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『美味しいゴハンは、心を元気にできるって、信じてる。』  作者: 東曌


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第四話 サーモンとほうれん草のキッシュ

第四話 サーモンとほうれん草のキッシュ



スマートフォンが鳴ったのは、木曜日の午後だった。


ジュンコは、買ってきたヨーグルトを冷蔵庫にしまい、賞味期限の切れたドレッシングを一本、ゴミ箱に放り込んだところだった。


画面に、懐かしい名前が表示されている。


冴木マナ。


元の職場で一緒に働いていた友人だ。


LINEを開く。


『ジュンコ、久しぶり。突然ごめんね。実は、離婚しました』


ジュンコは、空き瓶を持ったまま画面を見た。


続きがあるのかと思ったけれど、メッセージはそれだけだった。


少しして、もう一通届いた。


『もし時間があったら、今度会えないかな』


ジュンコは瓶をゴミ箱に入れ、手を洗った。


それから、返信した。


『会おうよ。いつがいい?』


すぐに返事が来た。


『来週の土曜日は?』


『大丈夫。うちに来る? なんか作るよ』


『行く! ありがとう』


最後に、泣いている顔のスタンプが一つ届いた。


ジュンコはそれを見て、スマートフォンを置いた。


離婚。


その二文字だけでは、何もわからない。


夫婦の仲が悪かったのか。何か決定的なことがあったのか。マナから別れを切り出したのか、それとも相手からだったのか。


聞きたいことはいくらでもあった。


でも、LINEで問い詰めるようなことはしたくなかった。


会ってから聞けばいい。


そう思って、いったん忘れることにした。


……忘れたつもりだった。


     *


土曜日の午後、ジュンコは近所のスーパーへ買い物に出かけた。


ほうれん草、サーモン、卵、生クリーム、チーズ。


今夜は、ほうれん草とサーモンのキッシュにする。


マナが好きだったからだ。


元の職場の近くに、少し値段の高いカフェがあった。マナはそこのキッシュが好きで、給料日のあとになると、よくジュンコを誘った。


「今日は私のおごり。給料日だから」


「給料日前には来ないの?」


「給料日前に贅沢すると、心が貧しくなるから」


「給料日あとなら?」


「心が豊かになる」


「便利な心だね」


そんな話をしながら、二人でキッシュを食べた。


マナは、食べ物の好き嫌いがはっきりしていた。おいしいものには素直に喜び、いまひとつのものには、店の人に聞こえない程度の声で、きちんと文句を言った。


「この値段で、この味はないよね」


「じゃあ、もう来なきゃいいじゃん」


「でも、キッシュはおいしいから」


結局、次の給料日にも二人で行った。


ジュンコはサーモンをカゴに入れた。


それから、生ハムとブラックオリーブを選ぶ。


ワイン売り場では、少し考えた。


白のハウスワインを一本。


それから、白のスパークリングワインも一本。


二本も必要だろうか。


まあ、いい。


話が弾めば、飲むだろう。


話が弾まなくても、飲めばいい。


どちらにしても、ワインはあって困るものではなかった。


     *


土曜日の午後五時少し前、インターホンが鳴った。


ドアを開けると、マナが立っていた。


「久しぶり」


「久しぶり。入って」


マナの髪は、以前より少し明るい色になっていた。長さは変わっていないけれど、ゆるいパーマがかかっている。


「髪、染めた?」


「うん。パーマもかけた」


「いいじゃん。似合ってる」


「でしょ。美容師さんにも言われた」


「自分で言うんだ」


「いいじゃない。褒められたんだから」


マナは笑いながら靴を脱いだ。


「なんか、気分変えたくてさ」


「うん」


「髪を切るほどの決心はなかったけど、色くらい変えてもいいかなって」


「色くらいって、けっこう変わってるよ」


「そう? じゃあ成功だね」


マナはそう言って、いつものように家に上がった。


ジュンコは、彼女の顔をちらりと見た。


笑っている。


けれど、以前とまったく同じ笑い方かと聞かれたら、よくわからなかった。


「とりあえず座ってて。飲み物、出すから」


「お茶?」


「ワイン」


「えっ」


「白。あと、スパークリングもあるよ」


マナが目を丸くした。


「ちょっと、私、離婚した人なんだけど」


「知ってる。LINEで読んだ」


「そうじゃなくて。お祝いみたいじゃない?」


「お祝いじゃないよ。飲みたいだけ」


「……ジュンコ、変わらないね」


「そう?」


「そういうところ、昔から好きだった」


ジュンコは、スパークリングワインの栓を抜いた。


乾いた音がして、二人で顔を見合わせる。


「はい、お疲れさま」


「何に対して?」


「知らない。いろいろ」


グラスを合わせた。


マナは一口飲んで、ほっと息を吐いた。


「おいしい」


「でしょ」


ジュンコはテーブルに、ブラックオリーブと生ハムを並べた。クラッカーも添える。


「これ、先に食べてて。キッシュは焼いてるところだから」


「キッシュ?」


「ほうれん草とサーモン」


マナの手が止まった。


「……覚えてたの?」


「何を?」


「私が好きだったやつ」


「覚えてるよ。給料日あとに、よく食べてたじゃん」


マナは、グラスを持ったまま少し黙った。


「そっか」


それから、ブラックオリーブを一つつまんだ。


「おいしいね、これ」


「でしょ。生ハムも食べて」


「いただきます」


しばらくは、職場にいた頃の話をした。


辞めた人の近況。変わってしまった上司。相変わらず忙しいらしい元の部署。


「あの人、まだいるの?」


「いるらしいよ」


「うそでしょ。私たちがいた頃から、何年経ってると思ってるの」


「本人は、まだ若手のつもりなんじゃない?」


「怖い。時間って残酷ね」


「マナも、そんなこと言うようになったんだ」


「失礼ね。私は昔から現実的なの」


「そうだっけ?」


「そうです」


マナは生ハムを食べ、ワインを飲んだ。


そして、グラスをテーブルに置いた。


「ねえ、ジュンコ」


「うん?」


「私、離婚したんだよね」


「うん。LINEで読んだ」


「そりゃそうだよね」


マナは笑った。


笑ったまま、言った。


「旦那に浮気された」


ジュンコは、手にしていたグラスを置いた。


「……そうなんだ」


「うん。相手、若い女」


マナは、スパークリングワインをもう一口飲んだ。


「二十六歳」


「若いね」


「若いでしょ。私、三十八」


「十二歳差か」


「そう。数字にすると、ますます腹が立つ」


マナは生ハムを一枚取った。


「最初は、仕事が忙しいんだと思ってた。帰りが遅くなっても、疲れてるんだと思ってた。スマホを手放さなくなっても、最近はみんなそうなのかなって」


「うん」


「私、けっこう信じてたんだよね」


「信じてたんでしょ」


「そうだけど」


「信じてたことと、馬鹿だったことは、別じゃない?」


マナは、しばらくジュンコを見た。


「……そういうこと、もっと早く言ってよ」


「今、初めて聞いたんだから」


「そうだった」


二人は笑った。


マナは、少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「でもね。浮気がわかってから、何が一番嫌だったと思う?」


「何だろう」


「私、あの人のために、ずいぶんいろんなことを我慢してたんだなって気づいたこと」


ジュンコは黙って聞いた。


「食べたいものも、行きたいところも、会いたい友達も。禁止されてたわけじゃないんだよ。私が勝手に、今はやめておこうとか、あの人が嫌がるからとか、考えてただけ」


「うん」


「それで、最後に残ったのが、浮気した夫と、我慢してた私って。何それ、って思わない?」


「思う」


ジュンコは即答した。


「何それ、だよね」


「ほんとに」


マナは声を立てて笑った。


「もう、腹立つ。私、何年やってたんだろう」


「何年?」


「結婚して十二年」


「長いね」


「長いよ。十二年だよ。小学校に入学した子が、中学生になるんだよ」


「急に学校で換算しないで」


「だって、そうじゃん!」


また笑った。


ジュンコは、グラスを持ち上げた。


「飲もう」


「飲もう」


二人はワインを飲んだ。


     *


キッシュの焼き上がりを知らせるタイマーが鳴った。


ジュンコは立ち上がった。


「ちょっと待って。これだけは焦がしたくない」


「男の話は?」


「続けていいけど、オーブンは私に任せて」


「了解」


オーブンを開けると、ほうれん草とサーモン、チーズの焼けた匂いが広がった。


表面はこんがりと色づいている。


ジュンコは竹串を刺して、火の通りを確かめた。


よし。


オーブンから取り出し、少し休ませる。


背後から、マナの声がした。


「ねえ、ジュンコ」


「なに?」


「ジュンコは、どうなの?」


ジュンコはキッシュを見下ろした。


「何が?」


「男」


「ああ……」


ジュンコはオーブンミトンを外した。


「私も、浮気された」


マナが椅子から身を乗り出した。


「えっ!」


「三年付き合ってた人がいてね」


「ちょっと待って。聞いてない!」


「言ってないからね」


「何それ! いつの話?」


「つい最近」


「ええっ、ちょっと、何それ! 私だけじゃないの?」


「私だけじゃないって、どういう意味よ」


「いや、そうじゃなくて!」


マナは両手で頭を抱えた。


「何なの、私たち。二人して若い女にやられてるの?」


「やられてるって言い方」


「だって!」


ジュンコはキッシュをテーブルに運んだ。


「私のところは、二十四歳」


マナが、ぽかんと口を開けた。


「……負けた」


「何に勝負してるのよ!」


「二十四って、何。私のところより二歳も若いじゃない」


「そこ、競うところ?」


「競うところじゃないけど、負けた気がする!」


ジュンコは吹き出した。


マナも笑った。


二人とも、笑いながら、少しだけ目が潤んでいた。


ジュンコはキッシュを切り分けた。


断面に、サーモンの淡いピンクと、ほうれん草の緑が見える。


「はい、どうぞ」


マナはフォークを持った。


「いただきます」


一口食べる。


少しして、彼女は目を丸くした。


「……これ」


「うん?」


「あの店のよりおいしい」


「それは言いすぎ」


「言いすぎじゃない。ほんとにおいしい」


「じゃあ、よかった」


マナはもう一口食べた。


「ねえ、私、今度からこういうの、自分で食べに行くことにする」


「うん」


「夫が嫌がるとか、そういうの関係なく」


「そうだね」


「一人でも行く。友達とも行く。好きなもの食べる」


「いいじゃん」


マナはキッシュを見つめた。


「……なんか、自分で言ってて、当たり前すぎて笑えるね」


「当たり前のことって、案外、忘れるからね」


ジュンコは自分の皿にもキッシュを取った。


マナは、白ワインを注いだ。


スパークリングワインは、もう残り少ない。


テーブルには、ブラックオリーブの種と、生ハムの空いた皿がある。キッシュはまだ半分残っていた。


話は、まだ終わりそうになかった。


マナは夫のことを、出会った頃から話し始めた。結婚式のこと、初めて二人で暮らした部屋のこと、楽しかった旅行のこと。浮気がわかった日のこと。そして、離婚届を書いたときのこと。


ジュンコも、直人のことを話した。


最初の頃は楽しかった。二人で出かけるのも、食事をするのも。けれど、いつからか、会うことそのものが予定表の一項目になっていた。


好きだったはずなのに、別れを決めたとき、思っていたほど悲しくなかったこと。


それでも、若い女のことを聞いたときには、腹が立ったこと。


「だってさ、私、三十二だよ。まだ三十二だよ?」


「そうだよ!」


「なのに、二十四って」


「若いねえ!」


「若いよねえ!」


二人はまた笑った。


笑って、食べて、飲んだ。


どちらかが正しいことを言う必要はなかった。相手を励ますために、立派な言葉を探す必要もなかった。


ただ、話を聞いて、腹が立ったら一緒に腹を立てて、笑えるところでは笑った。


気づけば、窓の外は暗くなっていた。


マナが最後の一切れを食べ終えた。


「ごちそうさま」


「お粗末さま」


「ねえ、ジュンコ」


「うん?」


「今日、来てよかった」


ジュンコは、空になった皿を見た。


「私も。キッシュ、作ってよかった」


「また来ていい?」


「いいよ。今度は何が食べたい?」


マナは少し考えた。


「……給料日あとに、またキッシュ」


「給料日前は?」


「心が貧しくなるから」


ジュンコは吹き出した。


「まだ言ってる!」


マナも笑った。


笑いながら、彼女はグラスを持ち上げた。


「じゃあ、次は私が何か持ってくる」


「何?」


「考えとく。とびきりおいしいもの」


「期待してる」


グラスが、軽く触れ合った。


離婚の話は、終わっていない。


ジュンコの恋愛だって、きれいに片づいたわけではない。


けれど、今夜のテーブルには、食べ終えた皿と、空になったワインボトルと、二人分の笑い声があった。


それで、今夜は十分だった。


明日のことは、明日考えればいい。


キッシュは、少しだけ残っている。


ジュンコはそれを冷蔵庫にしまった。


明日、温め直して食べよう。


そう思いながら、空になったワイングラスを二つ、流しに運んだ。



今回のキッシュは、ほうれん草とサーモンに、ゴーダチーズを合わせました。


卵液には、生クリームと卵だけでなく、刻んだディルも加えています。ディルの爽やかな香りと風味は、サーモンとよく合うんですよね。


チーズのコクに、ハーブの香り。

焼き上がると、表面はこんがり、中はふんわり。


白ワインにも、スパークリングワインにもよく合います。


ジュンコとマナは、キッシュが焼き上がる前から、ずいぶん話が弾んでしまいましたが(笑)。


おいしいものを食べながら、言いたいことを言える相手がいる。


それは、なかなか贅沢なことなのかもしれません。


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