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第四章 1話 新しい日常

優里ちゃんを見送った日から、季節は少しずつ前へ進んでいた。


近くの公園の桜の木は満開になっていた。


幼い頃から春になると、必ず眺めている大好きな桜の木。


そよ風が吹くと、優しく花びらが舞い落ちる。


言葉が出ないほどの美しさだ。


この桜が大好きだった父と母に写真を送ってあげたい。


そう思ってアースウオッチをカメラ機能に設定し、構図を調整していた時に、背中をトントンとされた。


「シェフ、おはようございます」


聞き慣れた優しい声に振り替える。


そこには、満開の桜にも負けないほどの美しさを持つさくらさんが立っていた。


淡い朝陽を浴びた横顔。


風に揺れるさらさらのロングヘア。


優しく微笑むその姿に、一瞬だけ言葉を忘れてしまう。


「さくらさん・・・おはようございます」


「綺麗ですね。駅から歩いてくる時に、遠くからも見えていました。近くで見ると、さらに綺麗ですね。フフッ」


そう言って、さくらさんは嬉しそうに桜を見上げた。


その瞬間、そよ風が吹き抜ける。


長い髪がふわりと揺れ、桜の花びらが何枚か肩の周りを舞った。


薄紅色の桜に包まれながら微笑む姿は、まるで春そのものだった。


青空を背景に咲き誇る桜。


その下に立つさくらさん。


あまりにも美しすぎて、まるで一枚の絵画のように見える。


僕はそこから、少しだけ距離を取った。


満開の桜の下。


花びらの舞う景色を見上げながら微笑むさくらさん。


あまりにも綺麗で、気が付けばシャッターを切っていた。


小さな電子音に気付いたのか、さくらさんがこっちへ振り返る。


「・・・何されてるんですか?」


きょとんとした表情で首を傾げる。


「いや・・・あまりにも綺麗だったので、思わず写真を撮っちゃいました・・・すみません」


そう言うと、さくらさんは目を丸くした後、ふわりと微笑んだ。


「え?いいえ。こんなに綺麗なんだから、撮りたくなりますよね」


そう言いながら、桜の枝へそっと手を伸ばす。


細く長い指先が花びらに触れると、風が吹き抜け、薄紅色の花びらがひらひらと舞った。


(・・・綺麗なのは、桜もあなたも両方です)


そんな言葉が喉元まで込み上げる。


だけど、さすがに恥ずかしくて口には出来なかった。


「あ、もう九時過ぎてます。開店準備しなきゃ」


そう言った次の瞬間だった。


さくらさんが僕の手をひょいと掴む。


「急ぎましょう」


満面の笑みを浮かべると、そのまま店の方へ小走りに駆け出した。


「え・・・、ちょっ・・・」


突然の出来事に戸惑いながらも、引かれるまま足を動かす。


細くて華奢な手。


だけど、触れた瞬間に少し驚いた。


冷たい。


血が通っているのか心配になるくらい冷たくて、思わずその手を見つめてしまう。


(朝の空気で、冷えちゃったのかな・・・)


そんな事を考えているうちに、さくらさんはぱっと手を離した。


春の風が、二人の間を通り過ぎる。


数歩先を走るさくらさんの髪が、朝陽を受けてさらりと揺れた。


「今日も綺麗にお掃除して、お客様をお迎えしましょうね」


と振り返ったさくらさんが、にっこりと微笑む。


春の暖かな陽射しが人の姿になったら、きっとこんな表情をするだろう。


そう思ってしまうほど、その笑顔は柔らかくて眩しかった。




 優里ちゃんがリュミエールを卒業してからしばらくは、


「優里ちゃん、元気にしてますか?」


「看護師さんのお仕事、頑張ってるのかしら」


そんな言葉をお客様からいただくことも少なくなかった。


長く愛されていたスタッフだっただけに、寂しそうな表情を見せるお客様も多かった。


だけど、有難いことに、さくらさんの優秀な接客のおかげで店は変わらず賑わっていた。


明るい笑顔。


お客様一人ひとりの顔や好みを覚える記憶力。


気が付けば、たくさんのお客様が、さくらさんとの会話を楽しみにご来店してくださるようになっていた。


引っ越しや入学祝い。


入社の挨拶用ギフト。


母の日の贈り物。


次々と入る注文に追われるうちに、春は足早に過ぎていく。


桜並木はいつの間にか新緑へ変わり、


ゴールデンウイークが終わり、


雨粒が窓ガラスを叩く梅雨を越え、


気付けば伊川谷には夏の日差しが降り注いでいた。

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