第一話 ユウコ叔母さんのレシピ
人は、いなくなってから、その人がどれほど自分の人生の中にいたのかを知ることがある。
矢崎ジュンコは、三十二歳になって、そんなことを思い知らされた。
叔母の鮎川ユウコが亡くなった。
数ヶ月、病気と闘っていた。少しずつ体が弱っていくことは、わかっていた。いつか、その日が来ることも、頭ではわかっていた。
けれど、頭でわかっていることと、本当にその人がいなくなることは、まるで違った。
もう、電話をかけても声が聞けない。
もう、遊びに行っても、あの台所から「ジュンコちゃん、ちょっと食べていきなさい」と呼ぶ声は聞こえない。
もう、何を持っていけば喜ぶだろうと考える必要もない。
そういうことが、一つずつ、取り返しのつかない事実になっていく。
ジュンコは、叔母に可愛がられて育った。
子どものころ、ユウコの家へ行くのは楽しみだった。おいしいものがあったから、というだけではない。叔母は、ジュンコが来ると喜んでくれた。ジュンコの話を聞き、くだらない冗談に笑い、帰るときには、あれも持っていきなさい、これも食べなさいと、あれこれ世話を焼いた。
子どもというものは、愛されていることに慣れてしまう。
自分のために誰かが時間を使い、手間をかけ、食べるものを用意してくれる。それがどれほどありがたいことなのか、当の本人は案外、知らない。
ジュンコもそうだった。
叔母さんの料理はおいしかった。
それが当たり前だった。
大人になってからも、ジュンコは何度もユウコの家で食事をした。料理の作り方を尋ねることもあったが、きちんと覚えようとはしなかった。
「適当よ。味を見ながら作ればいいの」
ユウコは、よくそう言った。
その「適当」が、どれほど長い経験と、何度も繰り返してきた手仕事の上に成り立っていたのか。ジュンコには、まだよくわかっていなかった。
ユウコには、実の娘がいた。
その子は二歳で亡くなった。
ジュンコが生まれるよりも前のことだ。幼い娘を失った叔母が、何を思い、どれほどの年月をかけて、その後の人生を生きてきたのか。ジュンコは、知っているようで、何も知らなかった。
親戚のあいだでは、ユウコがジュンコをひどく可愛がるのは、亡くした娘の面影を重ねているからではないか、と言われることもあった。
そうだったのかもしれない。
違ったのかもしれない。
本人にしかわからないことだ。
ただ、ジュンコは叔母に愛されていた。
その愛情を、疑ったことは一度もなかった。
そして今、ジュンコの母親もまた、妹を失っていた。
ユウコは、母にとって、かけがえのない妹だった。
同じ家で育ち、同じ親のもとで暮らし、いくつもの季節を一緒に過ごした姉妹。その妹が、もうこの世にいない。
母は、ユウコが亡くなってから、寝込むようになった。
ジュンコが電話をかけても、元気のない声で短く返事をする。食事をしたかと尋ねれば、食べたと言う。けれど、実際にはほとんど食べていないこともあった。
「お母さん、ちゃんと食べなよ」
「わかってるわよ」
「わかってる人の返事じゃないんだけど」
そんなふうに言うと、母は少しだけ笑うことがあった。
その笑い声を聞くと、ジュンコはほっとした。
けれど、電話を切ったあとには、また心配になった。
自分だって悲しい。叔母さんに会いたい。あの家へ行けば、もういないのだと思うと、足が遠のきそうになる。
それでも、母のことが気になった。
叔父のマコトのことも気になった。
妻を亡くした男が、長年一緒に暮らした家で、これからどうやって毎日を過ごしていくのだろう。
誰かが亡くなったあとも、朝は来る。
お腹は空く。洗濯物はたまる。冷蔵庫の中身は減っていく。昨日まで二人分だった食事が、一人分になる。
そんな当たり前のことが、時にはひどく残酷に思える。
死んだ人は、もう食べない。
けれど、生きている人間は食べなければならない。
ジュンコは、そのことを考えていた。
食べることは、生きることだ。
そんな大げさな言葉を口にしたいわけではない。おいしいものを食べたからといって、悲しみが消えるわけでもない。温かいご飯を食べたからといって、亡くなった人が帰ってくるわけでもない。
それでも、人は食べる。
誰かのために料理を作ることもある。自分が食べたいから作ることもある。面倒だから買って済ませる日だってある。
そうやって、暮らしは続いていく。
ユウコの葬儀から数日後、ジュンコは叔父の家を訪ねることにした。
何か立派なことをするつもりはなかった。
ただ、顔を見に行こうと思った。
叔母さんが使っていた台所は、まだそこにある。
鍋も、フライパンも、調味料の瓶も、おそらく、いつもの場所に残っているだろう。
あの人が料理を作っていた場所。
ジュンコが何度も、おいしい、おいしいと言って食べたものが生まれた場所。
そして、ジュンコはまだ知らない。
その台所で、叔母の手書きのレシピ帳を見つけることになる。
ページをめくれば、料理の名前と材料と手順が並んでいる。その片隅には、叔母が自分のために書き残した、小さなメモがある。
そこに書かれた言葉は、立派な人生訓でも、誰かを励ますための名言でもない。
ただ、料理を作る人が、料理を食べる人のことを思って書いた言葉だ。
ジュンコは、その一冊を手に取る。
そして、作ってみようと思う。
叔母さんが作ってくれた、あの料理を。
今度は、自分が作る番だ。
うまくできるかどうかは、わからない。
けれど、食べてくれる人がいる。
作ってみたい料理がある。
そして、ジュンコは、まだ生きている。
だから、台所に立つ。
これは、そういう物語である。
大切な人を失ったあとも、私たちは暮らしていく。
笑う日もあれば、泣く日もある。料理を焦がす日もあれば、思いがけずおいしくできる日もある。
人生は、いつも整っているわけではない。
それでも、今日のご飯を作ろう。
明日のことは、明日になってから考えよう。
おいしいものを食べることが、心を元気にしてくれると信じて。
ジュンコの新しい日々は、そこから始まる。
第一話 ユウコ叔母さんのレシピ
ジュンコは、叔母が死んでから、朝ご飯を食べるのが少し苦手になった。
正確に言えば、食べられないわけではない。お腹は空くし、食べればおいしい。トーストを焼き、コーヒーを淹れ、目玉焼きを作る。三十二歳にもなれば、そのくらいのことはできる。
ただ、食べている途中で、ふいに思い出すのだ。
叔母の家の食卓を。
鮎川ユウコは、ジュンコの母の妹だった。
子どものころ、ジュンコは叔母の家へ行くのが大好きだった。行けば何かおいしいものが食べられたし、帰りには、お土産まで持たされた。
「ジュンコちゃん、これも持っていきなさい」
「おばさん、そんなに食べられないよ」
「誰が一度に食べろって言ったの」
「……はい」
そう言って、結局は受け取った。
叔母は、ジュンコを本当によく可愛がってくれた。
そのことを、ジュンコは疑ったことがない。
疑う必要がなかったのだ。叔母はいつも、ジュンコが来ると喜んでくれた。何を食べさせようかと考え、台所に立ち、食卓に料理を並べた。
ジュンコが大人になってからも、それは変わらなかった。
ただ、ジュンコのほうは、少しずつ大人になった。
仕事が忙しい。友達と約束がある。恋人と出かける。休日には家でゆっくりしたい。
叔母の家へ行く回数は、いつの間にか減っていた。
行けば、いつもと同じように迎えてくれた。
だから、また今度行けばいいと思っていた。
数ヶ月前、叔母の病気がわかった。
それから、少しずつ、以前のようにはいかなくなった。
見舞いに行けば、叔母はジュンコの顔を見て笑った。体がつらいはずなのに、食事の心配をした。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
「ならいいけど」
それが、叔母との最後の会話だったわけではない。もっと後にも話したし、もっと普通のことも話した。
けれど、今となっては、何を話したのか、はっきり思い出せないことがある。
思い出せるのは、叔母が自分の食事を心配していたことだ。
人は、いなくなってから、その人が何をしてくれていたのかを、遅れて知ることがある。
ジュンコは、そんなことを考えるようになった。
そして、考えたところで、叔母が帰ってくるわけではなかった。
*
ユウコが亡くなって数日後、ジュンコは母に電話をかけた。
「お母さん、今日、何か食べた?」
「食べたわよ」
「何を?」
「……何だったかしらね」
「ちょっと。食べたものくらい覚えておいてよ」
「うるさいわね。ちゃんと食べてるから」
母は、妹を亡くしてから、寝込むことが増えていた。
姉妹だったのだ。
子どものころから一緒に育ち、親になってからも、何かあれば連絡を取り合ってきた。妹の病気がわかってからは、母も何度も見舞いに行った。
そして、妹はいなくなった。
母の悲しみを、ジュンコはわかっているつもりだった。
けれど、わかっているつもりでいることと、母の代わりに悲しむことは違う。
「お母さん、明日、何か持っていこうか?」
「いいわよ。あんたも忙しいんだから」
「忙しくても、ご飯くらい持っていけるよ」
「大丈夫だから」
母は、そう言って電話を切ろうとした。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「ちゃんと寝てね」
「わかってる」
電話が切れた。
ジュンコは、しばらくスマートフォンを見ていた。
母を元気づける言葉を、何か言えたらよかったのかもしれない。
でも、何を言えばよかったのだろう。
妹を亡くした母に、元気を出してと言うのか。いつまでも悲しんでいないでと言うのか。
そんなことは、言いたくなかった。
悲しいものは、悲しい。
ジュンコだって、叔母に会いたかった。
その気持ちを、誰かに急いで片づけてもらいたいとは思わなかった。
*
翌日、ジュンコは叔父の家を訪ねた。
鮎川マコト。ユウコの夫である。
玄関の扉を開けると、叔父が出てきた。
「おう。来たか」
「うん。急にごめんね」
「いいから、入れ」
家の中は、きれいに片づいていた。
靴もそろっている。居間のテーブルも片づいている。台所には、洗った食器が伏せてあった。
ただ、静かだった。
叔母がいたころ、この家はもっとにぎやかだった気がする。
テレビの音がしていても、台所から水の音が聞こえた。鍋のふたが鳴ったり、引き出しが開いたり、叔母が何かを探して「あら、どこに置いたかしら」と言ったりした。
今は、そういう音がしない。
「おじさん、お昼、食べた?」
「食ったよ」
「何を?」
「……何だったかな」
ジュンコは、思わず笑いそうになった。
「お母さんと同じじゃない」
「お前のお母さんも、そうなのか」
「うん。食べたって言うんだけど、何を食べたか覚えてないの」
「そうか」
叔父は、台所のほうを見た。
「前は、あいつが何を作るか、聞かなくてもわかったんだけどな」
ジュンコは、返事ができなかった。
ユウコがいたころ、マコトは食事のことを心配しなくてもよかったのだろう。台所に行けば、何かができていた。冷蔵庫には、食べるものが入っていた。
それが、ある日から、なくなった。
「……何か、片づけるものある?」
ジュンコは、話題を変えるように言った。
「大したもんはないよ」
「大したもんじゃなくても、片づけるよ」
「じゃあ、そこの棚でも見てくれるか」
ジュンコは台所に入った。
調味料の瓶が並んでいる。鍋も、フライパンも、いつもの場所にある。使いかけの乾燥ハーブの瓶まで、きちんと残っていた。
ここで叔母は料理を作っていた。
当たり前のことなのに、今は、その当たり前が少し違って見える。
ジュンコは棚の中を整理し、引き出しを開けた。
奥に、厚みのあるノートが一冊あった。
淡いクリーム色の表紙。角は擦り切れ、何度も開かれた跡がある。
表紙には、叔母の字で「レシピ」と書かれていた。
「あった……」
ジュンコは、そっと取り出した。
ページをめくる。
肉料理、魚料理、サラダ、スープ。お菓子のページもある。材料と手順が書かれ、ところどころに、後から付け足した小さなメモがあった。
きれいな字もあれば、急いで書いたような字もある。
ページの端に、油の染みがついている。
きっと、料理をしながら開いたのだろう。
ジュンコは、その染みを指でなぞった。
叔母がここにいたことを、確かめるように。
「おじさん、これ、叔母さんのレシピ帳?」
「ああ。そんなのもあったな」
「そんなのって」
「料理のことは、あいつに任せてたからな」
「おじさん、料理しないの?」
「できないわけじゃない」
「じゃあ、何ができるの?」
「……お湯は沸かせる」
「それ、料理に入る?」
「入るだろ」
「まあ、入るか」
ジュンコは笑った。
叔父も、少し笑った。
その短いやり取りのあと、ジュンコはまたノートを開いた。
あるページで、手が止まった。
パエリア。
米、鶏肉、冷凍ミックスシーフード、パプリカ。サフランに白ワイン。ローリエ、ローズマリー、タイム。
材料の下に、叔母の字で、短いメモが書かれていた。
『ジュンコちゃんが来たときに作ること。きっと喜ぶ』
ジュンコは、何度もその一行を読んだ。
「……私、そんなに好きだったっけ」
思わず、口に出た。
「パエリアか?」
マコトが、後ろからのぞき込んだ。
「うん。このメモ、私のために作るって」
「そうだったな。お前が来ると、あいつ、よく何か作ってたよ」
「そうなの?」
「そうだよ。お前が来る日は、朝から台所にいた」
ジュンコは、ノートを見つめた。
朝から。
自分が来るというだけで、叔母は朝から台所に立っていたのか。
自分は、そんなことを知らなかった。
いや、知らなかったというより、考えたことがなかった。
叔母が料理を作ってくれることは、いつものことだった。おいしいと言えば、叔母は笑った。もっと食べなさいと言われれば、もうお腹いっぱいだと答えた。
その向こうに、どれだけの時間があったのか。
ジュンコは、ノートを閉じかけて、また開いた。
「……これ、作ってみようかな」
「パエリアを?」
「うん。私が作って、おじさんに食べてもらう」
マコトは、少し驚いた顔をした。
「お前が作るのか」
「何、その顔」
「いや、作るって言うから」
「私だって料理くらいするよ」
「知ってるよ」
「今、絶対、知らなかった顔した」
「そんな顔はしてない」
ジュンコは笑った。
それから、ノートのページをもう一度確かめた。
材料も、手順も書いてある。
もちろん、叔母と同じ味になるとは限らない。そもそも、同じ味にしなければいけないのかどうかも、よくわからない。
でも、作ってみたいと思った。
叔母が作ってくれた料理を、今度は自分が作る。
それは、何かを取り戻すことではない。
叔母が帰ってくるわけではないし、母の悲しみが消えるわけでもない。叔父が、以前のように暮らせるようになるとも限らない。
それでも、ジュンコは作ってみたかった。
「じゃあ、今度、材料を買ってくるね」
「おう。楽しみにしてる」
マコトは、いつもの調子で答えた。
ジュンコはノートを大事に抱えた。
帰り際、もう一度、台所を振り返った。
鍋も、フライパンも、そこにある。
叔母はいない。
そのことは、どうしたって変わらない。
けれど、叔母が残したものまで、なくなったわけではなかった。
*
翌日、ジュンコは買い物に出かけた。
米、鶏肉、冷凍ミックスシーフード、パプリカ、白ワイン。
買い物かごに材料を入れ、スパイス売り場へ向かう。
サフランの小瓶を見つけ、値札を見た。
「……サフランって、やっぱり高いなあ」
数グラムで千円以上。
普段の料理では、まず買わない。改めて見ると、なかなかのお値段だった。
ジュンコは少し考えてから、瓶をかごに入れた。
叔母のレシピに書いてある。
それなら、ちゃんと使ってみよう。
家に帰ると、ジュンコは買ってきた材料を台所に並べた。レシピ帳を開き、必要な手順を確認する。
冷凍ミックスシーフードは牛乳に浸しておく。約十分。そのあと、さっと洗って水気を切る。
魚介は白ワインとタイムで蒸し、蒸し汁を取っておく。
にんにくは、包丁の背で軽くつぶす。みじん切りにはしない。
オリーブオイルでにんにくと鷹の爪を温め、香りが出たら取り出す。焦がさないためだ。
そこへ鶏肉と生米を入れ、炒める。
サフランを戻した液、白ワイン、魚介の蒸し汁を加え、塩と胡椒で味を調える。ローリエ、ローズマリー、タイムも忘れずに。
手順を追っていると、ページの端に小さな文字が見えた。
『フライパンがチリチリと言い出したら、弱火にする』
ジュンコは、その一行を声に出して読んだ。
「チリチリ……」
叔母は、何度もこれを作ったのだろう。
火にかけたフライパンの音を聞きながら、次の手順を決めていたのだろう。
レシピ帳には、そういうことが書かれている。
数字だけではわからないこと。実際に作って、失敗したり、うまくいったりしながら覚えてきたこと。
ジュンコは、ページを指で押さえた。
叔母に、もう一度、作り方を聞くことはできない。
けれど、ここに書いてある。
ジュンコはエプロンをつけた。
「よし」
まずは、魚介を牛乳に浸すところから。
パエリア作りは、始まったばかりだった。




