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黒の矜持  作者: 川端マレ
第三部 グローテハーフェン編
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第八十六話 置き去り

 時は数日(さかのぼ)る。


 深夜に侯爵邸を出て、半日ほどが過ぎていた。州境の検問所はまだ遠い──


 カタリナと隊長の娘を乗せた荷台は、ゆるい速度を保ち、ゴトゴトと一定の揺れを刻んでいた。

 道の脇には、刈り取られた後の麦の茎が茶色く並んでいる。


 見晴らしのいい場所に出ると落ち着かず、心なしか身を小さくした。

 荷台に並ぶ麻袋の影へ、少しでも身を寄せたくなる。


 この道は交易にも使われているのだろう、荷車がすれ違えるほどの幅はある。

 だが、石畳のように整えられているわけではない。

 踏み固められた土の道に(わだち)が幾筋も延びている。


 隊長の娘は疲労が強かったのか、荷台の揺れに身を任せるうちに身体を横にして眠り始めた。


 彼女の頭が下がっているのが気になり、カタリナは肩から鞄を降ろすと軽く形を整え、隊長の娘の頭の下へ差し入れた。

 その動きで隊長の娘はうっすらと目を開け、小さく声を出す。


「……すみません、ありがとうございます」


 そう言うと、また力なく目を閉じた。


 行く先は蛇行し長く続いており、しばらくすると道脇に背の高い草と、広葉樹の茂る場所へ入って行く。

 ところどころ白樺の樹木が混ざっており、少しずつ北上しているのが見て取れた。


 荷馬車は速度が遅い。

 この間にも父ユリウスは、二人がいなくなっていることを把握して動いているだろう。


 見つかるのが先か、検問所へたどり着くのが先か──


(ジークフリート少佐に会えれば──)


 父の手記を渡せば、罪は暴かれる。

 そうなれば自分も無事では済まない。

 それでも、黙って見過ごしたまま罪に問われるより、自分が選んだ形で裁かれる方がまだマシだった。


 そしてその時、父が自分のために立ち止まってくれるなら──


(まだ私はお父様に見てもらいたいって言うの?)

(子供じゃあるまいし……)


 深くため息をつくと、自分の表情に幼さが滲んでいる気がして、意識的に目に力をこめた。


 ふと決別した夜の父の言葉がよみがえる。


『そうならないように上手く立ち回っておる。その為の算段も整えておる』


(もし本当にそうならば、私が今やってることはただの親不孝な行動なのでは)


 それでも、浮き足立ったような屋敷の空気も、兵たちの騒めきも、父の記録も──何もかもが最悪の方へ傾いているようにしか思えなかった。


(行動ができなくなる前に、動けたと思うほかないのよ……)


 そう言い聞かせても、過ぎていく(わだち)は涙で滲み、二重に揺れた。

 ポケットからハンカチを取り出し、まつ毛を整えるふりをして目元を拭う。


 ハンカチをしまう際、ポケットから銀貨の擦れる音がした。


 本来であればこの銀貨で馬車を手配したかった。

 けれど身分証を求められ、値踏みするような視線を向けられた瞬間、危ないと感じて断った。


(馬車であれば、もう少し速かったのかもしれない)


 そうは言っても安全そうな行商人の荷車を選んだのだ。

 もう後戻りはできない。


 陽が高くなり、夏が終わったと言えど、じわりと汗が滲む。

 その時行商人の老人が、荷台の方へ振り向き告げてきた。


「次に村が見えたら、そこで一度馬に水をやらにゃいかん」


 馬にも休憩が必要だ。カタリナは隊長の娘に一度視線を向け、すやすやと眠る様子を見て短く答えた。


「分かりましたわ。こちらにはお気遣いなく」


 行商人はそのまま前を向くと、馬の手綱をさばき、荷車を進ませていく。


 村の入口に着くと、慣れた手つきで荷車を小さな小屋前に停め、するすると荷車から馬を開放する。

 カタリナが連れてきた馬の傍へ行商人が歩み寄る。


「こいつも水が必要だろう。ちょっと先に川があるからワシはそこへ行く」

「お前さんたちも何か見たいものがあれば、少し先に小さいが店もある」


 示した方へカタリナは目をやるが、休んでいる隊長の娘を起こすのは忍びなく、そのまま荷台で待つことにした。


「私たちはここで待つとします」


 カタリナの返事を聞くと行商人は、二頭の馬の手綱を引き獣道の奥へ進んでいった。

 その姿はすぐに周りに生えている草に紛れ、見えなくなる。


 眠る隊長の娘をそのままに、カタリナは周囲を警戒していた。

 その時だった。


 来た道の遠くに、騎乗で駆けて来る影が二つ見えた。

 馬上の人影はまだ小さい。だが、その装いは父ユリウスの私兵のものに見えた。


 カタリナの心臓が騒めきだす。


(追いつかれた、隠れなければ)


 カタリナは眠る隊長の娘を揺さぶり起こすと、焦るように言葉にする。


「お父様の兵がこちらに向かっているのが見えるわ」

「隠れなければ」


 その焦る様子に、隊長の娘はまどろんだ目を二度強く閉じ、無理やり意識を引き戻した。

 そうして頷くと二人は荷台から降りて、背を低くしてなるべく草の密度が高い場所を選び隠れた。


 ほどなくして遠目に見えていた騎乗の兵二名が近くを通る。

 兵は周囲に視線を巡らせながら、先へ進んでいく。


 近くで見て間違いなかった。

 あれは父の私兵だ。


 村を捜索する兵の視線は、人の隠れそうな草むらよりも、馬を繋いでいそうな場所や、駆け抜けた痕跡を追うように動いていた。


(……そうか、まだ私たちが馬で逃げていると思っているのね)


 侯爵邸から馬が一頭消えている以上、そう考えるのは当然だった。


 草陰越しにも、ふとした拍子に視線が合ってしまいそうで、心臓が喉元までせり上がる。


「……もう少しだけ、奥へ行きましょう」


 そう小さく告げると、カタリナは隊長の娘の腕を引き、さらに草の深い方へ身をずらした。

 こちらからは荷車が見える。だが向こうからは、背の高い草に遮られ見つけにくいはずだ。


 身を潜める方に注意を払っていると、思った以上に荷車との距離が開いていた。


 兵が遠ざかりさえすれば、すぐに戻れる。

 カタリナにとって今は見つからないことが最優先だった。


 隣で隠れる隊長の娘は、小さく肩を震わせている。

 カタリナはその様子を見て自分も不安になるが、しっかりせねばと奮い立たせた。

 暴れる心臓を押さえるように手を胸にもっていった。そのときに気が付く。


(鞄……荷台に置いてきてしまった……)


 やがて、行商人が馬を引いて戻ってきた。

 老人は二人がいない事にすぐに気が付いたようで、周囲を探している。

 しばらくすると腰へ手をあて溜息をこぼす。

 馬の水やりの前に話をしていた店の方を眺めた後、仕事の都合上待てないのか、御者台に腰を下ろすと手綱を取り、荷車を進ませた。


(置いていかれてしまう)


 それでも今出ていけば、まだそこら辺りをうろついている父の私兵に見つかってしまう。


 カタリナの喉から息が漏れるように「あぁ……」と(かす)れて出てきた。

 その声は風に揺れる草の(こす)れよりも小さく、行商人には届かない。

 荷車はどんどんと先に進み、やがて見えなくなってしまった。


(どうしよう……)


 父の記録も、金も、全部──失った。

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