第八十五話 抱えるもの
ヴァルディナ帝国——帝都イーゼンブルク。
城の敷地内にある軍区画。その中枢の元帥執政室。
帝国軍元帥アウグストが、机上で束になっている書類に目を通していた。
長年磨き込まれ、深い色艶を帯びた執務机は、歴代の元帥が使用してきたものだ。
アウグストの父もまた、この執務机で幾多の業務をこなしていた。
アイゼンブルク家は、ヴァルディナ帝国において代々軍の中枢を担う家系である。
元帥執政室へは、帝国内各地の軍務報告、物資、治安、地方貴族との折衝に関する上申が、絶え間なく届けられる。
そのひとつひとつを捌きながらも、アウグストの意識は幾度となく、帝国の東南へと向いていた。
現地の混乱を収めるために動いているジークフリートへ、さらにグローテハーフェンへの特使の任まで重ねられたことが、胸の奥に鈍く引っかかっていた。
あの時ジギスムント宰相が、グローテハーフェンへの特使の任務を提言した。
『ジークフリート少佐がこの問題を鎮められれば、その功績を理由に、地方貴族も納得出来ましょう——』
その帰結が、今ここにある。
アウグストがその時抱いた危惧は、的中する形となった。
ジークフリートの命はとられなかった。
だが、損失は小さくない。
無論、アウグストもただ手をこまねいていたわけではない。
ジギスムント宰相が提出した地方から寄せられた進言書の数々は、正式な記録として保管させた。
各書簡の到着日、差出人、使者の経路を洗い出し、宰相府から各地方へ向かった書簡の記録も当たらせている。
(幾日も経たぬうちに、あれだけ足並みの揃った声が集まるのは、自然ではあるまい)
(火種に息を吹きかけ、燃える向きを整えた者がいる)
その名を今さら口に出すまでもない。
ジギスムント宰相がアウグストを、ひいてはジークフリートを疎んじていることなど、今さら疑う余地もない。
新たな報告では、特使一行が持ち帰るはずであった会談の議事録と倉庫台帳が、いまだ見つかっていないという。
帝国の特使を襲ったうえ、持ち帰るべき文書まで失われた。
もはや偶発ではない。帝国に対する謀反の疑いとして扱うべきだ。
元帥府からも捜査の人員を派遣する必要がある。
加えて厄介なのが、帝国の顔たる特使の救命と搬送に、少数民族であるタラモンの民の手を借りている。
ジークフリートは恐らくその件も気にしているのだろう。
公式と私信でよこした書簡の違いからその心情を察する。
だが、元帥府へ上がった公式報告の時点で、ジークフリートはその経緯をすでに整理していた。
切迫した状況下における救命と搬送であり、タラモンの民の介入は疑義を差し挟む余地のない必然だった。
状況から見て、その判断は妥当だった。
アウグストは元帥として、その報告をそのまま承認し、元帥府名で達しを出している。
特使への襲撃は帝国そのものへの危害とみなし、その救命に与した者を咎め立てするならば、襲撃者の側に理があると認めるに等しい——と。
(この件で疑義を差し挟むなら、それは誰の側に立つものかと問える形で承認した)
(そう公に線を引いた以上、口を挟む度胸のある者はおるまい)
重箱の隅をつつく輩は、己の保身が最優先だ。
公の筋は、これで立つ。
そう結論づけたところで、アウグストの視線は机上の推薦状へ移った。
ジークフリートから届いた階級特進の推薦状は、すでに正式に受理した。
遺族への補償も、まもなく滞りなく進められるだろう。
机上に置かれたその文面へ視線を落とし、アウグストは静かに息を吐いた。
(左腕の開放骨折をしたと報告を受けたが……)
整った筆跡だった。
だが、ところどころ文字の末尾だけが、わずかに流れている。
平素のジークフリートなら出ない乱れだった。
だからこそ分かる。無理を押して書いたのだと。
ジークフリートは、自分の傷より先に部下の死を処理した。
守ると称してきた息子が、結局こういう形で責任を負う。
遺された者の痛みを、己の痛みより先に慮る。
そういう人間に育ったことを、誇らしく思う。
だが同時に、飲み下せぬ苦みが、胸の奥に残った。
ジークフリートが怪我をしたと報告が入った時、アウグストは肝を冷やした。
(私があの時……)
特使の任務をジギスムント宰相が言い出した時、止めることは出来た。
自分の権力を使えば、阻止することも不可能ではない。
だが、それで止めることが単純に守ることにはならない。
ジークフリートは皇帝陛下の血を持つ子。
だが、公にはされていない。
もしその血筋が必要となる日が来るなら、守られる存在なだけでは周囲も、なによりジークフリート自身が納得しないだろう。
今はアウグストの子として、ジークフリートは公に位置付けられている。
秘密が明かされず、必要が無ければ、そのまま公爵家の嫡子としてアウグストのあとを継ぐ。
アイゼンブルク家の血筋が皇帝陛下の血筋に置き換わるとしても、アウグストは過去の決断を守る方を選んだ。
後妻との間に生まれたコンラートがいる以上、すべてが断絶するわけでもない。
それでいい。そう考えていた。
だが、ジークフリートは以前、母の家名をアウグストへの報告書に明記した。
それは『俺はもう歪な親子関係を継続しない』という宣言のように思えた。
このままアイゼンブルク家の嫡子で居続けることを、拒むのかもしれない。
今までは、ジークフリートが己の血筋に気が付いても、お互い暗黙の了解で言わず、触れず、歪な親子で居続けることを選んでいた。
(私が言える立場でもない)
だが、ジークフリートが一人で抱え込もうとするものを、すべて背負わせるつもりはない。
アウグストは私信に用いる羊皮紙を引き寄せた。
報告受理。推薦状は直ちに処理した。
現場判断の責は問わせない。
後方は固める。養生せよ。
短く書き終えると、アウグストは静かに筆を置いた。




