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桜のチーズケーキ ~君と過ごした、桜色の日々~  作者: 雪樹
第二章 客としての彼女
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第二章 3話 お客様では、なくなる日

あの日の会話が記憶に残ったまま、一週間が過ぎた。


日もすっかり暮れ、リュミエールには閉店前の静かな時間が流れていた。


レジ締めを終えた僕は、カウンターの上を片付けながら掃除の準備を進める。


店内にはショーケースの低い駆動音だけが響いていた。


その時だった。


カランカラン。


ドアベルの澄んだ音が静寂を揺らす。


僕は顔を上げた。


ガラス扉の向こうから入ってきたのは、見慣れた女性だった。


「いらっしゃいませ・・・あ、さくらさん」


思わず表情が緩む。


「この時間のご来店は珍しいですね」


さくらさんは少し申し訳なさそうに微笑んだ。


「はい・・・もう閉店時間ですよね。ごめんなさい、こんな時間に・・・」


店内の照明に照らされた横顔は、どこか急いで来たようにも見える。


「いえ、大丈夫ですよ」


僕は首を横に振った。


「気にせず、ゆっくりとお選び下さいね」


その言葉に、さくらさんはほっとしたような表情を見せる。


僕は洗面台へ向かい、もう一度丁寧に手を洗いながら、ふと考える。


閉店間際に来られるなんて、本当に珍しい。


何かあったのだろうか。


そんなことを思いながら、ショーケースの後ろへ回った。




「この時間帯は、ほとんどケーキが残ってないんです」


ガラス越しに並ぶ、数少ないケーキを見ながら言う。


「少なくなっていて、申し訳ありません」


すると、さくらさんは小さく首を横に振った。


「あ、いえ。こちらこそ、すみません・・・」


どこか言いづらそうに言葉を続ける。


「今日は、お話しがあって来たんです・・・」


僕は思わず瞬きをした。


「話・・・ですか?」


ケーキではなく、話。


しかも閉店間際を選んで。


「・・・分かりました」


僕は静かに頷く。


「では、閉店の看板を出して、カーテンも閉めますね。丁度閉店時間です」


外はすっかり夜になり、通りを行く人影もまばらだった。


「どうぞ、カウンター席でお待ち下さい」


さくらさんは小さく会釈すると、いつもの席へ向かう。


僕は扉にカーテンをかけ、入口の札を”クローズ”へ裏返した。


外の景色が隠れると、店内はさらに静かになった。


照明を少し落とし、カウンターへ向かう。


紅茶を一杯用意してから、さくらさんの隣へ立った。


「すみません、お待たせしました」


カップから立ち上る湯気の向こうで、さくらさんが顔を上げる。


「何か、ありましたか・・・?」


「実は・・・前に求人のお話しをされていましたよね」


「え?」


僕は一瞬考えてから頷く。


「あ・・・はい。優里ちゃんと一緒にしましたね」


すると、さくらさんは少しだけ視線を落とした。


まるで言葉を選ぶように。


「あれから色々と考えたのですが・・・」


店内に静寂が落ちる。


遠くで車の走る音が聞こえた。


そして、さくらさんは意を決したように顔を上げる。


「私、スタッフに応募しても良いですか?」


その言葉に、僕は思わず固まった。


「・・・え?」


「こんなに素敵なスイーツを作られる人の側で働いてみたいんです」


さくらさんは、真っ直ぐに僕を見る。


「私、幼い頃からケーキが好きで、いつかケーキ屋さんで働きたいってずっと思っていました」


言葉を重ねるたび、その想いの強さが伝わってくる。


「シェフの作るスイーツは、今まで食べてきた中で一番美味しいと思います」


不意に胸の奥が熱くなった。


それはきっと、パティシエとして何より嬉しい言葉だった。


「・・・なので、精一杯働きますので、お願いします」


そう言うと、さくらさんは席を立ち、深く頭を下げる。


肩から流れ落ちた黒髪がさらりと揺れ、照明の光を受けて艶やかに輝いた。


頬はほんのり赤く染まっている。


緊張しているのだろう。


その姿からは本気でここで働きたいという気持ちが伝わってきた。


ふわり、と甘く優しいシャンプーの香りが届く。


「いやいや・・・頭を上げて下さい」


慌てて手を振る。


「さくらさん、確か明石のほうで英会話教室をされていますよね?」


ようやく顔を上げたさくらさんに尋ねた。


「そちらは大丈夫なんですか?」


「はい」


さくらさんは頷く。


「英会話教室は毎日ではないんです。週に三回だけですし、土日祝日は空いています」


「・・・ご家族に方には相談されましたか?」


店内に静かな空気が流れる。


「新しく仕事を増やすって事は、生活のリズムも変わりますから」


すると、さくらさんは少しだけ微笑んだ。


どこか寂しさを隠すような、穏やかな笑顔だった。


「家族はいません」


その言葉に、僕は思わず口を閉じる。


「私、一人ですから」


窓の外では、街灯の明かりが静かに歩道を照らしていた。


ほんの数秒だったと思う。


けれど、その沈黙は少しだけ長く感じられた。


「・・・分かりました」


僕は静かに頷く。


ここまで真剣な気持ちで来てくれた人には、真剣な気持ちで応えなければならない。


「では、一度お試しとして働いてみますか?」


さくらさんの表情が少しだけ明るくなる。


「一日働いてみて続けられそうかどうか、ご自分で判断してみます?もちろん、その時間分のお給料はお支払いします」


言い終わるか、終わらないかのうちに、


「はい。是非働かせて下さい」


さくらさんの瞳が嬉しそうに輝く。


「シェフも私の仕事ぶりを見て、使えるかどうか判断してください」


「分かりました」


僕はメモ帳を取り出した。


「では、シフトを調整して、改めてご連絡させていただきますね」


ペンを構える。


「ご連絡先をお聞きしても良いですか?」


そこまで言って、ふと気付いた。


「あ・・・アースウオッチ持ってないですよね?」


今の時代、連絡先の交換といえばアースウオッチが当たり前だ。


「はい。でも、家に固定電話があります」


そして、少し楽しそうに微笑む。


「シェフと同じく黒電話ですよ」


「えっ!」


思わず声が大きくなった。


「そうなんですか!?黒電話・・・よく持ってましたね・・・」


今では昭和の資料館などで見かけることのほうが多い。


現役で使っている人なんて、僕以外にいるとは思わなかった。


「はい。レトロで可愛くて」


さくらさんは肩をすくめるように笑った。


「私、オールドスタイルに憧れがあって・・・」


照明に照らされた瞳が、どこか嬉しそうに輝いていた。


「なんだかご縁を感じますね。優里ちゃんが聞いたら、さぞ驚くでしょうね」


僕の言葉に、さくらさんはくすりと笑った。


「そうですね。フフフ」


静かな店内に、鈴の音のような笑い声が響く。




この人はやはり緊張したような表情よりも笑顔が似合う。


黒電話の話で緊張が和らいださくらさんは、再度”よろしくお願いします”と頭を下げて帰って行かれた。


春野さくらさん、初めて聞いた時から良い名前だなと思っている。


桜の花のように綺麗で優しい人だ。


僕は花の中で桜が一番好きだ。


店を出てすぐのところの公園に、毎年鮮やかに咲き誇る桜の木がある。


僕がまだ幼かった頃に、父と二人で手をつなぎながら見たことを昨日のように覚えている。


思えば、あの頃から父のようなパティシエになりたいと決めていたような気がする。


また春になったら、あの桜は咲いてくれるだろうか。


そんな事を思いながら、僕は静かに掃除の続きにとりかかった。


水を含んだモップが床を滑る音だけが響き、店内には淡い余韻だけが漂っていた。

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