第二話 フライパンがチリチリと言ったら
第二話 フライパンがチリチリと言ったら
冷凍のシーフードミックスを、冷凍庫から取り出した。
ジュンコは袋を眺めた。
「さて。あなたたちを、どうやっておいしくしてやろうか」
エビ、イカ、アサリ。
袋の中では、三種類の魚介が仲良く凍っている。
仲がいいのは結構だが、解凍すると水が出る。ここで雑に扱うと、せっかくのパエリアが水っぽくなる。
ジュンコはシーフードミックスを解凍し、キッチンペーパーで水気を丁寧に拭いた。
それからボウルに入れ、牛乳を注ぐ。
叔母のレシピ帳には、こう書いてあった。
『魚介は牛乳に十分ほど浸す。さっと洗って、水気を切る』
なぜ牛乳なのか。
ジュンコは、以前どこかで聞いた気もしたが、今は考えないことにした。レシピ帳に書いてあるのだから、まずは書いてあるとおりにやってみる。
料理には、考えるべきことと、考えなくてもいいことがある。
牛乳に浸している十分間に、ほかの準備を始めた。
鶏肉を食べやすい大きさに切る。赤と黄色のパプリカも切っておく。米は洗わず、そのまま使う。
ニンニクは包丁の背で軽くつぶす。
みじん切りにはしない。
叔母の字で、ニンニクの横に小さく書き添えてあった。
『つぶすだけ。焦がさないこと』
「はいはい。焦がしませんよ」
誰に返事をしているのか、自分でもわからなかった。
十分たった魚介をさっと洗い、水気を切る。
フライパンに魚介を入れ、白ワインを注ぎ、タイムを加えた。蓋をして、六分ほど蒸す。
魚介は火が通ったら、いったん取り出す。
フライパンに残った蒸し汁は捨てない。
ジュンコは小さな器に移しながら、思わずにんまりした。
「これ、捨てたらもったいないやつだ」
魚介のうまみが、白ワインと一緒になっている。
この汁を、あとで米に吸わせるのだ。
料理というのは、こういうところが面白い。
ひとつの材料を使い切るだけで、次の味につながっていく。
さて、次はガーリックオイルだ。
フライパンにオリーブオイルを入れ、つぶしたニンニクと鷹の爪を加える。
火にかけると、じわじわと香りが立ってきた。
ニンニクが色づき始めたところで、ニンニクと鷹の爪を取り出す。
そのまま入れておくと焦げてしまうからだ。
「よし。ここまでは順調」
ジュンコは、鶏肉をフライパンに入れた。
じゅうっ、と音がする。
いい音だ。
鶏肉の表面に焼き色がついたら、米を加える。オリーブオイルを米の一粒一粒になじませるように、全体を混ぜた。
米が油をまとって、少しずつ透き通っていく。
ここへ、サフランの色を移した水を注ぐ。
続けて、塩、こしょう、白ワイン、先ほど取っておいた魚介の蒸し汁。
月桂樹の葉、ローズマリー、タイムも加えた。
台所に、いろいろな香りが広がる。
サフランの独特な香り。ハーブの清々しさ。白ワインと魚介のうまみ。
ジュンコは鼻をひくひくさせた。
「うん。これは、いいぞ」
蓋をして、火にかける。
ここからが、叔母のレシピの本番だった。
レシピ帳には、加熱時間も書いてある。
けれど、その下に、わざわざ別の一文が添えられていた。
『フライパンがチリチリと言い出したら、弱火にする』
ジュンコは、その一文をもう一度読んだ。
時間だけを見ていればいいわけではない。
フライパンの音を聞く。
米が水分を吸い、底のほうで水気が少なくなってくると、音が変わる。
それを聞き逃さない。
ジュンコは時計を見ながら、火加減に気を配った。
最初の十五分ほどは、焦らず待つ。
途中で何度も蓋を開けたくなるが、そこは我慢した。
料理をしていると、つい、何かしていたくなる。
混ぜたり、動かしたり、蓋を開けたり。
でも、今は米に任せる時間だ。
「……私って、待つのが苦手だったっけ」
自分に問いかけてみる。
答えは出なかった。
やがて、フライパンの中から、かすかな音が聞こえ始めた。
チリ、チリ。
ジュンコは手を止めた。
チリチリ。
「あ、これか」
火を弱める。
そのまま、さらに十分ほど加熱する。
蓋の向こうで、米が仕上がっていく。
ジュンコは、もう一度だけ時計を確認した。
時間がきたら、火を止める。
蓋を開けて、しばらく蒸らす。
ここで、すぐに食べたい気持ちを抑えるのが、なかなか難しい。
だが、焦ってはいけない。
ジュンコは赤と黄色のパプリカを耐熱容器に入れ、軽く塩を振って電子レンジで加熱した。
蒸らし終えたパエリアに、魚介を戻す。
色鮮やかなパプリカを散らし、タイムを添える。
フライパンの中に、黄色い米と、赤や黄色のパプリカ、エビやイカが並んだ。
見た目は、なかなかいい。
いや、かなりいい。
ジュンコはスマートフォンを手に取った。
写真を撮る。
画面の中のパエリアは、思った以上に華やかだった。
「……叔母さん、これ、結構いいんじゃない?」
返事はない。
ジュンコはスマートフォンを置いた。
写真を送ろうと思った相手が、もういない。
その事実に、ほんの一瞬、指が止まった。
けれど、パエリアはできあがっている。
食べなければ、冷めてしまう。
ジュンコはフライパンに蓋をし、車の鍵を手に取った。
叔父のマコトに、食べてもらおう。
そう決めていた。
*
「……おお」
マコトは、玄関先でフライパンを見て声を上げた。
「パエリアか」
「そう。叔母さんのレシピ帳にあったの」
ジュンコは、少しだけ胸を張った。
「私が作りました」
「それは見ればわかるよ」
「でしょうね」
マコトが笑った。
その笑い方が、いつもの叔父さんだったので、ジュンコも笑った。
食卓にパエリアを置く。
マコトは椅子に座り、しばらく料理を眺めていた。
「ユウコはね、こういう料理を作ると、必ず写真を撮っていたよ」
「えっ。叔母さんも?」
「撮っていた。撮ったあとで、すぐ食べるんだ。写真なんか撮らなくてもいいのに、と言ったら、記録なんだからって」
「記録……」
ジュンコは、叔母のレシピ帳を思い出した。
分量や手順の横に書かれた、細かな注意。
焦がさないこと。
蒸し汁は捨てないこと。
チリチリと言い出したら、弱火にすること。
それは、ただ料理を作るためのメモではなかったのかもしれない。
誰かに、同じ味を作ってほしかったのだ。
「じゃあ、食べよう」
ジュンコが言った。
マコトは頷き、スプーンを手に取った。
ひと口。
ジュンコも、ひと口。
米に魚介のうまみが染みている。ハーブの香りが鼻に抜け、鶏肉の味も負けていない。
底のほうには、ほんのり香ばしいところもあった。
ジュンコはマコトを見た。
マコトも、ジュンコを見た。
「……おいしいね」
先に言ったのは、マコトだった。
「うん。おいしい」
ジュンコは、もう一口食べた。
マコトも、もう一口。
それから、彼は少し考えるようにして言った。
「ユウコの味と、まったく同じではないね」
ジュンコはスプーンを止めた。
「……うん」
「でも、おいしいよ」
マコトは、もう一度パエリアを口に運んだ。
「これは、これでいい」
ジュンコは笑った。
「よかった。サフラン、高かったんだから」
「そこか」
「そこですよ」
二人で笑った。
窓の外は、もう夕方だった。
食卓には、パエリアがある。
叔母さんはいない。
それでも、叔母さんのレシピを使って、ジュンコが作った料理を、叔父さんと二人で食べている。
マコトが、三口目を食べた。
「おかわり、ある?」
「ありますよ。たくさん食べて」
ジュンコはフライパンを少し叔父のほうへ寄せた。
マコトは、嬉しそうに笑った。
その顔を見て、ジュンコは思った。
料理って、作って終わりじゃないんだ。
誰かが食べてくれる。
そして、「おいしいね」と言ってくれる。
それだけで、作った時間まで、少しおいしくなる。
「ねえ、叔父さん」
「ん?」
「今度は、別の料理も作ってくるよ」
「楽しみにしているよ」
マコトは、今度は迷わず答えた。
ジュンコは、空になりかけたフライパンを見た。
叔母さんのレシピ帳には、まだ、たくさんの料理が残っている。
次は何を作ろう。
考えるだけで、少し楽しくなった。
ちなみに、今回のパエリア。
ドライトマトを入れるのを、すっかり忘れていました。
……おいしかったから、まあ、いいか。
でも、せっかくの叔母さんのレシピですからね。
次に作るときは、ドライトマトを忘れないようにしようと思います。
料理って、こういうこともありますよね。
次は、もっとおいしくできますように。




