第四章 2話 夏のはじまり
「シェフ、おはようございます。今日も暑くなりそうですね」
「さくらさん、おはようございます。すっかり夏本番ですね」
自然の残る伊川谷では、夏になると朝から蝉が一斉に鳴きだす。
木々の間を振るわせるその大合唱をうるさいと言う人もいるけれど、僕はあの鳴きを聞くと、不思議と体の奥から力が湧いてくる。
むせ返るような暑さの中でさえ、どこか心地良く感じられるので、好きな夏の風物詩のひとつだ。
「すっかりショーケースの中も夏仕様になりましたね」
扉のガラスを丁寧に拭きながら、さくらさんが話す。
「そうだね。これからの季節は、こういったジュレ系が主流になるんだ。タルトやスポンジのタイプのケーキよりも、喉を通りやすくて見た目も涼し気なジュレが人気になるからね」
「なるほど。季節に合わせて変化していくんですね。あ、でもチーズケーキだけは残ってる。このケーキは夏も継続ですか?」
「ああ、それは昔からの一番人気だからね。父が考案したケーキなんだ。今は僕なりに少しだけアレンジを加えてスクエア型からドーム型に変わったんだけど、下がベイクドチーズケーキで、上がレアチーズケーキっていう構成は同じなんだ」
「へえ、そうだったんですね。私、このチーズケーキ大好き」
ショーケースの一番端に陳列されたチーズケーキを指さして、弾けるような笑顔で話すさくらさん。
「このチーズケーキ、春夏秋冬で季節限定のバージョンでも出そうかと思ってるんだ。夏はマンゴー風味とか、秋はかぼちゃ風味とか・・・」
カウンターを拭きながら何気なく口にすると、
「わあ、素敵。良いですね」
さくらさんが、ぱっと表情を明るくした。
「シェフって天才ですね。フフッ」
「いやいや、褒めすぎです」
思わず苦笑いする。
「まだアイデアだけですから。これから具体的に試作を重ねていきますね」
「楽しみにしています」
そう答えたさくらさんは、拭き掃除を終えたテーブルの横で、タオルを丁寧にたたんでいた。
窓から差し込む日差し。
その光を受けた横顔は、驚くほど透明感があった。
夏だというのに、色白な肌は雪のように白く、
長い髪は艶やかに肩へ流れている。
涼やかな微笑みを浮かべる姿からは、不思議と夏の暑さを感じない。
その姿を見ていると、ふと春の日を思い出す。
優里ちゃんが卒業した頃。
店の中にぽっかり空いた穴が、思っていた以上に大きかった。
―だけど
その寂しさを埋めようと、無理をしたことは一度もない。
気付けば、いつもそこにさくらさんがいてくれたからだ。
忙しい日も。
落ち込む日も。
お客様の笑顔が溢れる日も。
変わらず隣で微笑み続けてくれた。
胸の奥に温かな感謝が広がる。
言葉だけでは伝えきれないほどの感謝。
その気持ちを、僕らしい方法で伝えたいと思った。
厨房の棚に視線を向ける。
そこには、まだ誰にも話していない新作のレシピノートが置かれている。
僕は、ある一つの特別なケーキを作ろうとしていた。
それから数日。
試作と調整を繰り返しながら、少しずつ理想の形に近づけていく。
厨房の窓から差し込む日差しも、すっかり夏の強さを帯びていた。
そして迎えたある日の休憩時間。
休憩室に広がる香りを確かめながら、僕は売り場のほうへ声をかけた。
「さくらさん、賄い出来ました。休憩にしましょう」
「は~い、ありがとうございます。良い香りがしますね」
奥から弾むような声が返ってくる。
振り返ると、さくらさんが嬉しそうな笑顔を浮かべながら、こちらへ歩いてきた。
その足取りはどこか軽やかで、これから賄いを食べることを心から楽しみにしているのが伝わってくる。
さくらさんは食器棚から皿を取り出し、冷たい水を注いだグラスと一緒にテーブルへと運んだ。
そして、いつものように席を整えはじめる。
僕の席。
斜め向かいの席。
その二つに並べると、僕の向かい側の席には何も置かない。
まるで、そこに誰かが座るのを待っているみたいに。
そこは、優里ちゃんが座っていた席。
さくらさんは一度もそこへ座ろうとしなかった。
理由を聞いたことはない。
だけど、なんとなく分かる気がする。
優里ちゃんがいつでも“ただいま”と帰ってこられるように。
そんな想いがこめられているのだろう。
そういう何気ない優しさに、僕は何度も救われている気がした。




