第五話 ユウコ叔母さんの、鰻のご馳走、レシピ
第五話 ユウコ叔母さんの、鰻のご馳走、レシピ
スーパーの鮮魚売り場で、ジュンコは足を止めた。
うなぎの蒲焼き。
パックの上には、赤い値引きシールが貼られていた。
「……うなぎかあ」
矢崎ジュンコ、三十二歳。
うなぎは好きだ。
ただし、うなぎは、なかなかのお値段である。
給料日前というわけではないけれど、何も考えずに買い物かごへ入れられるほど、懐に余裕があるわけでもない。
ジュンコはパックを手に取った。
国産ではない。
大きさも、まあ、普通。
けれど、値引きシールのおかげで、今日は手が届く。
「よし。今日は、うなぎにしよう」
誰かの誕生日でもない。
特別な記念日でもない。
仕事で大きな成果を上げたわけでもなければ、誰かから褒められたわけでもない。
ただ、うなぎが食べたくなった。
それだけで、十分だった。
ジュンコはうなぎを買い物かごに入れた。
それから、ふと思い出した。
ユウコ叔母さんの、レシピノート。
あのノートには、パエリアの作り方も、トマト料理の作り方も書いてあった。
料理の手順だけではない。
材料の選び方や、ちょっとした工夫も、細かい字で書き込まれていた。
ジュンコは、うなぎを見つけたときから、ひとつ思い出していたことがある。
たしか、あれにも、うなぎの料理があった。
「帰ったら、見てみよう」
そう言って、ジュンコはレジへ向かった。
*
家に帰ると、ジュンコは手を洗い、買ってきたものを冷蔵庫にしまった。
うなぎは、消費期限と保存状態を確認して、使う分だけ取り出す。
それから、食器棚の横に置いてあるノートを手に取った。
表紙は、少し柔らかくなっている。
何度も開かれ、何度も閉じられたノート。
ページの端には、薄い茶色の染みがあった。
たぶん、醤油か何かだろう。
叔母さんらしいな、とジュンコは思った。
料理をしながら、何かをこぼしたのだろう。
きれいに使おうとしても、台所で使うノートは、どうしたって汚れる。
それだけ、使われてきたということだ。
ページをめくる。
煮物。
炊き込みご飯。
魚料理。
そして、見つけた。
「……あった」
うなぎの蒲焼きを使った、だし巻き卵。
ページの上には、叔母さんの字で、こう書かれていた。
『鰻のご馳走』
ジュンコは、思わず笑った。
うなぎの蒲焼きを、卵焼きに入れる。
たしかに、ちょっとしたご馳走だ。
けれど、叔母さんは、その下に、いくつもの細かな注意を書いていた。
うなぎは、緑茶で臭みを取ること。
冷たいうちから煮ること。
煮すぎないこと。
タレと山椒を絡めてから、卵で巻くこと。
そして、最後に。
『余った鰻は、茶漬けにすること。わさびを忘れない』
ジュンコは声を立てて笑った。
「叔母さん、そこまで書く?」
けれど、ありがたい。
こういうところが、ユウコ叔母さんだった。
料理の最後まで、ちゃんと考えている。
一品を作って終わりではない。
余ったものをどう食べるかまで、きちんと決めている。
しかも、わさびを忘れるな、である。
ジュンコは、ノートを台所の脇に置いた。
「はいはい。わさびね」
誰も聞いていないのに、返事をした。
*
まずは、うなぎの準備だ。
ジュンコは小鍋に市販の緑茶を注ぎ、うなぎを入れた。
冷たいうちから火にかける。
沸騰させたまま長く煮るのではなく、温まってきたところで様子を見る。
一分ほど。
うなぎの蒲焼きに残っていた独特の臭いが、少し和らいでいく。
ジュンコは火を止め、うなぎを取り出した。
「よし」
水気を軽く切り、食べやすい大きさに刻む。
それから、付属のタレを絡め、粉山椒を振った。
甘辛いタレの匂いが、台所に広がる。
この時点で、もう、ご飯が欲しくなった。
「いやいや。まだ、卵焼きがあるから」
自分に言い聞かせる。
卵を三個、ボウルに割り入れた。
箸で溶き、少しのだし汁を加える。
卵液を混ぜながら、ジュンコは叔母さんのノートを見た。
分量は、きっちり書いてある。
けれど、その横に、小さな字で付け足されていた。
『鰻の味が濃いときは、卵に塩を入れすぎない』
「なるほどねえ」
料理というものは、レシピどおりに作れば必ず同じ味になる、というわけでもない。
うなぎのタレの量も違えば、卵の大きさも違う。
その日の材料を見ながら、少しずつ調整する。
叔母さんは、そういうことを、わざわざノートに残してくれていた。
ジュンコは卵焼き器に油を引き、火をつけた。
卵液を少し流す。
表面が半熟になったところで、刻んだうなぎを中央に置く。
それを芯にして、ゆっくり巻いた。
卵を追加し、また巻く。
焦らない。
急がない。
卵焼きは、慌てると、だいたい失敗する。
ジュンコは、少しずつ形を整えていった。
最後に火を弱め、全体に火を通す。
卵焼き器から取り出すと、ふっくらとした黄色い卵の中に、茶色いうなぎが見えた。
「おお」
思わず声が出た。
見た目も、なかなかいい。
切ってみると、うなぎが卵の中にきれいに収まっていた。
タレの甘い香り。
山椒の、ほんの少し鼻に抜ける香り。
卵の、やわらかい匂い。
ジュンコは、満足した。
「これは、いけるんじゃない?」
*
食卓には、ウナ玉を並べた皿。
小さな器に入れたわさび。
それから、米焼酎。
ジュンコは、焼酎をグラスに注いだ。
うなぎの蒲焼きに、米焼酎。
そこへ、だし巻き卵。
旅館の夕食でもなければ、料亭の料理でもない。
自宅の食卓である。
けれど、ジュンコにとっては、十分にご馳走だった。
まずは、米焼酎をひと口。
すっきりした味わいが、口の中に広がる。
それから、ウナ玉をひと切れ。
卵のやさしい味のあとに、うなぎのタレの甘辛さが来る。
山椒の香りも、ちゃんと残っている。
ジュンコは、ゆっくり噛んだ。
「……おいしい」
思っていたより、おいしかった。
うなぎをそのまま食べるのとは、また違う。
卵がうなぎの味を包み込んで、ひとつの料理にしている。
しかも、見切り品のうなぎが、ちゃんとご馳走になっている。
ジュンコは、もうひと切れ食べた。
今度は、焼酎を飲んでから。
それから、もうひと切れ。
「うん。これ、いいな」
誰に気兼ねすることもない。
誰かの好みに合わせる必要もない。
自分が食べたいと思ったものを、自分で作った。
それだけのことなのに、なんだか気分がよかった。
三十二歳。
仕事もある。
友達もいる。
お母さんも、叔父さんもいる。
それぞれに心配事はあるし、これからどうなるか分からないこともある。
それでも、今日の夕食は、おいしい。
その事実は、誰にも取り上げられない。
ジュンコは、グラスを置いた。
「叔母さん」
ノートの置いてある台所のほうを見た。
「これ、おいしいよ」
もちろん、返事はない。
けれど、返事がないからといって、話しかけてはいけないわけでもない。
ジュンコは、もう一度、ウナ玉を食べた。
*
ウナ玉を食べ終えるころには、皿の上に、刻んだうなぎが少し残っていた。
最初から、茶漬けの分を残しておいたのだ。
ジュンコは立ち上がり、台所へ向かった。
ご飯を茶碗によそう。
残しておいたうなぎを載せる。
そこに、わさびを少し。
鍋で温めておいた出汁を、ゆっくり注いだ。
湯気が立つ。
うなぎのタレが、出汁に溶けていく。
わさびの香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「よし」
ジュンコは茶碗を持って、食卓に戻った。
ひと口、すする。
出汁のやさしい味。
うなぎの甘辛いタレ。
わさびの、すっとした辛み。
それぞれが混ざり合って、さっきまでのウナ玉とは、また違う味になっていた。
「……ああ、これもおいしい」
ジュンコは、ゆっくり食べた。
うなぎを買ってきたときには、まさか、こんな夕食になるとは思っていなかった。
ただ、値引きシールが貼ってあったから。
食べたかったから。
それだけだった。
けれど、叔母さんのノートを開いたおかげで、ウナ玉ができた。
余ったうなぎで、お茶漬けまで食べられた。
一つの材料から、二つの楽しみが生まれた。
ジュンコは、最後のひと口を食べた。
それから、満足して、箸を置いた。
*
食器を洗い、台所を片づける。
ユウコ叔母さんのレシピノートは、元の場所に戻した。
けれど、ジュンコは、すぐには離れなかった。
もう一度、ノートを開く。
『鰻のご馳走』
その文字を、指先でなぞった。
叔母さんが、どんな気持ちで、このレシピを書いたのかは分からない。
誰かに食べさせるつもりだったのか。
自分で食べるためだったのか。
あるいは、たまたま、おいしくできたから、忘れないように書いておいたのか。
それは、もう、聞けない。
けれど、ジュンコは今日、そのレシピを使った。
叔母さんが残したものは、ノートの中に書かれた文字だけではなかった。
料理を作ること。
おいしく食べること。
余ったものまで、きちんと楽しむこと。
そういう小さな工夫が、今も、ジュンコの台所で役に立っている。
「叔母さん、ありがとう」
ジュンコはノートを閉じた。
それから、冷蔵庫を開け、明日の朝に食べるものを確かめた。
ヨーグルトがある。
卵もある。
トマトも、まだ残っている。
明日は、何を食べよう。
そんなことを考えながら、ジュンコは冷蔵庫を閉めた。
明日も、仕事がある。
面倒なことも、きっとある。
思いどおりにならないことだって、あるだろう。
それでも、明日の朝ご飯は、自分で用意できる。
食べたいものを考えて、材料を選んで、作って、食べる。
誰かと一緒に食べる日もあれば、一人で食べる日もある。
どちらも、悪くない。
ジュンコは、台所の明かりを消した。
おいしいものは、元気にしてくれる。
それは、叔母さんから教わったことだった。
そして今は、ジュンコ自身も、そう信じている。
美味しいゴハンは、心を元気にできるって、信じてる。




