第三話 ずっと大好きな味 - トマトだらけの食卓
第三話 ずっと大好きな味 - トマトだらけの食卓
ジュンコは、スーパーの野菜売り場で足を止めた。
トマトが並んでいる。
赤い。丸い。つやつやしている。
大きいのもあれば、小さいのもある。少し形のいびつなものまで、どれもおいしそうだった。
「……トマト、食べたい」
思わず口に出た。
誰に聞かせるつもりもなかったが、言ってしまったものは仕方がない。
ジュンコは大きめのトマトを四つ、買い物かごに入れた。
今日は、トマトのファルシェを作る。
叔母のレシピ帳にあった料理ではない。自分で考えた料理だ。
市販のミートソースを使い、すりおろしたレンコンと高野豆腐パウダーを加える。オレガノ、パセリ、パプリカパウダー、ナツメグパウダーも入れて、少し濃いめに煮詰める。
トマトを器にして、そこへ詰めるのだ。
そして、くり抜いたトマトの中身は捨てない。
トマトと卵のとろみコンソメスープにする。
トマトを買った時点で、食卓がトマトだらけになることは決定していた。
ジュンコは、それでよかった。
なにしろ、自分もトマトが大好きなのだ。
母のまゆこも、トマトが大好きだった。
昔から、食卓にトマトが出ると、二人で競うように食べた。
「ジュンコ、最後の一個、食べたでしょう」
「お母さんだって、昨日、私の分まで食べたじゃない」
「昨日は昨日」
「便利な言葉だねえ」
そんな会話を、何度しただろう。
今となっては、どうでもいいようなことばかり覚えている。
ジュンコはトマトをかごの中で転がらないように置き直した。
「よし。今日は、トマトの日」
それから、クスクスとチーズも買った。
*
家に帰ると、ジュンコはすぐに台所に立った。
まず、市販のミートソースを鍋に入れる。
そこへ、すりおろしたレンコンを加える。レンコンは、あらかじめ水気をしっかり切っておいた。
高野豆腐パウダーも加える。
オレガノ、パセリ、パプリカパウダー、ナツメグパウダー。
少しずつ加えながら、味と香りを整えていく。
火にかけて、混ぜる。
水分が飛び、トマトに詰められるくらいの濃さになるまで、ゆっくり煮詰めた。
「うん。いい感じ」
ジュンコは味見をした。
市販のミートソースなのに、香りがぐっと豊かになっている。レンコンのすりおろしが、ソースをまとめてくれていた。
こういう料理は、便利でいい。
全部を一から作ることだけが、料理ではない。
使えるものは使う。足したいものを足す。自分がおいしいと思える味にする。
それで十分だ。
次は、トマトをくり抜く。
上部を切り落とし、スプーンを差し込んだ。
果肉を傷つけないように、少しずつ中身を取り出す。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
四つ。
トマトの器が、台所に並んだ。
くり抜いた中身はボウルに取ってある。
「あなたたちも、ちゃんと働いてもらいますからね」
ジュンコはボウルに向かって宣言した。
トマトの中身に返事を期待するほど、まだ疲れてはいない。
たぶん。
鍋のミートソースをトマトに詰める。
耐熱皿には、茹でたクスクスを敷いた。
その上に、ミートソースを詰めたトマトを並べる。タイムをのせて、アルミホイルをかぶせる。
オーブンは百八十度。
まず二十分。
そのあと、アルミホイルを外し、チーズをのせて、さらに十分。
チーズにこんがりと焼き色がついたら完成だ。
「さて。あとはオーブンに任せましょう」
ジュンコは手を洗い、今度はスープに取りかかった。
鍋に、くり抜いたトマトの中身と水、コンソメを入れる。
火にかけて、トマトがスープになじむまで煮る。
塩とこしょうで味を整えたら、コーンスターチを水で溶き、少しずつ加えた。
混ぜながら、とろみをつける。
最後に、溶き卵を細く流し入れた。
卵がふわりと広がる。
火を止めて、仕上げにパセリをちらす。
「よし。無駄なし」
ジュンコは満足した。
トマトの器にはミートソース。
くり抜いた中身はスープ。
そして、トマトの下にはクスクス。
なかなか、いい献立ではないか。
ただし、ひとつ問題がある。
食卓が、トマトだらけなのだ。
「……まあ、いいか」
好きなのだから、仕方がない。
*
オーブンから、チーズの焼ける香りが漂ってきた。
ジュンコは台所に戻り、アルミホイルを外した耐熱皿を確認した。
トマトの表面が柔らかくなり、チーズには、ところどころ茶色い焼き色がついている。
具の中心まで十分に熱くなっていることを確かめて、オーブンから取り出した。
「できた!」
自分で作った料理なのに、声が出た。
こういう瞬間が好きだ。
鍋の中にあったものが、皿の上で料理になる。
しかも、いい匂いがする。
ジュンコはファルシェを食卓に運び、スープも器によそった。
写真を一枚撮る。
赤いトマト。焼けたチーズ。緑のタイム。
横には、卵の黄色が浮かぶコンソメスープ。
「うん。これは、おいしそう」
自分で言う。
料理は、食べる前から楽しい。
ジュンコはスマートフォンを置いた。
今日は、母のところへ持っていく。
*
まゆこは、寝室のベッドに横になっていた。
妹のユウコが亡くなってから、家の中の時間が変わってしまった。
起きる。食べる。眠る。
以前なら何でもなかったことが、ひどく遠く感じられる日がある。
妹は、もういない。
その事実は、朝になっても、昼になっても、消えなかった。
まゆこは、布団の端をつまんだ。
自分より先に、妹がいなくなるなんて思わなかった。
何度考えても、納得できる答えは出なかった。
そんなとき、ドアの向こうから声がした。
「お母さん、入るよ」
「……うん」
ジュンコが、トレーを持って入ってきた。
「はい。お昼ご飯」
「何?」
「トマト」
まゆこは、娘の顔を見た。
「……トマト?」
「トマトのファルシェ。あと、トマトと卵のコンソメスープ」
「トマトばっかりじゃない」
「だって、お母さん、トマト好きでしょ」
「好きだけど」
「私も好き」
「知ってるわよ」
まゆこは、ほんの少し笑った。
ジュンコも笑った。
「じゃあ、問題ないね」
「そういう問題なの?」
「そういう問題です」
ジュンコはトレーをベッド脇のテーブルに置いた。
母が食べやすいように、ファルシェを少し切り分ける。スープの器も、手の届くところに置いた。
「熱いから、気をつけてね」
「はいはい」
「はいは一回」
「あなた、いつからそんなに偉くなったの?」
「三十二歳ですから」
「年齢は関係ないでしょう」
いつもの調子で言い返されて、ジュンコは嬉しくなった。
母は、まだ母だった。
当たり前のことなのに、今はそれがありがたかった。
まゆこは、スプーンを手に取った。
まず、ファルシェをひと口食べる。
柔らかくなったトマトの酸味と、ミートソースのうまみ。チーズの香ばしさが重なっている。
まゆこは、もうひと口食べた。
「……おいしいね」
ジュンコは、すぐに答えた。
「でしょ?」
まゆこは、娘を見た。
「あなたも食べたの?」
「まだ」
「じゃあ、一緒に食べればいいじゃない」
「え?」
「作った人が食べないで、どうするの」
ジュンコは一瞬、言葉に詰まった。
母は、もう一度スプーンを動かした。
「冷めるわよ」
「……はいはい」
ジュンコは、もうひとつ持ってきた器にファルシェを取り分けた。
スープも自分の分をよそって、ベッド脇の椅子に座った。
二人で食べる。
まゆこがスープをひと口飲んだ。
「これも、いいね。とろみがあって」
「コーンスターチでつけたの」
「へえ」
「トマトの中身、捨てるのもったいないじゃない」
「そうね」
まゆこは、スープをもうひと口飲んだ。
ジュンコも飲んだ。
トマトの酸味が、卵のまろやかさに包まれている。
「おいしいね」
今度は、まゆこが言った。
「うん。おいしい」
ジュンコは、笑った。
それから、二人とも、しばらく黙って食べた。
無理に話をしなくてもよかった。
妹を亡くした悲しみが消えたわけではない。
まゆこが明日から元気に起き上がれるようになるかどうかも、わからない。
それでも、今は二人で食べている。
母が好きなトマトを、娘が作った料理で。
ジュンコは、皿の上のチーズをフォークで集めた。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「次は、何が食べたい?」
まゆこは、少し考えた。
「……また、トマトでもいいわよ」
「えっ。また?」
「だって、好きなんだもの」
ジュンコは声を立てて笑った。
「わかった。じゃあ、次はトマトの違う料理ね」
「あなたも好きでしょう?」
「大好き」
「じゃあ、決まり」
まゆこは、残っていたファルシェを食べた。
ジュンコも、自分の皿をきれいにした。
食卓には、空になった皿と、スープの器が残った。
ジュンコはそれを見て、満足した。
今日は、トマトを四つ買ってよかった。
母も、自分も、おいしく食べられた。
それで、十分だった。
「ねえ、ジュンコ。これ、なんか違うね」
「……え?」
母の言葉に、ジュンコは手を止めた。
「おいしいんだけどね。なんか、こう……もうちょっと、違う感じがするのよ」
「お母さん、食べてから言う?」
「食べたから言ってるの」
ごもっともである。
ジュンコは叔母さんのレシピノートを取り出し、トマト・ファルシのページを開いた。
材料を見直す。手順を見直す。オレガノ、パセリ、パプリカ、ナツメグ。
「全部入れたと思うんだけどなあ……」
ページの隅まで目を走らせた、そのとき。
小さな文字が目に入った。
――クミンパウダー。
「……あ」
「なに?」
「クミン。入れ忘れた」
母がノートをのぞき込む。
「それじゃない? なんか違うっていうの」
「たぶん、そう」
「叔母さん、ちゃんと書いてくれてるじゃない」
「ほんとだね。こんな小さく書かれたら、見落とすよ」
「人のせいにしないの」
「はいはい」
ジュンコはノートを閉じた。
せっかく叔母さんが残してくれたレシピなのに、肝心なところを見落とすとは。
「まあ、仕方ないね」
母が言った。
「次は忘れなきゃいいんでしょ」
「そうだね。次はちゃんと入れよう」
二人は顔を見合わせて、笑った。
トマトは、今日もおいしかった。
ただし、次回はクミン入り。
レシピノートを読むところから、料理は始まるらしい。




