第三章 1話 咲きはじめた桜
気がつけば、あの夜から数日が経っていた。
開店準備を終えた店内には、焼き立てのスポンジの甘い香りが漂っていた。
ショーケースには朝から仕上げたケーキが並び、ガラス越しに色鮮やかな姿を見せている。
僕はショーケースの前に立つ二人へ視線を向けた。
「・・・って事で、今日一日、優里ちゃんと一緒に働いてもらいます」
そう言うと、さくらさんは少し緊張した様子で背筋を伸ばした。
「改めまして。春野さくらです」
腰の前で両手を揃え、小さく頭を下げる。
「不束者ですが、精一杯働きますので、よろしくお願いします」
その声は少し硬い。
きっと昨夜は緊張していたのだろう。
そんなさくらさんを見て、優里ちゃんがふっと笑顔になった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
安心させるように微笑む。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
明るい声が店内に響く。
「私もシェフもいますから」
その言葉に、さくらさんの肩から少し力が抜けたのが分かった。
「本当に大丈夫ですのでリラックスして働いてくださいね」
僕は改めてさくらさんへ向き直る。
「分からない事があれば、優里ちゃんにも僕にも、何度でも聞いてください」
「はい。ありがとうございます」
今度の返事は、先ほどよりもずっと自然だった。
店の外へ目を向ける。
朝の日差しがガラス越しに差し込み、町が少しずつ動き始めている。
開店時間だ。
僕は入口へ向かった。
「ではオープンします」
ショーケースの向こうには、少し緊張したさくらさんと、いつも通り元気な優里ちゃん。
その光景に、自然と笑みが浮かんだ。
「優里ちゃん、さくらさん。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
二人の声が重なる。
そして僕は、リュミエールの扉を開けた。
ひな祭りやホワイトデーも終わったこの時期は、繁忙期を駆け抜けた後の少し穏やかな季節。
焼菓子のギフトが動く可能性はあるものの、朝から行列ができるような忙しさにはならないだろう。
僕は厨房に戻り、ご予約分のケーキの仕上げに取り掛かった。
ステンレスの作業台の上にホールケーキを並べる。
朝露を残したまま届いた苺を傷つけないように、丁寧に洗う。
水気を取った果実はひんやりとして、切るたびに甘い香りがふわりと立ちのぼる。
艶やかな赤を一粒ずつ置いていくたび、ケーキが少しずつ表情を持ち始める。
何度も繰り返してきた作業のはずなのに、飾り付けていくこの時間は特別だ。
カランカラン。
「いらっしゃいませ!」
優里ちゃんと、さくらさんの明るい声が重なった。
ケーキを仕上げながら、そっと様子を窺う。
さくらさんは初日だというのに、第一声からしっかり声が出ている。
緊張しているはずなのに、表情は柔らかい。
優里ちゃんが隣にいる安心感もあるのだろう。
ご来店されたのは、近くの畑で野菜を育てている農家の奥様だった。
顔なじみのお客様だ。
「あら、今日は綺麗な人がお二人もいらっしゃるのね~」
奥様が目を丸くしながら笑う。
「はい。私はともかく、とても綺麗な方が研修で入ってくださってるんですよ」
優里ちゃんが、いたずらっぽく笑いながら答えた。
「・・・いや・・そんな・・・優里さん・・・」
さくらさんが困ったように頬を染める。
それでも逃げることなく一歩前へ出ると、背筋を伸ばした。
「春野さくらです。宜しくお願いします」
そう言って、深々と頭を下げる。
その姿に目を引かれた。
綺麗だからではない。
真面目さが、その一礼だけで伝わってきたからだ。
きっと、お客様一人ひとりを大切にしようとしている。
そんな人柄が、自然と滲み出ていた。
「へえ・・・こんな美女二人に囲まれてシェフは幸せ者だね~」
奥さまの言葉に、優里ちゃんがくすっと笑う。
さくらさんは、さらに顔を赤くしていた。
その後、さくらさんは優里ちゃんに教わりながら仕事をこなしていった。
最初こそ少し緊張していた様子だったけれど、時間が経つにつれて驚くほど自然に店に馴染んでいった。
ショーケースの後ろでは、お客様が選んだケーキを丁寧に箱へ納める。
細い指先が迷いなく箱を組み立て、崩れやすいケーキをそっと固定していく姿は、まるで何度も経験してきた人のようだった。
ギフト包装も同じだ。
リボンを結ぶ手元は無駄がなく、包装紙の角まで綺麗に揃っている。
さらに驚いたのは接客だった。
レジの操作を覚えたと思ったら、今度はイートインのお客様を笑顔で席まで案内し、注文を聞き、紅茶を運ぶ。
初めて店に立つ人特有のぎこちなさが見当たらない。
(本当に、今日が初日なんだよな・・・)
しかも、ケーキや焼菓子の説明も完璧だった。
後で理由を聞いてみると、
「デセールを食べながら見ていたら、自然と覚えちゃいました」
と、本人は照れたように笑っていた。
僕が感心していると、厨房に入ってきた優里ちゃんが小声で話してきた。
「シェフ。さくらさんって、以前にどこかのパティスリーで働いていましたか?」
優里ちゃんの視線の先では、さくらさんがお客様へ焼菓子の詰め合わせを手渡している。
「今日が初日とは思えないような働き方なんですよ」
確かにそうだった。
僕も同じことを感じていた。
「いや、未経験って言ってたよ・・・ポテンシャルが高いんじゃないかな?」
すると、優里ちゃんは即座に言った。
「だとしたら、高すぎますよ」
そして少し真面目な顔になり、
「シェフ、このまま本採用するべきです」
と、断言した。
リュミエールの午後の日差しの中で楽しそうに動き回るさくらさんの姿は、もう新人には見えなかった。




