プロローグ キッパリお別れ
【あらすじ】
三年間付き合った恋人と、あっさり別れた。
矢崎ジュンコ、三十二歳。
恋愛感情なんて、とっくに薄れていた。結婚の話はいつも先送り。会うのも連絡するのも、いつの間にか惰性になっていた。
だから、別れを引き延ばす理由もなかった。
「女の三年は、長いんだよ」
そう言って電話を切ったジュンコは、冷蔵庫の餃子を焼くことにした。
餃子に罪はない。
そんなある日、亡くなった叔母の家を片づけていたジュンコは、一冊の手書きのレシピ帳を見つける。
そこには、パエリア、トマトのファルシェ、ほうれん草とサーモンのキッシュ、ウナ卵焼き、クワイご飯――作ったことのない料理が並んでいた。
パエリアのページには、叔母の字で一言。
「ジュンコちゃんが来たときに作ること。きっと喜ぶ」
「……作ってみようかな」
ところが、最初の難関は料理の腕前ではなかった。
サフランが、とんでもなく高いのである。
「……サフラン、高っ!」
こうしてジュンコの、週に一度の料理挑戦が始まった。
失敗もする。材料費に驚く。思いどおりにできない日もある。それでも、自分で作った料理は、案外おいしい。
親友と食べれば、なおさら楽しい。
叔母が残したレシピを頼りに、ジュンコは少しずつ、自分の好きな味を見つけていく。
失恋を乗り越えるための料理ではない。
誰かに好かれるための料理でもない。
食べたいから作る。おいしいから、また作る。
美味しいゴハンは、心を元気にするって、信じてる。
これは、三十二歳のジュンコが、おいしいものと新しい日常を手に入れていく、ちょっと騒がしくて、ちょっとお腹のすく物語。
【登場人物紹介】
◾️矢崎ジュンコ
三十二歳。本作の主人公。
三年間付き合った恋人とは、恋愛感情が薄れたまま惰性で交際を続けていた。別れを決めるときも、必要以上に感傷的にはならない。
さっぱりした性格で、言いたいことはわりとはっきり言う。おいしいものには目がないが、料理の腕前はまだまだ発展途上。
叔母のレシピ帳を見つけたことから、週に一度、書かれた料理を作ってみることにする。
料理を通して人生を学ぼうとしているわけではない。単純に、食べてみたいのだ。
そして、食べるからには、おいしく作りたい。
◾️西野アカネ
ジュンコの親友。
気取らず、遠慮がなく、ジュンコとは何でも言い合える仲。ジュンコが料理を始めると、いつの間にか試食係に収まっている。
褒めるときは褒めるが、気になることは口にする。おいしいものを前にすると、友情よりも二切れ目を優先しそうになることもある。
ジュンコが失敗しても、深刻な顔で慰めたりはしない。
「それ、食べられるの?」
そんな一言から、二人の食卓はにぎやかになる。
◾️ジュンコ叔母 鮎川ユウコ
ジュンコが幼いころから、会いに行くたびにたくさんの料理を作ってくれた女性。
すでに亡くなっているが、手書きのレシピ帳を通じて、ジュンコの日常に再び登場する。
レシピには材料や分量だけでなく、ちょっとしたコツや、ジュンコの好みに関するメモも残されている。
若いころ、幼い娘を亡くした経験がある。ジュンコに娘の面影を重ねていたのではないかと、周囲が話したこともあった。
けれど、ジュンコにとって確かなのは、叔母が自分の好きなものを覚え、自分のために料理を作ってくれたということ。
その愛情は、立派な言葉ではなく、レシピの余白に残っている。
◾️佐伯直人
ジュンコが三年間付き合っていた元恋人。
交際当初は恋人らしい時間を過ごしていたが、次第に関係は惰性になり、結婚の話も具体化しないまま時間が過ぎていった。
別の女性と食事をしている写真をきっかけに、ジュンコから別れを告げられる。
物語は、彼との別れを引きずらない。直人はジュンコの人生の一章であり、これから始まる物語の中心ではない。
西野アカネは、友達思いの女である。
少なくとも、本人はそう信じている。
友達が困っていれば助けたい。傷ついていれば慰めたい。知らないところで損をしていたら、教えてあげたい。
そして、友達の恋人が別の女と食事をしていたら。
もちろん、知らせてあげなければならない。
たとえ、その写真を撮ったあと、料理が冷めるまでスマートフォンを握りしめていたとしても。
たとえ、送信ボタンを押すまでに、文章を三回書き直したとしても。
アカネは、悪いことをしたとは思っていない。
だって、友達のためなのだから。
土曜日の午前十時十二分。
矢崎ジュンコのスマートフォンに、一枚の写真が届いた。
レストランのテーブル。
ワイングラス。
ソースのかかった、いかにも高そうな料理。
そして、ジュンコの恋人、佐伯直人。
その向かいには、見知らぬ若い女が座っていた。
テーブルの上で、二人の手が触れている。
写真の下には、短いメッセージ。
『これ、浮気じゃない?』
ジュンコは写真を見た。
拡大した。
もう一度、見た。
そして、料理に目を留めた。
「……おいしそう」
そこじゃない。
アカネが知ったら、きっとそう叫んだだろう。
そのころアカネは、自宅のソファでスマートフォンを握りしめていた。
既読がついた。
まだ返信はない。
怒っているのだろうか。
泣いているのだろうか。
もしかして、直人に電話をかけている?
アカネは、スマートフォンを置いた。
五秒後、また手に取った。
返信が来た。
『ありがと。ちょっと確認する』
アカネは眉をひそめた。
ありがと?
ちょっと確認する?
もっと、こう、何かないのだろうか。
ショックとか、怒りとか、信じられないとか。
親友の恋人が浮気しているかもしれないのだ。
もう少し、こう……。
アカネはメッセージを打った。
『大丈夫?』
すぐに返信が来た。
『まだ何もわからないから』
アカネは、ため息をついた。
もちろん、ジュンコが傷つくのは嫌だ。
嫌だけれど。
正直に言えば、少しくらいは動揺してほしかった。
自分が見つけた重大な事実を、ジュンコにも重大な事実として受け止めてほしかったのである。
アカネは、善意の人だった。
ただし、友達の人生が平穏無事だと、少しだけ物足りなくなる種類の善意だった。
*
ジュンコは、直人に電話をかけた。
「昨日、どこでご飯食べた?」
それが最初の質問だった。
直人は、しばらく黙ったあと、会社の人と食事をしたと答えた。
「女の人?」
「……なんで?」
「質問に質問で返さない」
直人は、別に何もないと説明した。
手が触れたのは偶然だという。
ジュンコは、ふうん、と答えた。
怒鳴りもしなかった。
泣きもしなかった。
ただ、直人が説明するあいだ、これまでの三年間を思い返していた。
最初の一年は、楽しかった。
会いたかったし、声を聞きたかった。休日の予定を合わせるだけでうれしかった。
二年目になると、少しずつ変わった。
会うのは週末。食事をして、映画を見て、帰る。
連絡は必要なことだけ。
会えなくても、以前ほど寂しくない。
それでも、別れる理由はなかった。
嫌いになったわけではない。
大きな喧嘩があったわけでもない。
ただ、好きだという気持ちが、いつの間にか生活の習慣に変わっていた。
三年目には、会う約束をすることさえ、少し面倒になっていた。
それでも付き合っていた。
なんとなく。
今さら別れるのも面倒だったから。
結婚の話は、何度か出た。
しかし、具体的な話になると、いつも先送りになった。
仕事が落ち着いたら。
もう少し貯金ができたら。
また今度、ゆっくり話そう。
その「今度」は、なかなか来なかった。
ジュンコは、直人の声を聞きながら思った。
ああ、私たち、もうずいぶん前から終わっていたのかもしれない。
今回の写真は、そのことを確認させてくれただけなのだ。
「ジュンコ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「だから、本当に何もないんだって」
「うん」
「信じてくれないのか?」
ジュンコは、少し考えた。
「直人。私たち、別れよう」
電話の向こうが静かになった。
「……本気で言ってる?」
「うん」
「三年も付き合ったんだぞ」
ジュンコは、思わず笑いそうになった。
三年。
その数字を、今になって持ち出すのか。
「知ってるよ」
彼女は、はっきりと言った。
「女の三年は、長いんだよ」
それきり、直人は何も言わなかった。
ジュンコは電話を切った。
泣かなかった。
窓の外では、洗濯物が風に揺れていた。
彼女は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
餃子がある。
焼いて食べよう。
餃子に罪はない。
*
そのころ、アカネは再びスマートフォンを手にしていた。
ジュンコからの返信を待っていたのである。
やがて、メッセージが届いた。
『別れた』
アカネは飛び起きた。
えっ。
別れた?
もう?
写真を送ってから、まだ一時間もたっていない。
アカネは、すぐに電話をかけた。
「ジュンコ、大丈夫!?」
『うん』
「本当に? 無理してない?」
『してないよ』
「私、黙っていられなかったの。あなたが傷つくと思って。見て見ぬふりなんて、できなかったから……」
『うん。ありがとう』
「ごめんね。こんなこと、知らせたくなかったんだけど」
『うん』
アカネは困った。
どうして、こんなに落ち着いているのだろう。
もっと怒ってもいい。
泣いてもいい。
自分に、何か話してくれてもいい。
「……悲しくないの?」
『悲しくないわけじゃないよ。でも、まあ、いいきっかけだったんだと思う』
「いいきっかけ?」
『本当に結婚したいなら、どうにかできたでしょうからね。三年もあったんだし』
アカネは黙った。
自分は、ジュンコを救ったのだろうか。
それとも、ただ背中を押しただけなのだろうか。
あるいは、友達の恋愛に首を突っ込んで、結果を見届けたかっただけなのだろうか。
アカネは、そういうことを考えるのが苦手だった。
だから、最後にこう言った。
「……でも、私、あなたのためを思って言ったんだからね」
『わかってるよ』
ジュンコは笑っていた。
『ありがとね、アカネ』
電話を切ったあと、アカネはソファに座り直した。
友達は、どうやら大丈夫らしい。
それはよかった。
よかったのだが。
アカネは、スマートフォンの写真をもう一度開いた。
料理が目に入った。
「……これ、どこの店だろう」
調べようと思った。
友達のために、ではない。
純粋に、おいしそうだったから。
「食べる事は、生きる事で、誰かと、美味しいねって、言い合うのは、ほんとに、もっと、心に、美味しい事だからね」
私は、ユウコ叔母さんの言葉を思い出していた。




