第四章 3話 穏やかな変化
「今日は無花果と生ハムのカチョペです。温かいうちにどうぞ」
お皿をテーブルに置くと、さくらさんの瞳がぱっと輝いた。
「わあ・・・美味しそう。いただきます」
さくらさんは両手を胸の前で、そっと合わせる。
どんなにお腹が空いてる時でも、それを忘れたことはない。
慌てて食べることもなく、一口ずつ味わうように料理と向き合う。
上品にフォークでパスタをくるりと巻き取り、口へ運ぶ。
ふわりと湯気が立ち上る中、しばらくゆっくりと噛みしめていたさくらさんの表情が、少しずつほころんでいく。
そして、次の瞬間。
夏の日差しに負けないくらい眩しい笑顔が咲いた。
「とっても美味しいです。すごいですね、シェフ」
頬を緩ませながら微笑むさくらさん。
幸せオーラ全開で、見ているこっちまで嬉しくなる。
フォークを使う仕草一つとっても丁寧で、どこか品がある。
口元にソースが付かないように気を付けながら食べる姿を見ていると、つい見惚れてしまった。
「カチョペって何ですか?」
さくらさんは、食べていた口元をそっと手で隠しながら尋ねた。
「あぁ・・カチョペはイタリア語でカチョ(チーズ)とペペ(黒コショウ)を意味するシンプルなパスタです。ピリッとした味わいがお酒にも合いますよ」
「へぇ・・・」
さくらさんは感心したように頷く。
「シェフってなんでも知ってますね。カチョペ・・・。インプットしました」
そう言いながら、少しの間、宙を見つめる。
「何でも知ってる訳じゃないよ。本で読んで覚えただけ。でも、インプットって、さくらさん面白いね」
「あっ・・・」
さくらさんの頬が少し赤くなる。
「変な表現しちゃった。ごめんなさい」
恥ずかしそうに視線を落とし、肩をすくめる。
その姿は、いつもの落ち着いたさくらさんとは少し違って見えた。
ふと、さくらさんの視線が僕の手元へ向く。
「その神戸マラソン2046って描かれたカップ、可愛いですね」
そう言われて、自分のマグカップを見下ろした。
「ああ、これね」
マグカップを軽く持ち上げる。
「去年初めてフルマラソンに出た時に買ったんだ。気に入ってずっと使ってる」
白い陶器のマグカップの表面には細かな水滴が並び、窓から差し込む夏の日差しを受けて小さく光ってる。
さくらさんはマグカップに視線を向けたまま、小さく首を傾げた。
「・・・マラソンって、たくさん走りますけど、気持ち良いんですか?」
純粋な疑問を口にするような声だった。
「う~ん・・・しんどいんだけど、楽しいかな」
言葉にしようとしても、なかなかうまくまとまらない。
「こればっかりは、うまく伝えれないな。やってみた人にしか分からないかも」
すると、さくらさんは少し眉を寄せた。
まるで、難しい問題でも考えているみたいに。
「たくさん走る楽しさは、未経験だと分かりづらい・・・」
視点を宙に向けて、ぼそぼそと呟くさくらさん。
何に対しても真剣に受け止めたいんだなと、その真面目ぶりに感心する。
「そういえばシェフ」
さくらさんが思い出したかのように、不意に尋ねる。
「朝に来られていた妊婦のお客様に、何かお渡ししていましたよね」
何のことだろうと思ったが、すぐに思い当たる。
「ああ、あれはポルヴォローネだよ」
僕はマグカップを置きながら答えた。
「アンダルシア地方のお菓子で“幸せを呼ぶ”っていう言い伝えがあるんだ。赤ちゃんにも、ご家族にも幸せが届くようにプレゼントさせてもらったんだ」
さくらさんの瞳が少し大きくなる。
「へえ・・・素敵ですね」
「レシピも自分なりにアレンジしてるんだ」
「アレンジ?」
「卵や小麦粉を使わずに、牛乳と米粉に変えてるんだ。アレルギーの事も考えると、その方が安心でしょ?」
そう言うと、さくらさんは静かに頷いた。
窓から差し込む夏の光が、その横顔を柔らかく照らしている。
「良いですね・・・そういうの」
ぽつりと呟く声は、どこか温かかった。
「私がそんなことされたら、嬉しくて泣いちゃうかも」
さくらさんが、こっちを見つめる。
綺麗な二重まぶたの奥にある澄んだ瞳。
冗談を言っている様子はなく、本気でそう思っているのが伝わってきた。
不意に胸の奥が落ち着かなくなる。
僕は思わず視線を逸らし、マグカップに手を伸ばした。
冷たい水滴が指先に触れる。
「パティシエは、黙々と厨房でお菓子を作るのだけが仕事じゃないからね」
少しでも平静を装うように、言葉を続ける。
「お菓子には、人を幸せにする力があると思っているんだ」
窓の外では夏の日差しが揺れている。
店の前を通る人の話し声が、かすかに聞こえた。
「お菓子を通じて笑顔が広がっていけば、パティシエとして最高にうれしいな」
言い終えて視線を戻すと、さくらさんは静かに僕を見ていた。
そして
「・・・やっぱり、シェフの下で働いて良かったです」
と、ふわりと微笑む。
桜の花が咲いたみたいな笑顔。
柔らかくて、優しくて。
見ているだけで、心がほどけていく。
まだ出会ってそれほど経っていないのに、その笑顔を見ると安心する。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
自然と口元が緩む。
「・・・で、今日はデザートも・・・」
そのときだ。
コンコン。
不意に勝手口の方からノックの音が響いた。




