第八十九話 盗み聞き
古い床板を、コン、コツンと鳴らし、宿の二階へ上がる。
上り終えたエルザは、一瞬足を止め、周囲に視線を走らせた。
廊下を挟み、向かい合うようにドアが六つ並んでいる。
突き当たりには外へ出るための古い両開きの木戸があり、上半分に硝子が格子状に嵌め込まれていた。
小さなテーブルと椅子、そして鉢植えの影が見える。どうやら奥は、宿泊客が使えるバルコニーになっているらしい。
エルザは、手元の鍵に結ばれた木札の部屋番号へ目をやる。
並んでいる各部屋のドアの上部には、番号の書かれたプレートが打ち付けられており、その数字の並びから察するに、二人の部屋はどうやら一番奥のようだ。
床板を鳴らしながら、ひとつ、ふたつと各ドアの前を通る。
各部屋のドアの向こうは静かで、中にどのような宿泊客がいるのかなど、分かるはずもない。
廊下の壁には、色あせた花模様の壁紙が貼られていた。
腰のあたりまで古い木板が打ち付けられており、ところどころに擦れた跡や、荷物をぶつけたような傷が残っている。
女性二名の名が記されていた部屋の前へ差し掛かる。
エルザは少し歩みを緩め、耳をそばだてて室内の気配を探る。
客室の厚い木戸は、こちらの探る耳を押し返すように、ただ無言で廊下に居座っている。
エルザはくるりと振り返り、後ろのオットーへ声をかけた。
ドアの向こうにも届くよう、少しだけ声を明るくする。
「ねぇ、夕餉の前に何処か、汗の流せる場所がないか見て来てよ」
「は? どうして俺が……」
「妻の我儘を聞いてくれないの?」
オットーはため息を漏らしながら、「わかったよ」と不服そうに答えた。
その返答を聞くと、エルザはさっさと歩き出した。
一番奥のドアの前で立ち止まると、鍵を差し込み、何食わぬ顔で部屋の中へ入る。
部屋に入ると二人は荷物を置く。
偽装夫婦という役のため、同室だ。
ベッドは二つ並べて置かれている。
空気がぎこちなくなるのを感じるオットーには気づきもせず、エルザは窓に寄ると、そっと外を眺め始めた。
西の稜線の奥に茜が残るばかりで、空は藍色に染まっている。
室内の灯りが窓の硝子に反射し、外はよく見えない。
オットーは部屋の状態だけひととおり確認すると、入口のドアへ歩み寄った。
「……湯場を見てくる」
ぶっきらぼうにそう言った声は、まだ不機嫌な夫役のままだった。
だが、視線だけは一瞬エルザへ向く。
宿内の出入り口と間取りを確認してくる、という合図だ。
エルザは窓へ向けていた視線をオットーに合わせ「さすが私の夫ね」と明るく言うと、視線を外に戻した。
その返答にオットーは何か言いかけ、結局口を閉じ部屋を出た──
女性二名が宿泊していると思しき部屋のドアを一瞥すると、廊下奥のバルコニーへ向かった。
上部に硝子をはめ込んだ木戸を開けると、キィと蝶番が小さく鳴った。
小さなテーブルに鉢植え、蔦の絡んだ手摺に少し力をこめて押す。古びているが造りはしっかりしているようだ。
壁際には梯子が据え付けられており、下端は地面より少し高い位置で途切れていた。
建物内へ戻り、二階の間取りを確認すると、一階へと降りた。
マーティン曹長へ一度報告をするためだ。
入口のドアへ手をかけるとカラン……とドアベルが鳴る。
それに気が付いた女店主はオットーへ声をかける。
「こんな田舎じゃ、夜は店も何もやってないよ」
女店主の言葉に、オットーは肩越しに答えた。
「いや、湯場を探している。裏手かい?」
「なんだい、水場なら裏にあるよ。湯を使うなら先に声をかけな」
「わかった。ついでに馬車から着替えを取ってくる」
オットーとの会話を終えると女店主は再び視線を下にして、帳簿のようなものを付け始めた。
交易路の脇は草木が生い茂っている。
少し入ると、マーティン曹長が野宿の準備をしていた。
草の擦れる音で気が付いた曹長は、オットー伍長の方へ警戒しながら視線を合わせた。
オットーは近くに行くと報告をする。
「この宿に女性二名の記名を確認しました。部屋は二〇三号室。該当人物かは未確認です」
「そうか」
「対象を確認するため、二〇六に部屋をとりました」
「出入り口は正面。それと建物背面にバルコニーがあり、下に降りる梯子を確認しています。一階は公共の設備、二階に宿泊施設です」
「わかった。ひきつづき対象への接触を試みてくれ」
オットーは手短に報告を済ませ、敬礼をして踵を返す。
宿屋に向かいながらオットーは考えていた。
(そろそろ夕餉の時間だな……待たせるとエルザがうるさい……)
なるべく他の客と接点を持たせるため、食事つきを頼んだ。
食事は一階の食堂でとる形になる。
エルザはオットーが部屋へ戻ってくると共に一階へ降りた。
二人は食事を受け取り、全体が見える位置で、なおかつ食事の受け取り場所に近いテーブルを選んだ。
はたから見れば、食事と会話を楽しんでいるような様子を演じ、周囲を観察する。
周りには単身の男性、そして男性の二人組。男性ばかりだ。
食事が半分ほど進んだ頃だろうか、一人の若い女性が降りてきた。
顔を伏せ、どこか足音にすら慎重になっている素振りで、配膳口へ向かって行く。
配膳を待つ間、若い女性は顔を伏せたまま、なるべく頭を動かさないようにしているようだった。肩はわずかに強張っている。
けれど視線だけは周囲を確かめるように落ち着きなく動き、そのたび伏せた顔もわずかに揺れる。
一つのトレイに二人分の食事。
中の料理人が快活にその若い女性に声をかけた。
「まだ、具合はよくならないのか? 大変だな」
「これ、サービスだ。カミさんには内緒だぞ?」
若い女性──隊長の娘は、顔を伏せたまま、上目遣いで料理人に視線を向けると軽く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
そう言い、トレイに料理をのせて、そそくさとその場を離れようとする。
エルザ達の横を通り過ぎようとした時だった。
「ねぇねぇ、おねえさん」
エルザは隊長の娘に声をかけた。
隊長の娘は大きく肩をゆらし、手に持っていたトレイに乗せたスープが少しこぼれた。
そのこぼれたスープを娘は見つめたあと、チラっとエルザを確認すると少し距離をとるように身体をずらす。
「あー、ごめんなさいね。急に話しかけたから、驚かせちゃったわ」
「さっきの話、盗み聞きしちゃって」
エルザは申し訳なさそうに小さく肩をすくめたあと、手に持っていたスプーンを置く。
ゆっくり隊長の娘の方へ身体を向けると覗き込み、心配そうに尋ねる。
「お連れさん具合が悪いの? 大丈夫?」
「なにかお役に立てないかしら?」
「この人、こう見えて手当てはそこそこ出来るのよ」
エルザは目の前に座る、オットーを視線で指し示す。
隊長の娘はトレイを持ったまま固まった。
『手当て』という言葉に反応してしまったのか、わずかに視線がオットーへ向く。
だがすぐに、困ったようにトレイの上へ目を落とした。
部屋で熱に浮かされているカタリナの姿が、隊長の娘の脳裏をよぎった。
(勝手に私が決めていいのかな……)
(でも、高熱が続いているカタリナさんが楽になるなら……)
(どうしよう……)
エルザは決めかねる隊長の娘をみつつも、それを意に介することもなく明るく声をかける。
「遠慮しないで」
そう言うと、膝上のナフキンを手際よく畳み始め立ち上がり、厨房の方へ顔を向けた。
「おじさん、ちょっとこの子のお連れさんの様子を見てくるわね」
「お料理、あとでまた取りに来てもいい?」
「あぁ? 料理はかまわん。それより手当の心得でもあるのか? 良かったな娘さん」
料理人は鍋をかき混ぜる手つきを止めず、隊長の娘へ、にかっと笑顔を向けた。
その声につられるように、近くの席にいた客の視線もちらほらと集まる。
エルザはその空気を逃さず拾うと、楽しげに目を細めた。
「そう、この人昔、その道で頑張っていたんだけど、私と駆け落ちするために諦めたの。ふふふ」
オットーは何を言うのかと呆れた顔を滲ませながらも、話を合わせるように席を立った。
隊長の娘が返答をしないうちに、状況だけが進んでいく。
(どうしよう……)
エルザは隊長の娘に近づいた。
「旅は道連れ、世は情け。っていうでしょ?」
エルザはそう言うと、先に階段の傍まで行ってしまう。
隊長の娘はトレイを持ったまま固まっている。その後ろから声がかかる。
「うちの妻がすまないな……いつもああなんだ」
はぁ……とオットーは、ため息を漏らす。
隊長の娘は足を進めるのを躊躇い、トレイの上にこぼれたスープへ視線を落とした。
それを見つめていたところで何が変わるわけでもない。
それでも、決められないまま立ち尽くす自分には、そこへ視線を逃がすことしかできなかった。
(さっき二階でドア越しに、奥さんに振り回されていた人だ……)
(この人たちにとって……これが普通なの……?)
チラっと厨房の料理人へ視線を送ると、ニコニコと笑顔を返してくる。
銀貨は残り一枚になっていた、カタリナが体調を崩したままだと立ちいかなくなる。
(診てもらって治りが早くなるなら……)
決めかねて返事は出来ないままだったが、それでも隊長の娘の足は、階段へ向かっていた──




