第三章 3話 それぞれの春へ
数日後、3回の研修期間を終えて、さくらさんは正式にリュミエールのスタッフとなった。
長年パティスリーで働いてきたかのような素晴らしい仕事ぶりで、優里ちゃんからの教えを瞬時に完全コピーしたかのような動きで接客をしてくれた。
英会話教室を開いている事も活きて、海外のお客様の接客も、とても流暢な言葉で対応してくれた。
驚いたのは英語だけでなく、フランスやイタリアからこられたお客様に対しても臆する事無く、それぞれの言語で丁寧に対応してくれた。
「さくらさん。英語以外の言葉も話せるの?」
お客様を見送ったさくらさんが振り返る。
「はい。大体の国の言語は話せます」
さらりと言う。
あまりにも自然な口調だったから、一瞬聞き間違えたのかと思った。
「すごいですね」
思わず感心する。
「いっぱい勉強されてきたんですね」
すると、さくらさんは少し困ったように笑った。
「いえ、そうでもないですよ」
謙遜だと思った。
けれど、さくらさんはゆっくり首を横に振る。
「言語を話したり、文字を書いたり読んだりは出来ます。でも・・・」
その視線が真っ直ぐこっちへ向く。
「シェフのように、同じケーキのレシピを、その場の環境に合わせて瞬時に変化させるなんて出来ません」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
「料理だってそうです」
柔らかな笑顔を浮かべる。
「さりげなく私の体調を見ながら、その日によって塩分や酸味のバランスを変えてくださっているでしょう?」
「気付いていたの?」
「もちろんですよ」
窓から差し込む午後の日差しが、さくらさんの髪を優しく照らしている。
「私は、ある程度出来上がった情報をインプットする事はできます」
穏やかな口調。
けれど、その瞳には確かな敬意が宿っていた。
「でも、シェフみたいに臨機応変に細部まで変化させることは苦手です」
熱い日は、少し塩味を強くする。
疲れていそうなら酸味を加える。
食欲が落ちていそうなら、香りを工夫する。
それを、見ていてくれた人がいた。
その事実が少し嬉しかった。
「だから・・・」
さくらさんが微笑む。
「これからも、色々と教えてくださいね」
真っ直ぐな瞳。
春の陽射しみたいな笑顔。
綺麗だと思う。
同時に可愛いとも思う。
その両方を向けられると、どうにも調子が狂う。
「こちらこそ」
僕は照れ隠しのように笑った。
「色々と学ばせてください」
そう答えてから、足早に厨房へ戻る。
背中に視線を感じたが、振り返る勇気はなかった。
きっと今の僕は、少しだけ照れたような顔をしている。
近くの公園の桜も、少しずつ花を咲かせ始めていた。
―そして。
その日もまた静かに近づいていた。
数日後。
「お世話になりました。」
頭を下げながら大きな声で優里ちゃんが言った。
今日で優里ちゃんはここを辞める。
来週からはポートアイランドにある市民病院で、看護師として働くのだ。
本当によく頑張ってくれた。
忙しいハロウィンもクリスマスもバレンタインも。
優里ちゃんは常に笑顔で働いてくれた。
きっと、病院に勤めてからも即戦力となって、立派な看護師さんになってくれるに違いない。
「こちらこそ、お世話になりました。優里ちゃん、出会えて良かった。本当にありがとう」
そう言いながら僕も頭を下げる。
リュミエールの前には、柔らかな春の陽射しが降り注いでいた。
見上げれば、店先の桜はちらほらと花を咲かせ始めている。
「私も出会えて良かったです。四年間、とても楽しかったです」
優里ちゃんはそう言って微笑んだ。
けれど、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「さくらさん、これからシェフの事、よろしくお願いします」
冗談めかして言おうとしたのだろう。
それでも最後の方は、少しだけ声が震えていた。
隣に立つさくらさんが、優しく頷く。
「はい。分かりました。精一杯働かせていただきます」
さくらさんの瞳にも、涙が滲んでいた。
「短い期間でしたが優里さんと働けて楽しかったです。ありがとうございました」
言葉を終えたあと、さくらさんはそっと頭を下げた。
春の風が三人の間を通り抜ける。
その瞬間だった。
張り詰めていたものが、ぷつりと切れる。
その様子を見ていた僕は、我慢していた涙腺が一気に崩壊した。
視界が滲む。
慌てて顔を背けるけれど、次から次へと涙が溢れてくる。
「え・・・シェフ?」
優里ちゃんが目を丸くした。
「もう・・・大人なんだから、泣かないで下さいよ・・・」
困ったように笑いながら言う優里ちゃんの瞳も、涙で揺れている。
「・・・泣いてないよ。泣く分けがないだろう・・・」
声が情けないほど震えた。
「・・・めちゃくちゃ泣いてるじゃないですか・・・」
優里ちゃんが泣きながら笑う。
その笑顔を見たら、余計に涙が止まらなくなった。
「見るなよ・・・」
僕は目元を乱暴に拭う。
「早く行きな。引っ越しのトラックが待ってるぞ・・・」
店の前に停まったトラックのエンジン音が、妙に遠くに聞こえた。
優里ちゃんは何かを言いかけて、やめる。
代わりに小さく笑って頷いた。
そんな僕ら二人の様子を見ていたさくらさんが、肩を震わせている。
次の瞬間、涙が溢れ。
ついにはその場にしゃがみ込んでしまった。
「別れといっても、同じ神戸市内にはいるんだから、またすぐに会えるよ」
僕は涙を拭いながら笑った。
「・・・新しい職場で辛い事があったらすぐに来なよ。ここはいつでも優里ちゃんの第二の家だ」
リュミエールの看板を見上げる。
この店で過ごした四年間。
笑った日も、失敗して落ち込んだ日も、全部ここにある。
「リュミエールは優里ちゃんの第二の故郷だからな・・・」
優里ちゃんは唇をきゅっと結び、小さく頷いた。
「・・・分かりました」
涙を拭いながらも、それでも笑顔を作る。
「辛い事がなくても、ふらっと遊びに来ます。本当にありがとうございました」
そして、何かを思い出したように顔を上げる。
「言い忘れてましたけど・・・」
少しだけ照れたように笑う。
「シェフの作るケーキは世界一美味しいですよ・・・」
泣きながらも、優里ちゃんは真っ直ぐ僕の目を見ていた。
四年間。
一緒に働いてきた時間が、走馬灯のように頭をよぎった。
「ありがとう・・・これからも、そう言ってもらえるように頑張り続けるよ・・・」
声が震える。
それでも、なんとか笑顔を作った。
「じゃあ、またな・・・」
優里ちゃんは返事の代わりに、大きく頷いた。
少しの間、その場に立ち尽くす。
春の風が吹き抜ける。
店先の桜が揺れた。
やがて、優里ちゃんは深く頭を下げた。
今までで一番綺麗なお辞儀だった。
そして振り返り、ゆっくりと歩き出す。
トラックの助手席に乗り込む姿が見えた。
ドアが閉まる音。
エンジンが唸りを上げる。
ゆっくりと動き出したトラックは、リュミエールの前を離れていく。
エンジン音が遠ざかっていく。
角を曲がれば、もう見えなくなる。
そう思った瞬間だった。
気づけば僕は、店の前を飛び出していた。
「シェフ・・・」
後ろで、さくらさんが何か言った気がした。
けれど、耳には入らない。
春の風を切りながら、道路際まで駆け寄る。
遠ざかっていくトラックに向かって、僕は大きく手を振った。
「ありがとうーーーー!」
声が掠れる。
それでも構わず叫んだ。
「頑張れよーーー!」
溢れる涙で視界が滲む。
それでも目を離したくなかった。
「負けるなよーーーー!」
そのまま見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。
通りを歩いていた人達に驚いた様子で見られていたが、そんな事どうでも良かった。
言えなかった想いと、優里ちゃんの明るい未来へ願いを込めて。
僕は、ずっとずっと手を振り続けた。




