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第三章 2話 しあわせの香り

気がつけば時計の針はお昼を回っていた。


午前中は途切れることなくお客様が訪れ、厨房も売り場も慌ただしかった。


けれど、その波もようやく落ち着き始める。


最後のお客様を見送った僕は、エプロンで手を拭きながら店内を見渡した。


「よし。落ち着いてきたから、お昼ご飯にしよう」


すると、売り場の片づけをしていた優里ちゃんが、ぱっと顔を上げる。


「はい、シェフ!今日の賄いは何ですか?」


その目は期待で溢れていた。


「今日は、ほうれん草と玉ねぎのクリームパスタだよ」


「やったー!」


優里ちゃんは両手を小さく上げて喜んだ。


「さくらさん、休憩しましょう!」


そう言いながら、足取り軽く休憩室へ向かう。


棚からお皿を取り出し、フォークを並べる姿は、まるで遠足前の子どもみたいだ。


その様子に思わず笑みがこぼれる。


すると少し遅れて、さくらさんも休憩室へ入ってきた。


「お疲れ様です。休憩いただきます」


ふわりと微笑みながら、頭を下げる。


朝から立ちっぱなしで働いていたはずなのに、その表情に疲れは見えなかった。


リュミエールで過ごす時間そのものを、さくらさんは楽しんでくれている。


それが伝わってきて、なんだかとても嬉しかった。


フライパンにバターを落とす。


じゅわっと音を立てながら、溶けたバターが底一面に広がり、続けていれた玉ねぎを優しく包み込んだ。


木べらでゆっくり混ぜながら、僕は隣の席に座るさくらさんへ声をかける。 


「さくらさん、本当にパティスリーで働くの、初めてですか?あまりにも完璧過ぎて、びっくりしましたよ」


僕と優里ちゃんが感心した目で見ていると、さくらさんは少し照れたように笑った。


「シェフや優里さんのご指導のおかげです。ありがとうございます」


そう言って頭を下げた後、今度は不思議そうに首を傾げる。


「ところで、・・・賄いって何ですか?」


優里ちゃんが僕の向かいの席に座りながら説明する。


「六時間以上働くシフトの時は、途中でお昼休憩をとるんです」


テーブルに並べられたフォークを整えながら、笑顔で続けた。


「普段は交代で休憩するんですが、今日みたいに落ち着いている時は、シェフがお昼ご飯を作ってくれるんですよ」


「へえ・・・」


さくらさんの目が少し大きくなる。


「すごい。シェフはケーキだけじゃなくて、お料理も作れるんですか?」


きらきらした眼差しで見てくる。


「全然すごくないですよ」


フライパンの中で、透き通り始めた玉ねぎを混ぜる。


「お客様がどのタイミングでご来店してくださるか分かりませんからね。サッと作れる簡単な物ばかりです」


そう言いながら、生クリームを加える。


ふわりと立ち上る湯気。


溶けたバターと甘く炒められた玉ねぎの香りが混ざり合い、休憩室いっぱいに広がっていく。


殺風景な部屋が、その香りだけで別の場所になった気がした。


「私、お菓子やお料理が作れる男性って素敵だと思います」


そう言って、さくらさんがこっちを見つめる。


やわらかな微笑みは、まるで春の陽射しそのものだ。


思わず視線を逸らしそうになる。


こんなにも美しい人に真っ直ぐ褒められる機会なんて、そうそうない。


「あっ、シェフ、ひょっとして照れた?きゃ~。シェフ、さくらさんに照れちゃってる」


「そ・・・そんな訳ないだろ」


慌ててパスタを皿に盛りつける。


「ほら、出来たよ・・・ボナペティ」


話を強引に終わらせようとしたけれど、優里ちゃんは楽しそうに笑っていた。


「フフフ、本当に仲良いですね。お二人」


「そんな事ないですよ」


優里ちゃんは首を横に振った。


「私、妹みたいに思われているんです。ね、シェフ?」


「妹というか・・・ちゃんと可愛い一人の女性として見てるよ」


「なっ・・・!」


優里ちゃんの動きが止まる。


一瞬遅れて、その頬がみるみる赤くなった。


「きゅ・・・急に変な事言わないでくださいよ・・・」


目を泳がせながら慌てている。


「さくらさんも気を付けて下さいね・・・シェフって、たまに変な事言うから」


「変な事言ったか?」


「変ですよ!」


その慌てぶりに思わず笑ってしまう。


優里ちゃんは昔からこうだ。


明るくて、人懐っこくて、誰とでも仲良くなれる。


きっと病院へ勤め始めても、直ぐに周囲の溶け込み、みんなの人気者になるだろう。


そう考えると嬉しい反面、少し寂しい気持ちもあった。


もうすぐ、この光景も当たり前じゃなくなる。


だからこそ、今この時間を大切にしたかった。


「さあ、冷める前に食べましょう。さくらさんも手を合わせて下さい。いただきます」


「いただきま~す」


元気な声が休憩室に響く。


窓の外では春の風が木々を揺らし、昼の光が静かに差し込んでいる。


笑顔と湯気に包まれた室内は、まるでひとつの家庭の食卓みたいに温かかった。

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