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『美味しいゴハンは、心を元気にできるって、信じてる。』  作者: 東曌


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1/7

プロローグ キッパリお別れ

【あらすじ】


三年間付き合った恋人と、あっさり別れた。


矢崎ジュンコ、三十二歳。


恋愛感情なんて、とっくに薄れていた。結婚の話はいつも先送り。会うのも連絡するのも、いつの間にか惰性になっていた。


だから、別れを引き延ばす理由もなかった。


「女の三年は、長いんだよ」


そう言って電話を切ったジュンコは、冷蔵庫の餃子を焼くことにした。


餃子に罪はない。


そんなある日、亡くなった叔母の家を片づけていたジュンコは、一冊の手書きのレシピ帳を見つける。


そこには、パエリア、トマトのファルシェ、ほうれん草とサーモンのキッシュ、ウナ卵焼き、クワイご飯――作ったことのない料理が並んでいた。


パエリアのページには、叔母の字で一言。


「ジュンコちゃんが来たときに作ること。きっと喜ぶ」


「……作ってみようかな」


ところが、最初の難関は料理の腕前ではなかった。


サフランが、とんでもなく高いのである。


「……サフラン、高っ!」


こうしてジュンコの、週に一度の料理挑戦が始まった。


失敗もする。材料費に驚く。思いどおりにできない日もある。それでも、自分で作った料理は、案外おいしい。


親友と食べれば、なおさら楽しい。


叔母が残したレシピを頼りに、ジュンコは少しずつ、自分の好きな味を見つけていく。


失恋を乗り越えるための料理ではない。


誰かに好かれるための料理でもない。


食べたいから作る。おいしいから、また作る。


美味しいゴハンは、心を元気にするって、信じてる。


これは、三十二歳のジュンコが、おいしいものと新しい日常を手に入れていく、ちょっと騒がしくて、ちょっとお腹のすく物語。



【登場人物紹介】



◾️矢崎ジュンコ

三十二歳。本作の主人公。


三年間付き合った恋人とは、恋愛感情が薄れたまま惰性で交際を続けていた。別れを決めるときも、必要以上に感傷的にはならない。


さっぱりした性格で、言いたいことはわりとはっきり言う。おいしいものには目がないが、料理の腕前はまだまだ発展途上。


叔母のレシピ帳を見つけたことから、週に一度、書かれた料理を作ってみることにする。


料理を通して人生を学ぼうとしているわけではない。単純に、食べてみたいのだ。


そして、食べるからには、おいしく作りたい。



◾️西野アカネ

ジュンコの親友。


気取らず、遠慮がなく、ジュンコとは何でも言い合える仲。ジュンコが料理を始めると、いつの間にか試食係に収まっている。


褒めるときは褒めるが、気になることは口にする。おいしいものを前にすると、友情よりも二切れ目を優先しそうになることもある。


ジュンコが失敗しても、深刻な顔で慰めたりはしない。


「それ、食べられるの?」


そんな一言から、二人の食卓はにぎやかになる。



◾️ジュンコ叔母 鮎川ユウコ

ジュンコが幼いころから、会いに行くたびにたくさんの料理を作ってくれた女性。


すでに亡くなっているが、手書きのレシピ帳を通じて、ジュンコの日常に再び登場する。


レシピには材料や分量だけでなく、ちょっとしたコツや、ジュンコの好みに関するメモも残されている。


若いころ、幼い娘を亡くした経験がある。ジュンコに娘の面影を重ねていたのではないかと、周囲が話したこともあった。


けれど、ジュンコにとって確かなのは、叔母が自分の好きなものを覚え、自分のために料理を作ってくれたということ。


その愛情は、立派な言葉ではなく、レシピの余白に残っている。



◾️佐伯直人

ジュンコが三年間付き合っていた元恋人。


交際当初は恋人らしい時間を過ごしていたが、次第に関係は惰性になり、結婚の話も具体化しないまま時間が過ぎていった。


別の女性と食事をしている写真をきっかけに、ジュンコから別れを告げられる。


物語は、彼との別れを引きずらない。直人はジュンコの人生の一章であり、これから始まる物語の中心ではない。


 西野アカネは、友達思いの女である。


 少なくとも、本人はそう信じている。


 友達が困っていれば助けたい。傷ついていれば慰めたい。知らないところで損をしていたら、教えてあげたい。


 そして、友達の恋人が別の女と食事をしていたら。


 もちろん、知らせてあげなければならない。


 たとえ、その写真を撮ったあと、料理が冷めるまでスマートフォンを握りしめていたとしても。


 たとえ、送信ボタンを押すまでに、文章を三回書き直したとしても。


 アカネは、悪いことをしたとは思っていない。


 だって、友達のためなのだから。


 土曜日の午前十時十二分。


 矢崎ジュンコのスマートフォンに、一枚の写真が届いた。


 レストランのテーブル。


 ワイングラス。


 ソースのかかった、いかにも高そうな料理。


 そして、ジュンコの恋人、佐伯直人。


 その向かいには、見知らぬ若い女が座っていた。


 テーブルの上で、二人の手が触れている。


 写真の下には、短いメッセージ。


『これ、浮気じゃない?』


 ジュンコは写真を見た。


 拡大した。


 もう一度、見た。


 そして、料理に目を留めた。


「……おいしそう」


 そこじゃない。


 アカネが知ったら、きっとそう叫んだだろう。


 そのころアカネは、自宅のソファでスマートフォンを握りしめていた。


 既読がついた。


 まだ返信はない。


 怒っているのだろうか。


 泣いているのだろうか。


 もしかして、直人に電話をかけている?


 アカネは、スマートフォンを置いた。


 五秒後、また手に取った。


 返信が来た。


『ありがと。ちょっと確認する』


 アカネは眉をひそめた。


 ありがと?


 ちょっと確認する?


 もっと、こう、何かないのだろうか。


 ショックとか、怒りとか、信じられないとか。


 親友の恋人が浮気しているかもしれないのだ。


 もう少し、こう……。


 アカネはメッセージを打った。


『大丈夫?』


 すぐに返信が来た。


『まだ何もわからないから』


 アカネは、ため息をついた。


 もちろん、ジュンコが傷つくのは嫌だ。


 嫌だけれど。


 正直に言えば、少しくらいは動揺してほしかった。


 自分が見つけた重大な事実を、ジュンコにも重大な事実として受け止めてほしかったのである。


 アカネは、善意の人だった。


 ただし、友達の人生が平穏無事だと、少しだけ物足りなくなる種類の善意だった。


     *


 ジュンコは、直人に電話をかけた。


「昨日、どこでご飯食べた?」


 それが最初の質問だった。


 直人は、しばらく黙ったあと、会社の人と食事をしたと答えた。


「女の人?」


「……なんで?」


「質問に質問で返さない」


 直人は、別に何もないと説明した。


 手が触れたのは偶然だという。


 ジュンコは、ふうん、と答えた。


 怒鳴りもしなかった。


 泣きもしなかった。


 ただ、直人が説明するあいだ、これまでの三年間を思い返していた。


 最初の一年は、楽しかった。


 会いたかったし、声を聞きたかった。休日の予定を合わせるだけでうれしかった。


 二年目になると、少しずつ変わった。


 会うのは週末。食事をして、映画を見て、帰る。


 連絡は必要なことだけ。


 会えなくても、以前ほど寂しくない。


 それでも、別れる理由はなかった。


 嫌いになったわけではない。


 大きな喧嘩があったわけでもない。


 ただ、好きだという気持ちが、いつの間にか生活の習慣に変わっていた。


 三年目には、会う約束をすることさえ、少し面倒になっていた。


 それでも付き合っていた。


 なんとなく。


 今さら別れるのも面倒だったから。


 結婚の話は、何度か出た。


 しかし、具体的な話になると、いつも先送りになった。


 仕事が落ち着いたら。


 もう少し貯金ができたら。


 また今度、ゆっくり話そう。


 その「今度」は、なかなか来なかった。


 ジュンコは、直人の声を聞きながら思った。


 ああ、私たち、もうずいぶん前から終わっていたのかもしれない。


 今回の写真は、そのことを確認させてくれただけなのだ。


「ジュンコ、聞いてる?」


「聞いてるよ」


「だから、本当に何もないんだって」


「うん」


「信じてくれないのか?」


 ジュンコは、少し考えた。


「直人。私たち、別れよう」


 電話の向こうが静かになった。


「……本気で言ってる?」


「うん」


「三年も付き合ったんだぞ」


 ジュンコは、思わず笑いそうになった。


 三年。


 その数字を、今になって持ち出すのか。


「知ってるよ」


 彼女は、はっきりと言った。


「女の三年は、長いんだよ」


 それきり、直人は何も言わなかった。


 ジュンコは電話を切った。


 泣かなかった。


 窓の外では、洗濯物が風に揺れていた。


 彼女は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。


 餃子がある。


 焼いて食べよう。


 餃子に罪はない。


     *


 そのころ、アカネは再びスマートフォンを手にしていた。


 ジュンコからの返信を待っていたのである。


 やがて、メッセージが届いた。


『別れた』


 アカネは飛び起きた。


 えっ。


 別れた?


 もう?


 写真を送ってから、まだ一時間もたっていない。


 アカネは、すぐに電話をかけた。


「ジュンコ、大丈夫!?」


『うん』


「本当に? 無理してない?」


『してないよ』


「私、黙っていられなかったの。あなたが傷つくと思って。見て見ぬふりなんて、できなかったから……」


『うん。ありがとう』


「ごめんね。こんなこと、知らせたくなかったんだけど」


『うん』


 アカネは困った。


 どうして、こんなに落ち着いているのだろう。


 もっと怒ってもいい。


 泣いてもいい。


 自分に、何か話してくれてもいい。


「……悲しくないの?」


『悲しくないわけじゃないよ。でも、まあ、いいきっかけだったんだと思う』


「いいきっかけ?」


『本当に結婚したいなら、どうにかできたでしょうからね。三年もあったんだし』


 アカネは黙った。


 自分は、ジュンコを救ったのだろうか。


 それとも、ただ背中を押しただけなのだろうか。


 あるいは、友達の恋愛に首を突っ込んで、結果を見届けたかっただけなのだろうか。


 アカネは、そういうことを考えるのが苦手だった。


 だから、最後にこう言った。


「……でも、私、あなたのためを思って言ったんだからね」


『わかってるよ』


 ジュンコは笑っていた。


『ありがとね、アカネ』


 電話を切ったあと、アカネはソファに座り直した。


 友達は、どうやら大丈夫らしい。


 それはよかった。


 よかったのだが。


 アカネは、スマートフォンの写真をもう一度開いた。


 料理が目に入った。


「……これ、どこの店だろう」


 調べようと思った。


 友達のために、ではない。


 純粋に、おいしそうだったから。

「食べる事は、生きる事で、誰かと、美味しいねって、言い合うのは、ほんとに、もっと、心に、美味しい事だからね」


私は、ユウコ叔母さんの言葉を思い出していた。

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