葉に反応してしまったのか、わずかに視線がオットーへ向く。

 だがすぐに、困ったようにトレイの上へ目を落とした。


 部屋で熱に浮かされているカタリナの姿が、隊長の娘の脳裏をよぎった。


(勝手に私が決めていいのかな……)

(でも、高熱が続いているカタリナさんが楽になるなら……)

(どうしよう……)


 エルザは決めかねる隊長の娘をみつつも、それを意に介することもなく明るく声をかける。


「遠慮しないで」


 そう言うと、膝上のナフキンを手際よく畳み始め立ち上がり、厨房の方へ顔を向けた。


「おじさん、ちょっとこの子のお連れさんの様子を見てくるわね」

「お料理、あとでまた取りに来てもいい?」


「あぁ? 料理はかまわん。それより手当の心得でもあるのか? 良かったな娘さん」


 料理人は鍋をかき混ぜる手つきを止めず、隊長の娘へ、にかっと笑顔を向けた。

 その声につられるように、近くの席にいた客の視線もちらほらと集まる。

 

 エルザはその空気を逃さず拾うと、楽しげに目を細めた。


「そう、この人昔、その道で頑張っていたんだけど、私と駆け落ちするために諦めたの。ふふふ」


 オットーは何を言うのかと呆れた顔を滲ませながらも、話を合わせるように席を立った。


 隊長の娘が返答をしないうちに、状況だけが進んでいく。


(どうしよう……)


 エルザは隊長の娘に近づいた。


「旅は道連れ、世は情け。っていうでしょ?」


 エルザはそう言うと、先に階段の傍まで行ってしまう。


 隊長の娘はトレイを持ったまま固まっている。その後ろから声がかかる。


「うちの妻がすまないな……いつもああなんだ」


 はぁ……とオットーは、ため息を漏らす。


 隊長の娘は足を進めるのを躊躇(ためら)い、トレイの上にこぼれたスープへ視線を落とした。

 それを見つめていたところで何が変わるわけでもない。

 それでも、決められないまま立ち尽くす自分には、そこへ視線を逃がすことしかできなかった。


(さっき二階でドア越しに、奥さんに振り回されていた人だ……)

(この人たちにとって……これが普通なの……?)


 チラっと厨房の料理人へ視線を送ると、ニコニコと笑顔を返してくる。

 銀貨は残り一枚になっていた、カタリナが体調を崩したままだと立ちいかなくなる。


(診てもらって治りが早くなるなら……)


 決めかねて返事は出来ないままだったが、それでも隊長の娘の足は、階段へ向かっていた──

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